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第三章
足音
しおりを挟む荻野新平は重心を低くした。微かな足音が背後から聞こえてきたのだ。
夜の校舎は暗闇の中にある。ちょうど廊下の曲がり角で壁に背中を預けた新平は、濡れたような光沢を放つ黒色のリボルバーを斜め下に構えた。スミス&ウェッソンM29。万が一にも弾詰まりした場合に備えて、新平は自動式拳銃と共に回転式拳銃を揃えていた。
足音が近づいてくる。衣が擦れるような微かな音だ。ヤナギの霊ではないだろうと新平は考えた。ヤナギの霊であれば足音に気を使うよう真似はしない筈だからだ。それはよく訓練された尾行の為の足音だった。
「動くな」
新平の低い声に、暗闇から現れた影は一瞬動きを止める。黒色のリボルバーの光沢。見せびらかすかのように眼前に掲げられたそれを横手で払いのけた影は、同時に、首元に掲げられた白銀の光沢に息を呑んだ。右手の拳銃はおとりに、新平は左手にナイフを構えていたのだ。
「お、荻野様、私です」
サバイバルナイフの刃が中間ツグミの喉を撫でる。あとほんの少しそれを前に押し出せば、ツグミの柔らかな肉は赤い花が開くように上下に引き裂かれる事となるだろう。それを軽く横に引けば、ツグミの温かな血で夜の校舎は赤い灯火に照らされる事となるだろう。
月明かりの届かぬ廊下の暗がりで、新平の野獣のような眼光のみが青白く光っていた。無表情というわけではない。微かに口角を上げた新平は何やら楽しげな表情をしていた。
「わ、私です。中間ツグミです」
「ああ、分かっている」
「で、では、なぜ」
「お前が次にどう動くのか、興味があるからだ」
「ど、どう動く、とは……?」
「尾行のスキルは未熟だった。だが、お前は対象を見失わなかった。この不可解な空間で、俺を見失う事なくここまで尾行を続けたお前に少し興味が湧いたのだ」
そう微笑んだ新平はさらにナイフを前に押し出した。冷たい刃の感触。絶え間ない血の流れがツグミの頸動脈を震わせる。その鼓動でナイフが皮膚を破ってしまわないか。そんな恐怖に思考が止まりそうになったツグミは呼吸を浅くした。
「さぁ、どうする。このままではお前は死ぬぞ」
「ま、待って……」
「ナイフの存在を警戒しなかったのは落第点だ。が、こうなってからでも幾らかやりようはある」
「はっ……はっ……」
「どうした、まさか近接格闘術は習ってないのか?」
恐怖に染まったツグミの顔に困惑の色が浮かび上がる。その表情に新平は肩を落とした。冷静でなかったのは自分の方だったのだ。才能はあれど、中間ツグミは民間人だった。彼女に軍隊格闘の経験などある筈もなく、一般人の、それもまだうら若い女性の首元にナイフを当ててしまった事への罪悪感が、ほんの僅かに彼を後悔させた。だが、このまま彼女を解放するのもあれだなと、そう考えた新平は彼女の耳元にそっと唇を寄せた。
「首を前に出せ」
その言葉に中間ツグミは固まってしまう。その瞳に光る涙に新平は深いため息をついた。
優しげな声を出したつもりだったのだ。だが、彼の発する音は温かな聖母のそれとは対極のものであり、また、その言葉の意味もおよそ優しさとはかけ離れたものだった。
「た、助けて、ください……」
「いいかよく聞け。ナイフが首に当たった時点で、お前の敗北は確定している。だが、お前はまだ死んでいない。つまりナイフを当てた相手は、まだお前を殺すつもりがないという事だ」
「こ、殺すつもりがない……?」
なんとか頭を働かせようと、中間ツグミは浅い呼吸を繰り返した。
「首に当てられたナイフに対して、どのような対処が出来るか。この状態での反撃は死を意味する。だが、このまま何もせずとも、お前が迎える結末は悲惨なものとなり得るだろう。お前が考えるべきは相手の心理だ。首に当てたナイフを動かさないという事は、お前をすぐに殺すつもりはないという事だ。だが、殺すつもりはなくとも、ナイフが首を擦ればお前は死んでしまうだろう。だからお前が首を前に出せば、それに合わせて相手はナイフを下げる。そうして素早く首を後ろに下げたお前の皮膚と刃の間に隙間が出来る。そこに指を差し込んで、刃の動きを抑えろ」
「はっ……はっ……」
「さぁ、やってみろ」
そう新平が低い声を出すと、ツグミはゆっくりと首を前に出し始めた。恐怖に震えながらも、彼女は思考を止めなかったのだ。
ほんの数ミリ、慎重に慎重に、首を前に出したツグミは勢いよく頭を後ろに下げた。そして、十分な隙間のない刃と首の間に腕をねじ込もうとする。あまりにも未熟で拙い動きだ。だが、新平は微笑んだ。ナイフを十分な距離に離してやった新平はそのまま動きを止めると、モゾモゾと新平の手首を掴もうとするツグミの手首を逆に捻じ上げた。ツグミが苦しそうな呻き声を上げると、彼女を廊下に離した新平は笑い声を上げた。
「次からは捕まらないように気をつけろ」
その言葉に頷いたツグミは、フラフラと足を震わせながらもなんとか立ち上がった。まだ二十歳を迎えていない女とは思えない素晴らしい気概である。顎髭に指を当てた新平は嬉しそうに微笑むと、腰のベルトに挟んであった自動式拳銃をツグミに手渡した。
「これを持ってろ」
「は、はい……」
グロッグ17。外観はプラスチックの玩具のようである。おずおずとそれを受け取ったツグミはその予想外の重さに肝を冷やした。
「本物ですか……?」
「ああ、セーフティは外してあるから、安易に引き金には触れるな」
低い声だった。思わず拳銃を落としそうになったツグミは肩に力を込める。その場にへたり込みそうになるのを堪えながら、ツグミは拳銃を新平に返した。
「わ、私には扱えません」
「そうか」
そう頷いた新平は特に何もいう事なく腰のベルトに拳銃を挟み直した。そうしてまた顎髭を撫でた新平は「ところで──」と、ツグミを見下ろしながら目を細めた。その眼光の鋭さにツグミは俯きそうになってしまう。
「なぜお前がここにいる」
「荻野様を追えと、言われたもので……」
「お前は、この状況においてもまだ、橋田徹の指示の下で動き続けるつもりなのか?」
「い、いえ、先ほど英一様に言われたのです。荻野様を追ってくれと」
「ほぅ」
新平は意外そうな顔をした。
「英一様には四人の学会員と、あの鬼が付いております。ただ、あまり長い時間は持たないかもしれません。荻野様、早く彼らの元に戻りましょう」
「お前一人で戻れ、そして英一に伝えろ、俺を置いてここを脱出しろと」
「そんな……」
「俺にはやる事がある。それを終えるまではここを出るつもりはない」
「ご友人を、お救いになるおつもりですか?」
「そうだ」
「で、ですが、たとえご友人を発見なされたとしても、その後にここを出られる保証はないのではありませんか?」
「ああ、保証はない。だが、外に出る方法は必ずある」
そう言った新平は白銀のナイフを腰のホルスターに仕舞った。黒色のリボルバーの残影。一瞬迷いを見せたツグミは首に手を当てると、夜闇の底へと消えていく新平の影を追って走り出した。
甲高い絶叫が夜の校舎に響き渡る。
重なり合った声は誰のものか判断が付かず、一階の理科室の前は阿鼻叫喚の嵐に包まれていた。
「王子! 王子!」
姫宮玲華の悲痛な叫びが誰かの悲鳴に飲み込まれる。両目を抑えた大久保莉音が、アスファルトで身を焦がすミミズのように体をくねらせると、右腕を失った大野木詩織が廊下に嘔吐した。
ちょきん──。
舌足らずな少女の声と共に、睦月花子の太ももから血が噴き出す。暗闇に描かれる赤い円。だが、花子の足は落ちなかった。強靭な筋肉で全身を赤く燃やした花子の咆哮が夜の校舎を震わせる。
「顔を上げちゃだめ!」
玲華は必死に声を上げた。玲華の隣では左足を失った三原麗奈が浅い呼吸を繰り返しており、短時間で大量の血を失った彼女の瞳には既に生気がなかった。
視線を下げたまま廊下を踏み締めた花子は、窓の無い美術室の壁に両指をめり込ませた。大岩が崩れるような低い音が暗い校舎を振動させる。そのまま腰を上げた花子は、引き剥がした美術室の壁を持ち上げると、昇降口に向かって投げ飛ばした。天井に、壁に、と弾け飛んだ壁の破片が校舎を破壊していく。
「ざけてんじゃないわよ!」
そう叫んだ花子は壁の後を追うようにして夜の校舎を駆けた。昇降口前の階段付近に小さな影を見たのだ。舌足らずな少女の声はその辺りから聞こえてきた。
ちょきん──。
花子のふくらはぎから血が噴き出す。だが、花子は止まらなかった。「かたいよぉ」という舌足らずな少女の声が耳を撫でる。その声に向かって花子は拳を握り締めた。
ぱんっ──。
それは乾いた布を弾いたような音だった。ぬいぐるみの背中を叩いたような音。その音が花子の鼓膜を叩くと同時に、花子の体が横に吹き飛んだ。何が起こったのかも分からないままに後頭部を押さえた花子の体が下駄箱に衝突する。そのままの速度で玄関の窓ガラスにぶつかった花子は息を吐いた。
「な、なに……?」
フラフラと起き上がった花子は辺りを見渡した。薙ぎ倒された下駄箱の残骸。美術室の壁の破片が昇降口前の廊下を覆っている。多少冷静さを取り戻した花子は下駄箱の残骸の一部を手に取ると、正面の階段に向かって力一杯放り投げた。けたたましい破裂音が一階の廊下に響き渡る。
右足を濡らす血に滑りながらも、土間から廊下に上がった花子は拳を握り締めたまま辺りを見渡した。
だが、既に迷い込んだ者たちの影は消え去った後だった。
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