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第二章
シダレヤナギの木影
しおりを挟む忍び寄る影に実体はない。
表される輪郭は本当の姿ではない。
夜の影は見えない。
燦々と照り付ける夏の日差し。雑居ビルが並んだ大通りは人で溢れている。歩道の並木は陽光を遮らず、日中の街を歩く人々は一様に顔を影で覆い隠していた。
ビルの隙間を縫った細い路地の向こうには寂れた住宅地が広がっていた。土に埋もれた側溝。雑草の生い茂る狭い公園に人の気配はない。古びた電器屋のベンチで毛並みの良いハチワレ猫が体を丸めて微睡んでいる。
スッと人影が猫の上を通り過ぎた。ピクリと髭を動かした猫は気にせず昼寝を続ける。音が無かったからだ。電器屋を横切った影の歩行は舞台で踊る役者のように洗練されていた。
戦前から続く街の路地は入り組んでいた。車が通れないような小道。ひび割れたコンクリート。
涼しげな風の通り抜ける道の角で立ち止まった影は、そこにひっそりと佇む簡素なカフェの看板を見上げた。喫茶はるの。錆びた取っ手を手前に引いた影は薄暗い店内の奥から二番目の席に腰を下ろす。そうして影は一杯のコーヒーを注文すると、正面の椅子でだらりと肩を落とす陰気な男の瞳を覗き込んだ。
「お前がキザキだな」
「誰だ」
キザキは視線を上げた。冷めたコーヒーの表面が微かに震える。
「客だよ」
そう答えた吉田障子はテーブルに三枚の写真を並べた。オーナーらしき老人が白い湯気の立つコーヒーを吉田障子の前に運ぶと、キザキの乾いた唇に優しげな笑みが浮かび上がる。だが、写真には目を向けようともしなかった。
「この三人の素性を調べてくれ」
「帰れ」
腫れぼったい瞼を前髪で隠したキザキはそう唇だけを動かした。厚いレンズのメガネを掛けた吉田障子は微かに首を斜めに傾げる。
「なぜ?」
「富士峰高校はテスト中だろ」
それは吉田障子に向けられた言葉か、それとも写真の中の三人に向けられた言葉か。
吉田障子は微かに動揺した。だが、その惑いの影が表に出ることはなかった。
「答えになってないぞ」
「田川明彦クンに頼んでくれ」
やはりアイツか、と吉田障子は田川明彦に対して深い失望感を覚えた。
「子供には頼めない仕事なんだ」
「君も子供だろ」
吉田障子は熱いコーヒーを啜った。波立つ水面のような模様のレトロガラスの向こうは薄暗い路地裏である。陰鬱な視線を窓の外に向けたキザキは冷めたコーヒーに手を付けなかった。
「内面の話だ」
「ああ、内面の話さ」
背中を丸めたキザキは何処を見つめるわけでもなくガラスの外を眺め続けた。腫れぼったい目は半開きに、その乾いた唇が濡れることはない。
白いコーヒーカップを栗皮色のテーブルに叩き下ろした吉田障子は左手の薬指を頬に当てた。そうして彼は退屈そうな男の陰気な瞳を睨み下ろす。
「ならコイツらも追加だ」
更に十枚の写真がテーブルの上に散らばると、キザキはやっと視線を落とした。
「なんだ……」
目の前で重なり合う十三枚の写真にキザキの腫れぼったい目が見開かれる。流石に意図を掴みかねたからだ。それらは盗撮されたもののようであり、写真に写されていたのは何処にでもいるような少年少女だった。
「期限は明日のこの時間までだ。それまでにコイツらの素性を調べられるだけ調べ上げろ。家族構成、趣味、性格、宗教。名前は写真の裏に書いてある」
そう言った吉田障子がまたコーヒーカップを掴むと、キザキは目の色を変えた。
「舐めてんのか」
「金は出来次第だ」
「失せろ」
「別にお前の仕事を疑ってるわけじゃない」
「殺すぞ」
低い声だった。夜行性の獣が唸るようなザラついた重低音だ。田川クンが怯えるのも無理ないな、と窓の外に視線を送った吉田障子はゆっくりと深い呼吸を繰り返した。激しい動揺は胸の底に、一切の惑いを瞳に見せず、視線をキザキに戻した吉田障子は気怠げなため息をついた。
「なぁキザキ、退屈なんだろ?」
コーヒーを啜った吉田障子は片方の眉を持ち上げた。そんな彼の瞳の奥を覗き込むようにキザキは目を細める。
「本当の依頼を言え」
「それも出来次第だ」
「なんだと」
「十三人だぞ? 無駄話してる暇なんてあるのか?」
「貴様……」
暫し吉田障子を睨み付けていたキザキは、ハッ、と息を吐き出すと冷めたコーヒーに乾いた唇を浸した。
「いいだろう。ただし、覚えておけよ」
コーヒーを飲み干したキザキはそれをテーブルに叩き付けると、散らばった十三枚の写真を手元に集めた。吉田障子はレトロガラスに映る自分の瞳を見つめる。
「何を?」
「俺の顔を、だ。くだらん依頼だったならば、地の果てまで貴様を追い詰めてこの世の地獄を見せてやる」
「はは、心配すんなって、楽しませてやるから」
「明日、この時間だ」
「ああ、ただしキザキ、テメェも俺を失望させんじゃねーぞ」
吉田障子の瞳は冬の夜空のように冷え切っていた。その表情に翳りはなく、薄い唇の動きは感情のない人形のように冷酷である。
立ち上がったキザキはポケットから丸まった千円札を取り出した。それをテーブルに広げたキザキは色褪せたスーツパンツに手を突っ込む。キザキの影が夏の陽に呑まれると、止まっていた時が動き出したかのように、滑らかなヴァイオリンの旋律が古風な店内を流れ始めた。
吉田障子は白いカップを掴んだ。冷めゆくコーヒーから立ち昇る湯気が暗がりに消えていく。厚いレンズのメガネを外した吉田障子は薬指を頬に当てると、薄くなったコーヒーの香りを静かに楽しんだ。
「二刀流ね」
睦月花子は興味深げに顎に手を当てた。旧校舎裏を流れる夏の風。紺碧の空を背景にシダレヤナギの青葉が体を揺する。
三原麗奈は首を傾げた。言葉の意味がよく分からなかったからだ。
酔っ払いの乙女が動かすたった一枚の王様に玉砕するという屈辱を味わったのは昨夜の事である。その後、何度挑もうとも花子の王様一枚に歯が立たず、勝ち諦めた麗奈は初恋の相手を打ち明けることにしたのだった。
「両刀遣いって意味よ」
「両刀……?」
麗奈は怪訝そうな顔をした。昼時の校庭は下校中の生徒たちの声で溢れている。テスト初日を終えた彼らの表情はまちまちであり、そんな彼らの後ろ姿をヤナギの木影から遠目に眺めた麗奈は、二限目の数学のテストを思い出して頭を振った。
「バイセクシャルだっつってんの!」
くわっと花子の口が縦に開かれる。目を丸めた麗奈は「な……」と言葉を失ってしまった。
「吉田何某! アンタはね、男も女もいける口なのよ!」
「なな、な……な!」
「たく、なかなか面白いじゃないの。まさか憂炎のライバルがモブ女の妹だったなんてね。これは相関図も複雑になるわ」
くっく、と舌舐めずりした花子の頭の中に三原麗奈と田中太郎を中心にした相関図が浮かび上がる。そんな花子に向かって麗奈は「な!」と憤りの声を飛ばした。
昼休みの終わりを告げるチャイムに反応を示す者は少ない。学校に残った生徒の大半はテスト二日目に向けて机に影を落としており、集めた答案用紙を机の脇に置いた教員たちは普段より少し長めのコーヒーブレイクを楽しんでいた。
花子の母に用意してもらった弁当箱を鞄に仕舞った麗奈は照り付ける日差しに目を細めた。もはや完全にテストを諦めてしまっていた麗奈には午後の予定がなく、今日も花子の家に泊めさせてもらえないだろうか、と密かな期待を胸に抱いているところだった。
「麗奈ちゃーん!」
そろそろ帰ろうかと立ち上がった麗奈と花子の耳に聞き慣れた声が届く。「出たわね」と花子が肩を落とすと、麗奈はムムッと眉を顰めた。
「麗奈ちゃーん! 会いたかったよー!」
「なーにが会いたかったよ、アンタが三原麗奈でしょーが」
そう呟いた花子は腕を組んだ。鞄に付いた砂を払った麗奈もキッと目を細める。
正門付近からシダレヤナギの木に向かって手を振る吉田障子の声は信じられないほど大きかった。そんな吉田障子に向かって下校中の生徒たちがヒソヒソとした嘲笑の視線を送っている。その様子が麗奈には非常に恥ずかしく、いったい何故入れ替わった身体でそんな態度が取れるのか、と麗奈は吉田障子の中にいるという三原麗奈本人に対して激しい怒りを覚えていた。
「麗奈ちゃーん! アイラブ……」
突然、吉田障子の腕が空中で止まってしまう。その表情は驚愕に固まってしまっているようであり、麗奈や花子を含めた下校中の生徒たちは何事かと首を傾げた。
「おーい吉田くーん! ちょっと手伝ってくれなーい!」
ハスキーな女性の声だった。そのクールな低い響きに下校中の生徒たちの足が止まる。昇降口からスラリと背の高い女生徒が現れると、立ち止まった生徒たちはうっとりと頬を緩めた。
「アカリだよ──」
「ああ亜香里様、本日もお麗しい──」
「スタイルいいよな──」
「でも、どうして吉田くんを──」
スッと前に出された大場亜香里の長い足が夏の陽を浴びる。柔らかな夏風に靡く黒のショートヘア。そのアーモンド型の大きな目が前方に向けられると、正門前に立ち竦んでいた生徒たちはドギマギと視線を逸らした。
「ねぇ、吉田くんってば、聞いてるの?」
「……え?」
軽快なステップで吉田障子の側に歩み寄った亜香里は腰に手を当てた。そのほっそりとした足を見つめていた吉田障子は慌てて腕を下ろすと姿勢を正した。
「手伝って欲しいことがあるって言ってるの!」
「え? え?」
「ほらほら、ぼーっとしてないで早くこっちに来てよ!」
「えええっ!?」
亜香里の細い指が吉田障子の手を包み込むと、桜並木の青葉を震わせるような騒めきが富士峰高校の校庭を走った。あわわ、と顔を振り回す吉田障子は激しく動揺している様子であり、そんな吉田障子の瞳を覗き込んだ亜香里はクスリと妖艶な笑みをこぼした。
「さ、吉田くん、行きましょ?」
チラリと首を動かした亜香里の瞳が旧校舎のシダレヤナギの木影に向けられる。その挑むような冷たい視線に麗奈は強い恐怖を覚えた。
「アイツ……!」
ギリッと亜香里を睨み返した花子の唇には何やら得意げな笑みが浮かび上がっている。薬指を頬に当てた吉田障子が此方に向かって申し訳なさそうに頭を下げると、花子は「チィ」と舌を打ち鳴らした。
「吉田何某ぃ! 緊急事態よ!」
「え……?」
「ライバルの登場よ! これは相関図がすごい事になるわ!」
「ええ……?」
ふふん、と息を吐いた花子の頭の中に複雑な相関図が組み上がっていく。吉田障子の影が校舎に隠れると、亜香里の冷たい視線を思い出した麗奈は軽く身震いした。
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