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第三章
一網打尽
しおりを挟む中間ツグミは探るように目を細めた。
やっと学校に姿を現した荻野新平の雰囲気が午前中とはすっかり変わってしまっていたのだ。完全に気配を消したその歩行は獲物を狙うオオカミのようで、野獣のようなその眼光のみが鋭く尖っている。
いったい何があったのか、いや、いったいこの男は何を警戒しているのか。
中間ツグミは彼の動作を注視した。荻野新平の危険性を理解していたからだ。彼女は彼女の上司である心霊学会幹部の橋田徹から荻野新平の動向を監視するように指令を受けていた。
「荻野様、今までどちらに?」
「お前には関係ない」
にべもなく中間ツグミの言葉を遮った荻野新平の体が校舎の中へと飲まれていく。その様は風に流される木の葉のようだった。
「おい、本当に大丈夫なんだろうな──。ああ、そうだよ、もうすぐ集まる──。ああ、おい、頼んだぞ──」
吉田障子は目を瞑った。
放課後の校舎に流れ込む蝉の声。深く息を吐いた彼は携帯の画面を切ると廊下の壁に背中を預けた。
これは賭けだと吉田障子は思った。成否の予想がつかないと彼は苦悩した。
時間が経つに連れて、その重みが胸に強くのし掛かる。他人に運命を委ねる恐怖。失敗すればただでは済まない。だが、それは舞台に必要な過程だった。
まぁいいさ、と彼は目を開けた。その時はその時だと。その時はその時で、そういう生き方を選べばいいと彼は口元に不敵な笑みを浮かべた。
校舎の一階に降り立った吉田障子は廊下の端を目指した。音の無い歩行。その動作は舞台の上の役者のように洗練されている。
理科室には人が集まっていた。腕を組んだ睦月花子の隣で田中太郎が参考書を広げている。窓辺で青いビー玉を覗き込む姫宮玲華の表情は真剣そのもので、黒板の前では八田英一を中心に心道霊法学会の使者たちが口を紡いでいる。だが、肝心の荻野新平の姿が見えない。吉田障子は舌を鳴らしそうになるのを堪えた。
「おい吉田、何でお前が遅れてんだよ」
壁際で肩を丸めていた田川明彦は、やっと理科室に現れた吉田障子に眉を顰めると、扉の前に立つ彼に向かって手を伸ばした。その手を吉田障子は振り払う。
「あの野郎は何処だ」
吉田障子の瞳には青い炎が揺らめいていた。明彦は思わず息を呑んでしまう。
「あ、あの野郎って?」
「荻野新平とかいうクソ野郎だよ」
「いや、俺に聞かれても……」
「アイツがいねぇと話し合いになんねぇだろうが」
そう言葉を吐いた吉田障子は心を落ち着かせようと目を瞑った。激情に息が乱れる。こればかりが弊害だ、と吉田障子は懸命に自分の感情をコントロールしようと努力した。
「お前がヤナギの霊なのか」
背後からの突然の声に吉田障子の背筋が凍り付く。振り返った吉田障子は、目の前に立っていた荻野新平の野獣のような眼光に激しい恐怖を覚えた。だが、すぐにその感情の渦を胸の奥に押し潰した吉田障子は、口元に冷たい笑みを浮かべると、新平の瞳の奥を睨み返した。
「訳わかんねぇこと言ってんじゃねーよ。遅刻だぜ、おい」
「お前はいったい何なんだ」
そう目を細めた荻野新平は、吉田障子の手首を掴むと肩関節を捻じ上げた。理科室の床を震わせる呻き声。二人の様子を静観していた睦月花子の腕に血管が浮かび上がる。だが、彼女が動くよりも先に、八田英一が声を張り上げた。
「新平!」
荻野新平は動きを止めた。そうして、僅かに頬を緩めた新平は視線を上げると、英一の瞳を真っ直ぐ見つめ返した。
「新平、か。何時迄もボーイのままかと思えば、勇ましくなったな」
「その子を離しなさい」
「分かった」
何やら嬉しそうに口角を上げた新平は、吉田障子の腕の拘束を解くと、彼の身体を床に突き飛ばした。そうして身体の力を抜いた新平は僅かに前傾姿勢を保ったまま理科室の壁に背中をつける。
吉田障子は堪えた。激しい怒りに視界がブレる。だが、彼はその怒りを懸命に堪えて立ち上がった。
「吉田、大丈夫か?」
「ああ、何でもねぇよ」
そう頷きながら立ち上がった吉田障子は不安げな表情をした田川明彦に微笑んでみせた。そして、ゆっくりと理科室を見渡した吉田障子は頬に薬指を当てた。
姫宮玲華。睦月花子。荻野新平。
徳山吾郎の存在が多少気掛かりでもある。だがまた前のように、思わぬ邪魔が入っては敵わない。
「いや、ちょっと待て」
吉田障子は目を見開いた。肝心の三原麗奈の姿が何処にも見当たらなかったのだ。彼女の存在がなければ、このメンバーを集めた意味がない。
「おい田川、麗奈ちゃんは何処だ」
「は?」
「三原麗奈は何処だって聞いてんだよ!」
吉田障子は声を荒げた。既に舞台は動き始めている。それも、彼の予想より遥かに早いペースで。もうこれ以上邪魔者を野放しにするわけにはいかないのだ。何としても今日この場でこのメンバーを舞台から降ろさなければならない。
「み、三原先輩なら、たぶんまだ保健室だよ」
「保健室だって?」
「いやさっきな、大野木先輩が昇降口の辺りで三原先輩を探してたんだよ。で、それを見た三原先輩が慌てて保健室に隠れちゃったってわけ。どうしたんすかって聞いたら、なんか先輩さ、もう演劇部には行きたくないんだってよ」
「へぇ」
それを聞いた吉田障子はほっと安堵の息を吐いた。保健室であれば美術室と準備室を挟んだすぐ隣だ。
「それで、麗奈ちゃんが保健室に隠れた後、紗夜っちはどうしたんだ」
「紗夜っちって、まさか大野木先輩のことか?」
「そうだよ。紗夜っちも殴られた被害者だからさ、話し合いには参加させねぇと」
「そ、それならそうと先に言ってくれよ。大野木先輩、八田先生たちを見た途端すぐに走り去っちまって、ちょっと様子が変だなって思ってたんだよ」
「ああ、はは、それならまぁいいや。じゃあ俺、今から麗奈ちゃんを呼んで来るからよ」
そう片手を上げて廊下に出た吉田障子は理科室を振り返らなかった。三原麗奈が保健室から居なくなっている可能性があり、急いだ方がいいと判断したのだ。
廊下を早足で歩きながら吉田障子は携帯の画面をタップした。そうして保健室に足を踏み入れた彼は、白いベットの上で窓の外を眺める女生徒の肩に手を置いた。
カスミソウの白い花弁が陽に明るい。窓の向こうには青い夏空が広がっている。
三原麗奈は時計を見上げなかった。時間が煩わしかったからだ。動いたり止まったり戻ったりと、その不規則な針の動きが気持ち悪く、保健室に足を踏み入れたその時から麗奈は時計は見ないようにしようと心に決めていた。
「麗奈ちゃん、頑張れよ」
誰かの手が麗奈の肩を包み込む。誰かの声が麗奈のうなじをくすぐる。
ゆっくりと立ち上がった麗奈は辺りを見渡した。いったい自分が何処に居るのかが分からない。いったい自分が誰なのかが分からない。ただ、時計の針だけは見上げなかった。
麗奈は探した。誰かの声を探して麗奈は辺りを見渡した。探さなければと思ったのだ。助けなければと思ったのだ。そんな彼女の手を誰かが引っ張る。猫っ毛のその人の瞳は真冬の夜空のように冷え切っていた。
保健室を後にした麗奈は廊下を見渡した。懐かしい景色は見当たらない。誰かの声も聞こえない。
とにかく、とにかく、とにかく、あの人に会わないと、あの子を見つけないと……。
見覚えのない校舎の先に向かって歩き出そうとした麗奈の手を誰かが引っ張る。「あっちだ」とその人の声は冷たかった。
誰かに背中を押された麗奈は校舎の端に向かって彷徨い始めた。
あの人に会わないといけない。
あの子を探さないといけない。
あの人と一緒にあの子を見つけ出さないといけない。
とにかく、とにかく、とにかく──。
理科室の扉は開け放たれていた。そっと中を覗き込んだ麗奈は見覚えのない教室の眩しさに目を眩ませる。
「王子」と誰かの声が彼女の耳に届いた。聞き覚えのない声だった。だが、その言葉には聞き覚えがあった。
あの人だろうか。あの人が王子と呼んだあの子がここに居るのだろうか。
麗奈は理科室を見渡した。だが、見覚えのあるものは何もない。見覚えのある人は誰もいない。
「王子」と誰かの手が彼女の手を包み込む。見覚えのない女生徒だった。長い黒髪の美しい女生徒だった。ただ、その漆黒の瞳の煌めきには見覚えがあった。決して年老いているというわけではない、かといって若さに溢れているというわけでもない。いつかの時の、何処かの街で出会った懐かしい瞳。その声が私たちの夢を動かしたのだ。その声に私たちは動かされたのだ。
足元から話し声が聞こえてくる。いや、歌声だ。美しい音色が太ももから骨を伝わって髄液を震わせる。
いったい誰の歌だろうか。そう首を傾げた麗奈は無意識にポケットから携帯を取り出した。
それは一学期の終わりの出来事だった。
富士峰高校の生徒五名。心道霊法学会の幹部、幹部候補生七名。
総勢十二人の影が夏の校舎から忽然と姿を消した。
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