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第三章
赤い糸を手繰って
しおりを挟む三階の校舎に上がった荻野新平は微かな違和感を覚えた。どうにも前回ここを訪れた時とは違い、校舎の時間が止まってしまっているような気がしたのだ。
新平の真後ろを歩く中間ツグミは背後を警戒していた。常に冷静であろうとする彼女の呼吸は深い。校舎は何処までも暗闇の中だったが、夜空は満天の星に澄み切っており、窓の多い廊下は満月の仄明かりにうっすらと照らされていた。
「止まれ」
そう新平が低い声を出すと、ツグミは背後に意識を向けたまま足の動きを止めた。凍り付くような静寂が辺りを流れる。絶え間ない心臓の鼓動。黒色のリボルバーを斜め下に構えた新平は周囲の音に警戒を向けているようであり、ツグミは微かな呼吸音すらも漏らすまいと吐く息に意識を集中した。
スッと新平の影が動く。その動きは風に巻かれる砂のようで、舞い散る木の葉のような彼の歩行には音がなかった。ツグミは呼吸を抑えながら必死で新平の後を追い掛けた。
新平の速度が上がっていく。重心を低くした彼の視線は正面に向けられており、ちょうど旧校舎との境目にある階段前で壁に背を預けた彼は、一呼吸の後に、階段下に向かってスミス&ウェッソンM29の長い銃身を構えた。そして、彼は唖然とする。
「お、大宮さん……?」
新平に続くようにして階段に向き直ったツグミは階下へと走り去る黒い影を見た。
「待つんだ!」
新平は銃口を下げると階下の暗闇に向かって駆け出した。それは一見すると冷静な判断を欠いた無鉄砲な行動だった。だが、彼の右手に握られたリボルバーの銃身は一切ブレておらず、彼の歩行は依然として無音である。
闇の底に沈んだ影を追って階段を駆け下りた新平は思わず息を呑んでしまう。二階の廊下と階段の間に壁が立っていたのだ。階段の一段目は完全に闇に呑まれてしまっており、踊り場の窓から差し込む僅かな月の光線が、白い壁の一部をうっすらと光らせていた。
リボルバーを斜め下に構えた新平は壁に拳を叩き付けると声を張り上げた。
「大宮さん! 俺だ! 荻野だ!」
「まさか……」
微かな声が返ってくる。驚愕に打ち震えているかのような、それは女性の声だった。
「新平さん、なの……?」
「そうだ! 俺だ!」
「ああ、ああ、なんてこと……」
「大宮さん、どうして今まで連絡を……。いや、なぜ君がここにいるんだ?」
「新平さん、ごめんなさい……。また、貴方を巻き込んでしまったわ……」
「何を言っている、俺は自分の意志でここにやって来たんだ。英治が、あの野郎がこんな所でくたばるわけねぇんだ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……。新平さん、また巻き込んでしまって、本当にごめんなさい……。でも、私には一人しか助け出すことができないの……」
「大宮さん、まさか君も、英治の野郎を探して?」
「ごめんなさい……。英治クンは、王子はもう救い出せないの……。王子はもう死んでしまったの……」
「な、何を言ってるんだ! 英治が迷い込んだ時代に行けば助けられるじゃないか! そうなんだろ!」
「ごめんなさい、新平さん、本当にごめんなさい……。あたし、もう行かなくちゃ……。あたしはもう、お母さんなの……」
「待つんだ、大宮さん! せめて顔を見せてくれ!」
そう叫んだ新平は黒色の銃口を白い壁に向けた。44マグナム弾薬。それは、熊を撃ち殺せる程の威力を持つ銃弾だった。だが、貫通はすれど、壁を撃ち破ることは出来まい。
それでも新平は構えた。「離れていろ」と背後に向かって声を飛ばす。階段の中腹にいたツグミは慌てて踊り場まで駆け上がると耳を塞いだ。
「新平さん、新平さん、糸を探して」
「なに?」
「赤い糸を手繰って」
「ま、待つんだ!」
足音が離れていく。新平はリボルバーの引き金に指を触れた。
「大宮さん、壁から離れてくれ!」
返事はない。凍り付いたような静けさだ。壁の向こうは既に無人のようだった。
新平は引き金を引いた。鋭い発砲音と共に白い煙が舞い上がる。その強烈な反響音にツグミの心臓が跳ね上がった。暗闇を漂う煙の匂い。新平は平然と二発目の弾を発砲する。
反響音が止むと、また静寂が夜の校舎を包み込んだ。壁に開いた二つの穴の向こうに光はない。
「大宮さん!」
新平は叫んだ。
だが、返事はなかった。
それは、岩が雪崩落ちるような衝撃だった。
舞い上がった上履きの一部が暗い廊下に散らばっていく。呻き声と泣き声。悲鳴はない。やがて静寂が一階の廊下を包み込むと、恐る恐る顔を上げた田川明彦は、目の前の惨状に呼吸を止めた。
「な、なんだよ、これ……」
そう声に出したのは田中太郎だった。作りかけの木剣を片手に、壁の崩れた美術室から顔を出した彼は顔面を蒼白させた。
血に塗れた校舎。女生徒たちの呻き声。廊下を覆い尽くす壁の残骸。
八田英一の怒鳴り声が辺りに響き渡る。その言葉の意味が理解出来なかった太郎は首を傾げる事も出来ず、保健室に向かって走り出した水口誠也の背中を見送ることも出来なかった。
大量の包帯とシーツを胸に掲げた水口誠也が戻ってくる。とにかく動かなければ、と廊下に足を踏み出した太郎は力の入らない下半身によろけてしまい、ふらりと美術室の壁の一部に寄り掛かった。何が起こったのかも、何をすべきかも分からない。それでも深く息を吐いた彼は、よたよたと何度もよろめきながらも、ゆっくりと前に進んでいった。そうして、姫宮玲華の側に横たわる、三原麗奈のアッシュブラウンの髪を見下ろした太郎は目を見開いた。
「おい!」
彼女の左足が無くなっている事にやっと気が付いたのだ。アドレナリンの放出により鼓動が高まると、呆然としたショックから立ち直った太郎は、三原麗奈の太ももを必死に押さえ続ける玲華に向かって声を荒げた。
「玲華さん! 俺はどうすればいい!」
「出口を探して!」
「出口だって?」
「早く! このままじゃ皆んな死んじゃうよ!」
玲華の瞳は涙で溢れていた。彼女自身、どうすればいいのか全く分からなかったのだ。既に三原麗奈の蒼白い頰に生気はなく、溢れ続ける血に玲華の制服は真っ赤に染まっていた。
太郎は駆け出した。外に出る事さえ出来れば皆んな助かるのだ。重傷を負った睦月花子の身体も元通りに治っていたではないか。
そう頷いた太郎は「部長!」と声を張り上げた。だが、最も頼りになる筈の彼女の声は一向に返ってこない。不審に思うも足は止めず、破壊された下駄箱の残骸に苦戦しながら土間に降り立った太郎は、玄関の扉に向かって手を伸ばした。同時に、甲高い悲鳴が辺りに響き渡る。振り返った太郎は息を呑んだ。赤い糸が幾重にも縫われた白い布が暗い廊下をひらひらと舞っていたのだ。
ヤナギの霊だ……。
太郎は咄嗟に身構えた。
作り掛けの木剣を握り締めた彼は足の指先に力を込める。その場にへたり込みそうになったのだ。黒い女生徒の影。それは彼にとってのトラウマだった。
何かが壊れるような音が夜の校舎を木霊する。誰かの悲鳴が太郎の鼓膜を突き抜ける。
太郎は足を震わせた。それでも彼は必死に勇気を奮い起こそうと木剣を握る手に力を込めた。
睦月花子の声は聞こえない。それは、もしかすると彼女の身に何かあったからかもしれない。この目の前の惨劇は彼女がヤナギの霊と戦闘を繰り返した跡かもしれない。万が一にも彼女の身に何かあったのであれば、今度こそ自分が、彼女を助ける為に動かなければならない。
そう思い立った太郎は腹の底から声を絞り出した。そうして、一歩前に足を踏み出した太郎は作りかけの木剣を頭上に振り上げる。それは、激しい轟音と共に校舎が揺れ動き始めるのと同時の出来事だった。
うねりを上げて持ち上がるリノリウムの廊下。床に舞い落ちる白い布。
太郎は片膝をついた。下駄箱の残骸が彼の膝の肉を切り裂く。それでも彼は懸命に木剣を上段に構えた。だが、すぐに彼は動きを止めてしまう。言葉に出来ないような光景が目の前に広がっていたのだ。
廊下が、窓が、壁が、天井が、まるで生き物のように蠢いていた──。
睦月花子は理科室に駆け込んだ。
広い窓の向こうに星はない。夜の理科室に人影はない。無人のそこは先ほどよりもずっと暗く、そして、静かだった。
美術室の壁は破壊されたままだった。廊下を覆い尽くすほどの大量の血は既に乾いてしまっていたが、それほど時間が立っているようには見えない。数刻、もしくは数日ほど、時間がズレてしまっているような感覚だった。
右足に痛みが走る。花子は舌打ちした。
恐らくはヤナギの霊にやられたであろう切り傷。ちょうど太ももの中心と、膝寄りのふくらはぎが円状に裂けており、破れた皮膚からは赤い肉が見えている。だが、骨と筋肉は全くの無事のようで、運動機能に障害はなかった。ただ、血が止まらない。赤く濡れた靴下の気持ち悪さに辟易した花子は、取り敢えず血を止めようか、と理科室を後にした。
美術室の壁の残骸を踏み付けながら保健室の扉を開けた花子はスッと目を細めた。微かな人の気配を感じたのだ。
窓辺の白い花。白い壁に掛かった時計。白いカーテンに囲まれたベッド。
震えたような男の息遣いがベッドの奥から聞こえてくる。軽く首の骨を鳴らした花子はベッドを覆い隠すカーテンを掴むと、それを躊躇なく引き千切った。
「なんだ、アンタか」
そう言った花子は肩を落とした。白い布団に包まった田川明彦がベッドの壁際で震えていたのだ。その様はまるでミノムシのようで、彼の広い額には幾千もの皺が寄っている。恐る恐る顔を上げた明彦は、呆れたような顔をした花子と目が合うと、安堵の涙を流し始めた。
「ば、ば、ば、ばなごぜんばーい!」
涙と鼻水が明彦の頬を伝う。やれやれとため息をついた花子はベッドに背を向けると、何か足の血を止めるものはないか、と保健室の物色を始めた。
「で、田川明彦、いったい何があったのよ」
しばらくの間、ひっくひっくと嗚咽を続けていた明彦は、ベッドのシーツで勢いよく鼻をかむと首を横に振り始めた。
「わ、分かりませんよ。分かるわけないじゃないすか。こっちが聞きたいっすよ!」
「たく、じゃあ皆んな何処に行ったのよ」
「さぁ、あの後バラバラになっちゃって、俺だけ一人取り残されちゃったんで、それからずっと保健室に隠れてたんです」
「あの後って、どの後よ」
「なんか大騒ぎになった時っす。あの時は花子先輩もまだ居たでしょ?」
「ふーん」
新品の包帯と消毒液を見つけた花子はそれを机に置くと丸椅子に腰掛けた。そうして、先ほど引き千切ったカーテンで右足の血を拭うと、適当に消毒液をぶっかけた傷口に包帯を巻き始める。そのあまりの痛々しさに、明彦は頬を引き攣らせた。
包帯を巻き終えた花子はペシンと傷口を叩くと、壁に掛かった丸時計を見上げた。時計は四時三十五分を示してまま止まっている。それを見た花子は唇を尖らせると、ベッドの上の明彦に向かって首を傾げた。
「で、それからどのくらい経ったのよ」
「へ……?」
「あの騒ぎから何時間くらい経ったのかって、聞いてんの!」
「え、ええっと……」
明彦は額に手を当てた。その表情は何処か虚ろで、彼はまだ自分が夢の中にいるのではないかと疑っているようだった。
「いやあ、そうっすね……」
「何よ、まさか一日経っちゃったとか?」
「いえ、たぶん、そっすね。一年くらいっす」
「……は?」
「あの騒ぎから、たぶん、一年くらいは経ってると思います」
そう言った明彦は深いため息をついた。
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