王子の苦悩

忍野木しか

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第二章

警戒する者

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 猫っ毛の天パ。ボタンの開いた制服。吉田障子の登場は突然だった。スッと姫宮玲華の瞳に冷たい影が走る。吉田障子という名の男子生徒が彼女の目には怪異に近い存在に映っていたのだ。
 一瞬、凍り付いたように動きを止めた理科室の空気はすぐにまた激しい熱気に揺らいでいく。羞恥と怒りに赤く染まった三原麗奈の横顔。何やらニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべた吉田障子が歩み寄ってくると、憤怒の形相を浮かべた麗奈の細い腕が「うがぁ!」と振り上げられた。やれやれと肩をすくめた睦月花子と田中太郎が二人の間に割って入る。
「うがぁ、じゃないっつの。アンタ、自分をぶん殴ってどーすんのよ」
「おい、お前も止まれ」
 麗奈の振り上げた腕を花子が掴むと、ズンズンと前進を続ける吉田障子を静止するように太郎が長い腕を広げてみせた。平均よりも身長の低い吉田障子と並ぶと太郎の手足の長さがより強調される。そんな太郎の端正な横顔に麗奈の強張っていた頬がほんの一瞬だけほんわりと緩んだ。だが、当の吉田障子は背の高い上級生に対して微塵も臆した様子を見せない。太郎の肩に手を置いた吉田障子は、警戒したように目を細める上級生に対して尊大に微笑んでみせると、その横をすり抜けるようにして麗奈の前に足を踏み出した。キッとまた目頭を吊り上げた麗奈の腕を後ろに引いた花子は、吉田障子の顔を見据えると目を細めた。
「たく、アンタっていったいなんなのよ?」
「お前こそ誰だよ? つーか俺の姫様に気安く触ってんじゃねーぞ」
「はっあああん?」
「ま、まぁまぁ花子くん! 相手は下級生だ、暴力は控えたまえ!」
 吉田障子の胸ぐらを掴み上げた花子に向かって、何やら慌てた様子の徳山吾郎が手を伸ばした。どうどう、と荒ぶる花子の気を宥めようと苦い笑いを浮かべる吾郎のその視線はずっと吉田障子の顔に向けられている。何かを警戒しているような目の動きである。吉田障子はといえば花子の腕力を直に体験したばかりにもかかわらず、その自信に満ちた表情に微塵の翳りも見せないでいる。そんな吉田障子と吾郎の態度を訝しんだ花子の激情の炎が僅かに収まりをみせた。
「ほら、君も落ち着いて」
「俺はいつだって冷静だっての。てか、そのイカれ女がいきなり暴力振るってきたんだろーが」
「こんのクソモブ男が!」
「どうどう! 花子くん、頼むから落ち着いてくれ! き、君もだ、一応我々は上級生なのだからね、言葉遣いには気をつけたまえよ」
「上級生とか知らねーし、お前らこそ言葉遣いに気をつけろよな」
「このクソガキャ! いっぺん全身の骨粉々に砕いてやろーかしら!」
「うっわ、イカレヒス女こっわー。さ、麗奈ちゃん、さっさと逃げよ」
「触るな、ばか!」
 ペシン、と麗奈の手が吉田障子の頬を叩く。激しい熱気と喧騒にやっと目を覚ました鴨川新九郎は荒れ狂う花子に対して慣れた態度でため息をつくとサッと立ち上がった。徐々に落ちていく西日。校舎の奥が青暗くなっていくと、吉田障子という名の怪異の様子を観察していた玲華が冷たい声を上げた。
「ねぇ、暗くなっちゃう前に会議を進めたいんだけど」
 その声はすぐに喧騒に中に呑まれていってしまう。怒れる花子を押さえる太郎と新九郎の怒鳴り声。麗奈と吉田障子の間に立つ徳山吾郎の焦ったような表情。玲華の隣でオロオロと立ち竦むばかりだった生徒会副会長の宮田風花は、覚悟を決めたように大きく息を吸い込むと、バンッと実験台に両手を叩き付けて声を張り上げた。
「今、会議中でしょ! 静かになさいっ!」
 シン、と理科室にまた静寂が訪れる。風花と玲華に注がれる視線。ふんっと鼻で息を吐いた風花が腕を組むと、腰に手を当てた玲華がコホンと咳払いをした。
「えーと、会議を進める前に一ついいかな。……君さ、いったい誰なの?」
 玲華の視線が吉田障子に向けられると、皆の視線が一斉にその後を追った。麗奈に叩かれた左頬を抑えていた吉田障子は玲華の質問に対してキョトンとした表情を浮かべながら首を傾げてみせた。
「俺が誰かって、玲華ちゃん、それちょっと酷すぎね?」
「本当に分かんないから聞いてるんだよ。早く答えて」
「……じゃあ、お前は誰なの?」
「あたしは姫宮玲華。現魔女の器の姫宮玲華」
「へぇ君、玲華ちゃんってんだ。ま、知ってたけどね。俺、1年B組の吉田障子。玲華ちゃん、君も可愛いよ」
 玲華の瞳を見下ろすようにして顎を上げた吉田障子の唇が大きく横に開いていく。ゾッと、頬を青ざめさせた吾郎は睨み合う二人の視線を遮るようにして腕を上げると、玲華に向かって声を上げた。
「ひ、姫宮くん、暗くなってきたし今日はもうお開きにしないか? 僕も色々と調べたいことがあるんだよ。それも踏まえて会議はまた後日という事にしよう」
「うーん……」
「ちょっと待ちなさいよ! 私はまだ聞きたいことが山ほどあるっつの!」
「お開きだっつってんだからまた今度にしろよな」
「クソモブ男は黙ってなさい! つーか、アンタは部外者でしょーが!」
「うわ、こっわ。さ、麗奈ちゃん、一緒に帰ろう。ほら、恥ずかしがらずに王子様の手を握って」
「触るな!」
 もはや会議どころではない雰囲気である。下唇を噛んだまま不貞腐れたように吾郎を見つめていた玲華は、陽の落ちかけた窓の向こうに視線を送ると肩を落とした。
「うーん、じゃあまた明日だね」
「待てっつってんでしょ! せめてあの夜の学校に行く方法だけでも教えなさいよ!」
 花子の足が理科室の床を踏み締める。そんな花子に対して玲華は細い首を振った。
「行けるには行けるんだけど、王子が居ないと昔の八田くんには手が出せないよ」
「なんでよ?」
「王子が居ないと混在は起きないからね。見ることは出来ても触れることは出来ないの」
「たく、わけ分かんないことばっかね。要は王子っつか、このしおらしくなっちゃった三原麗奈を連れてけばいいってわけでしょ?」
 拳を上げた花子の親指の先が麗奈に向けられる。すると玲華は更に強く首を横に振ってみせた。長い黒髪が黄昏時の赤い空間を流れて揺れる。
「それは絶対にだめ」
「はあん? なんでダメなのよ? ざけてんじゃないわよ!」
「危険だから絶対にだめなの。アレは避けなきゃいけないの」
「私がいりゃあ大丈夫だっつの! なんなら千代子とかいう怨霊の息の根も止めてきてやるわよ!」
「千代子は殺せないの! それに、みどりが出るかもしれない! だから絶対にだめ!」
「はあ? みどりって誰よ?」
「みどりが出たら絶対に太刀打ち出来ないの! だからあそこに王子は連れて行けないの!」
 瞳に涙を浮かべた玲華の絶叫に花子以外の面々は固まったままに動けなくなってしまう。チッと舌を鳴らした花子は腕を組んだ。
「だーから、みどりって誰のことよ?」
「三人目の私」
「三人目のアンタの何がヤバいってのよ? 言っとくけど千代子も英子も大したこと無かったわよ?」
「まだ十六歳の千代子はともかく、英子の力はそんなに強くなかったから。でも、みどりはだめ。アレに勝つ方法はないの」
「んなのやってみなきゃ分かんないでしょーが!
「分かるよ! まともに見ることも出来ないんだから! みどりは日本人の全てを巻き込むほどの力を持ってるんだよ!」
「はあん? 全て? 見ることも出来ないってどーゆうことよ?」
「見ると目を潰されちゃうの」
 玲華の唇が微かに震えた。二人の会話を静かに傍観していた吉田障子はほんの僅かに目を細める。玲華の瞳に浮かんだ感情が恐怖ではないと気が付いたからだ。いったいどういった感情の高ぶりが彼女は声を震わす結果となっているのだろうかと、興味を持った吉田障子の瞳が細く閉じられていった。
「目が潰されるですって?」
 思わず新九郎と目を見合わせた花子はチラリと風花を流し見た。ピッと背筋を伸ばした風花は玲華の声に集中している様子である。その両目の内では綺麗な黒い瞳が二つ瞬いていた。もう一度新九郎と目を見合わせた花子は太郎を振り返る。確かに彼らは両目を潰された彼女をあの場所で見ていたのだ。
「なんで潰されんのよ?」
「顔を見られたくないから」
 花子の問いに玲華の瞳から涙が溢れる。
「なんで見られたくないのよ?」
「醜いから」
「醜いってアンタが?」
「うん、醜いの。だから顔を見られたくなかったの」
「……はん、んな事で目潰していいってんなら、あたしだって今すぐアンタらの顔面潰して回りたいっつの。つーかちょっとブスだったからってくらいで甘えてんじゃないわよ」
「それだけ、みどりの心は弱かったの。それだけ、みどりは歪んでるの」
「つーか、多分そのみどりって奴あの時どっかに居たわよ? 現に目潰れたクソ女に刺された美少女がここに居るわけだしね」
 自虐するように笑ってみせた花子に対してツッコミを入れようと試みる者はいなかった。皆、怒り狂った花子に顔面を潰される可能性を恐れていたのだ。
「運が良かったね。でも、もしも次またあそこを彷徨うことになったら気を付けてね。開けた扉が学校とは違う別の場所と繋がってたら、みどりが近くにいる証拠だからさ、そしたらすぐに顔を下げて口を閉じてね、みどりは他人の声も嫌いだから」
「そういや憂炎、そんな事もあったわね?」
「あ、ああ……」
 四階のドアの向こうに広がっていた田園風景を思い出した太郎と花子は目を見合わせた。そんな二人に玲華は頷いてみせる。
「とにかく気を付けてね」
「はん、まとめてぶっ飛ばしてやるっつの」
「だめだよ、みどりには触れられないから。それよりさ、あの子は何処に居るの?」
「あの子?」
「ほら、おかっぱ頭の、秀吉くんだっけ?」
「ああ、秀吉の奴ね。忘れてたわ」
「秀吉って誰すか?」
 太い首を傾げる新九郎に向かって花子は鋭い視線を飛ばした。
「ざけてじゃないわよ、アンタ! 大事な超研の後輩でしょーが!」
「あれ、俺らに後輩なんていましたっけ?」
「だーかーら……」
「いや、いやいやいや、ちょっと待て!」
 サッと頬を青ざめさせた太郎が二人の間に口を挟む。花子は「あん」と太郎を睨み上げた。
「なによ?」
「いや……いや……まさか、まさかだが信長くん、この世界に居ないんじゃないか?」
「はあ? どういう意味よ?」
「いや、過去が変わったせいで、信長くん、その、生まれてこなかったんじゃないかって……」
 血の気を失った太郎の頰を見つめたまま固まっていた花子はダッと身を翻すと理科室を飛び出していった。太郎と新九郎が慌ててその後を追う。慌ただしい足音が遠ざかっていくと涼しい風が廊下を流れ始めた。喧騒の消えた理科室が夜の影に飲まれるのは早い。
「じゃ、あたしたちもまた明日ってことで」
「ああ、僕も色々と調べておくよ」
 青黒い残り日の中で顔を見合わせた玲華と吾郎は頷き合う。そんな二人の様子に風花は何処か不満げである。窓の向こうが暗闇に包まれていくと、まだ心が不安定な麗奈の肩が激しい恐怖に震え始める。そんな彼女を守るかのように誰かの温かな手がそっと優しく麗奈の小さな手を包み込んだ。
「大丈夫だよ、麗奈ちゃん。王子である俺がぜってーに君のことを守ってやるからさ」
「触るなぁ!」
 パシン、という鋭い音が理科室に響き渡った。やがて残日が完全に消えると夜の闇が校舎を包み込んだ。

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