王子の苦悩

忍野木しか

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第二章

私は誰

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 三原麗奈は歩いた。
 街を見下ろす空は濁った灰色ではない。道端に並んだ木々は鬱蒼とした青色ではない。朝の陽光に包まれた街は張り板に飾られた紅絹の着物のように鮮やかだった。
 静かな街を学生たちが白と黒に彩る。誰かの影を追って三原麗奈はフラフラと通学路を歩き続けた。朝早くに家を出て行ってしまった三原千夏の姿は何処にもない。
 朧げな記憶。不明瞭な地図。
 彼女は妹か、それとも初恋の人か。この違和感は誰のものか。いったい私は誰なのか。
「麗奈、おはよー」
 誰かの声が麗奈の背中を叩いた。視線を上げた麗奈の瞳に女生徒の薄い唇が映る。左頬に貼られた絆創膏。浄瑠璃人形のような白い肌。
 女生徒は満面の笑みを浮かべていた。だが、その顔に見覚えはなかった。曖昧な微笑みを返した麗奈はまたすぐに視線を下げる。見知らぬ女生徒に興味が湧かなかったのだ。麗奈は誰かの影を探していた。
 ゆらりゆらりと麗奈の影が通学路に揺れる。見覚えのない学校。正門前に並んだ生徒たち。彼らの影は麗奈の視界に入らない。
 見知らぬ女生徒に導かれるようにして回転扉を潜り抜けた麗奈は、正門の向こうに広がっていた光景に圧倒された。真新しい校舎の壁が練絹のような純白の光を放っていたのだ。
 虚ろな表情はそのままに呆然と立ち竦んでしまった麗奈の瞳を女生徒が心配そうに覗き込む。薄桃色の唇。青紫色に澱んだ頰が痛々しい。だが、それでも女生徒は優しげな微笑みを崩さなかった。
「遅いっつーの、モブ女!」
 誰かの怒鳴り声が麗奈のアッシュブラウンの髪を揺らした。校舎の白い壁から視線を落としていった麗奈の瞳に恐ろしい表情をした鬼の姿が映る。うつらうつらとしながらも、その鬼に根源的な恐怖を覚えた麗奈の体が後ろに倒れそうになった。そんな麗奈の体を慌てて支えた女生徒が鬼に向かって何かを叫ぶと、青黒い血管を額に浮かばせた鬼が、のそりのそりとこちらに迫ってきた。
 ま、守らないと……。
 咄嗟にそんな事を思った麗奈は女生徒を庇うようにして両腕を広げた。血管の浮かんだ鬼の腕の先が麗奈のほっそりとした首元に向けられる。もうダメだ、とそう諦めそうになったその時、透き通った男の声が麗奈のうなじをくすぐった。再び視線を上げた麗奈の動きがピタリと止まる。情報の錯乱に一瞬思考が停止してしまったのだ。
 銀白色の校舎を背景に佇んでいたのは長身の男子生徒だった。朝霧に隠れない圧倒的存在感。鮮やかで曖昧だった夢の世界に陽が差すと、やっと正気に戻った三原麗奈は田中太郎のスクエアメガネの奥の黒い瞳にカッと頬を赤らめた。
「おい部長、喧嘩腰になんなよ」
「喧嘩腰なのはコイツらでしょーが!」
「いや、ソイツらは単に警戒してるだけだろ。アンタに凄まれたら誰だって警戒するっての」
「はあん!」
 カッと目を見開いた睦月花子に田中太郎はやれやれと肩を落とした。そんな太郎から目が離せなくなっていた麗奈の肩に大野木紗夜の白魚のような手が触れる。登校中ずっと麗奈の体を支えてくれていた紗夜はその瞳を激しい恐怖と混乱に揺らめかせていた。
「あの……それで睦月さん、いったい麗奈に何の用でしょうか?」
「アンタには関係ないっつってんでしょ! てか、そもそもアンタ誰よ?」
「大野木紗夜です」
「大野木紗夜? ねぇ憂炎、そんな名前の奴この学校にいたかしら?」
「いや、俺に聞かれてもよ」
「……で、麗奈に何の用なんですか?」
「別になんだっていいじゃないの。たく、面倒くさい奴ね」
 やれやれと花子は頭を掻いた。そんな花子を見つめる紗夜の指は震え続けている。
「おいこらモブ女! アンタあの夜の学校で私の手足焼いたこと、まさか忘れちゃいないでしょーね! もしその罪を本気で償いってんなら、今すぐ私に付いていらっしゃい」
 そう腕を組んだ花子の顔にイヤらしい笑みが浮かび上がる。キッと紗夜は目を細めた。
「ダメです!」
「はあん?」
「れ、麗奈は朝練があるので、貴方と行動を共にすることは出来ません!」
「遅刻ギリギリに登校しといてなーにが朝練よ! このアホンダラ!」
「麗奈は部長なの! お願いだからもう麗奈と関わらないで!」
 紗夜の瞳に浮かび上がった涙が朝の光を反射させる。その様子を遠巻きに眺めていた生徒たちは、鬼のような表情をした花子の視線が左右に動くと共に脱兎の如く校舎の中へと飛び込んでいった。
「たく、ほんと何だっつーのよ。つーかモブ女も黙ってないで何か言いなさいよ」
 組んでいた腕を外した花子は面倒くさそうに頭を掻きながら麗奈の元に歩み寄った。花子への激しい恐怖に足を震わせていた紗夜は、それでも親友の麗奈を守ろうとグッと両腕を大きく横に広げてみせた。
「退きなさい」
「いやです!」
「別に取って食やしないっての」
「で、では、いったい何の用なんですか?」
「超研復興の為にそのモブ女の力が必要なのよ」
「ちょうけん……?」
「まぁ別にアンタでもいいんだけどね。てか何で後ろのアンタはさっきから固まったままなの?」
 花子の視線が腕を広げた紗夜の真後ろに向かう。口を半開きにしたまま立ち竦んでいた麗奈は先ほどから一向に動きを見せなかった。正確には前に重ねた両指と栗色の瞳が忙しない動きを見せていたのだが、そんな麗奈の様子を訝しんだ花子の眉の位置が一段下がった。
「まさか私の声が聞こえてないとか?」
「れ、麗奈……?」
 チラリと後ろを振り返った紗夜の表情も不安げである。腰を低くした花子は下から麗奈の顔を覗き込むと、その目の前で手を振ってみた。
「おーい、聞こえてんの? なーにをアンタ抜け殻みたくなっちゃってんのよ。大丈夫なの?」
「麗奈さん、どうしたんだ?」
 中指の先でスクエアメガネの位置を直した太郎が一歩麗奈に近付くと、ピクンと微かに肩を跳ね上げた麗奈の瞳がくるりくるりと前後左右に激しい動き見せ始めた。
「おい麗奈さん、本当に大丈夫なのか?」
 麗奈の肩に向かって太郎の腕が伸びると「ひゃ!」と裏返った声を上げた麗奈の体がエビのように後ろに飛び跳ねた。そんな麗奈の様子に唖然とした紗夜は目を丸めてしまう。太郎の長い指の先が麗奈の肩にとんっと触れると、あわわ、と腰を捻った麗奈は両手を上げて降参するようなポーズをとった。
「だだだ、だ、大丈夫ですので!」
「いや、どう見たって大丈夫じゃねーだろ」
「ほほほ、ほんと、も、もう大丈夫ですので!」
 しゃがみ込んだまま後ろに下がっていった麗奈の額を大粒の汗が伝う。暫しポカンと口を半開きにしていた花子は「はーん」と顎に手を当てると共に、オロオロと栗色の瞳を揺らしながら立ち上がった麗奈の細い肩にサッと腕を回した。
「三原麗奈、いいえ、吉田何某」
「な、なんですか……?」
「アンタ、そういう事だったの」
「そ、そういう事って……?」 
「アンタの恋愛対象ってそっちだったのね」
「そっち?」
「ふふ、大丈夫よ。これでも私、LGBTには理解のある女だから」
「な、なんの話ですか!」
 ニヤニヤと真横を流し見る花子に対して、麗奈はくわっと口を大きく縦に開いた。呆然とした面持ちの紗夜の隣に立った太郎が二人に首を傾げる。
「おい、話は付いたのか?」
「ひゃい!」
「ひゃい……?」
「ふふ、憂炎、アンタも隅に置けない男ねぇ」
「いやアンタら、いったい何をコソコソと話してたんだ?」
「別に何でもないわよ。ただ男同士の恋愛ってやつを、コイツとちょっとね」
「はあ……?」
「ふふふ、私って意外とBLに造詣の深い女なのよ?」
「……部長に腐女子属性とか地獄かよ」
 獲物を捕らえる蛇が如し。
 花子の指が太郎の首に巻き付くと「コッ」と白目を剥いた太郎は意識は夢の中へと落ちていった。


 倉山仁は焦っていた。
 胸を押し潰されるような不快感に彼は吐き気が抑えきれなかったのだ。テスト前は部室で勉強するのが彼のルーティンだった。だが、今の彼には勉強に集中する余裕がない。人けのない新聞部の部室で彼は一人頭を抱えていた。
「ちわーっす」
 突然開かれた部室の扉に、倉山仁の顎の脂肪が大きく縦に揺れた。驚いて顔を上げた彼の瞳に少し背の低い男子生徒の姿が映る。猫っ毛の天パ。胸の辺りまで開けられたボタン。吉田障子の横に開かれた唇に倉山仁は強い警戒心を抱いた。
「だ、誰だよ?」
「お邪魔しまーす」
 ピシャリと扉が叩き締められる。勝手に部室に足を踏み入れた下級生に対して激しい怒りを覚えた倉山仁は勢いよく椅子から立ち上がった。
「お、お前コラッ! 勝手に入ってんじゃねーよ!」
「倉山先輩っすよね?」
「聞いてんのかよ、おい!」
 弛んだ腹を大きく前に逸らした倉山仁は細身の下級生に向かって拳を振り上げた。だが、すぐに彼の体はカチリと凍りついてしまう。簡素な机の上に数枚の写真が散らばったのだ。写真には着替え中の女生徒たちの姿が映されていた。
「いい写真っすよね」
 薬指の先を伸ばした吉田障子は写真の中で笑う女生徒の小ぶりな胸を撫で始めた。だが、倉山仁は何の反応も示さない。パンッと吉田障子が手を叩くと、ビクッと全身の脂肪を震わせた倉山仁はやっと視線を上げた。蔑むように目を細めた吉田障子が「座れ」と親指の先を机に向けると、オドオドと首を捻った倉山仁は彼の指示に従って丸椅子に腰を下ろした。
「倉山先輩はどの子がタイプなんすか?」
「……え?」
 倉山仁の瞳が小刻みに揺れ動く。散らばっていた写真を手元に集めた吉田障子はそれを倉山仁の前に並べていった。脱ぎ捨てられた制服。純白の下着。しどけない姿の女生徒たちの笑顔。
「俺は部長の三原麗奈っす。でも残念ながら麗奈ちゃんの着替えシーンは入ってなかったんすよね。もし持ってたら俺にくださいよ」
「……あ?」
 倉山仁は首を横に振る事さえも出来なくなっていた。そんな彼に向かって吉田障子は冬の夜空のように冷え切った視線を送る。
「おい、テメェ分かってんのか」
 吉田障子の声色が変わると、倉山仁は荒い呼吸を繰り返しながら視線を下げた。
「な……にが……?」
「もう終わってんだよ、テメェは」
「はぁ……?」
「お前さ、焦ったろ。演劇部に仕掛けてたカメラが無くなっててビビったろ。ごめんな、それ俺が預かってんだわ」
「だ……から……?」
「だからじゃねーよ! この盗撮野郎が!」
 ガンッと吉田障子が拳を机に叩き下ろすと、椅子から転げ落ちた倉山仁は床に尻餅を付いた。
「なぁ倉山、これがバレたらどうなるかぐらい、お前でも分かるよな?」
 潰れたゴキブリに向けられるような冷たい眼差しだった。そんな吉田障子の瞳を見上げながら倉山仁は激しく首を横に振った。
「お、お、俺、し、知らな……」
「お前のカメラは俺が預かってるっつったよな?」
「だ、だから……?」
「テメェ、ちょっとは想像してみろや!」
「はっ……はあっ……?」
「盗撮で退学になった奴がまともな仕事に就けると思ってんのか? 親が泣くだけじゃすまねーぞ、おい。例え前科がつかなくてもな、盗撮したテメェの噂なんてすぐ街に広まっちまうんだよ。なぁ倉山、テメェは臭ぇボロアパートと汚ぇ工場行き来するだけの一生を送りてぇのか!」
「あ……うぁ……う……」
「よく聞け、倉山仁。お前には二つの未来が残されている」
「は……あ……ふ、二つ……?」
「一つは盗撮がバレて皆んなに蔑まれながら孤独に死んでいく未来。そしてもう一つはこのまま何事もなく進学して、彼女作って就職して、家族に囲まれながら安らかな余生を過ごす未来だ。どっちがいいかなんて考えなくても分かるよな?」
「はっ……あ、う……」
「いいか倉山、お前の人生を握ってんのは俺だ。だから俺に従え」
「はっ……し、したが……?」
「俺の言う通りに動け。そうすりゃ盗撮の事は黙っといてやる」
「い、言う通りに……?」
「そうだ。俺の言う事を聞くだけでお前は幸せな未来を歩けんだよ。それだけじゃねぇぞ、事が上手くいけばお前に報酬をやろう」
「ほ、報酬……?」
「報酬は100万だ。色々と動いてはもらうが、今年中にはお前に100万をくれてやるよ」
「ひゃ、ひゃ、100……万……?」
「なぁ倉山、想像してみろ。このまま何事もなくここを卒業したお前を待ってるのは薔薇色の大学生活だ。可愛い彼女作って仲の良い友達グループと毎日遊び放題さ。彼女と二人で海外旅行にだって行けるんだぜ。常夏の楽園がお前を待ってんだよ。なんたってお前の懐には100万が眠ってるんだからな。はは、最高だろ?」
 ニッと笑った吉田障子は床に尻をついたまま震え続ける倉山仁に右手を伸ばした。その手を掴んでやっと立ち上がった倉山仁は丸めた背中を震わせながら吉田障子の口元を仰ぎ見た。
「盗撮がバレたくらいで退学なんてアホらしいよな? 俺だって男だし、お前の気持ちはよーく分かるよ。だからさ、どうせなら薔薇色の未来を選ぼうぜ? な、その方がいいだろ?」
「あ……」
「大丈夫だって、別に難しい事しろなんて言わねーからよ。ただちょっと面倒臭ぇだけだ」
「あ……な、なにを……?」
「そうだな。先ずは顔写真を撮ってもらおうか」
「か、顔……?」
「ああ、数人のな。なーに心配すんなって、簡単な仕事さ」
「え……あ……」
「なぁ倉山、俺の言う事聞けるよな?」
「あ……はい……」
「よく言ったぞ、倉山仁。いいか、俺の期待だけは絶対に裏切んじゃねーぞ」
「は、はい……!」
 倉山仁の首が勢いよく縦に動く。唇を横に広げた吉田障子は彼の丸い背中をポンポンと叩いた。
「また声掛けるよ。そん時までお前は100万の使い道でもじっくりと考えとけ。あ、それと、薔薇色の大学生活の為に受験勉強もサボんじゃねーぞ」
 朝のチャイムが新聞部の部室に鳴り響く。机の上を指差した吉田障子が部室を出ていくと、散らばった写真を慌てて掻き集めた倉山仁は呆然と部室の壁にもたれ掛かった。

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