王子の苦悩

忍野木しか

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第二章

会長の憂鬱

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 14.07.11 / AM.11.45 / 2年A組。

 睦月花子が教室を飛び出す。その背中を追う現代文の教師の声。センター過去問を解いていた田中太郎はズレたメガネをそのままに慌てて立ち上がった。
「部長! 待てって!」
 花子の足は止まらない。獲物を追うが如き肉食獣の瞬足。階段を駆け上がった花子は四階を目指した。
「足田太志ぃ!」
 四階の端。簡素な大扉を蹴り開けた花子は生徒会室に飛び込む。鋭い瞳を光らせる肉食獣。赤茶けた絨毯。小さな机。富士峰高校生徒会長、足田太志の姿はない。
「何処よ、アイツ」
「まだ授業中だっての……」
 やっと花子に追い付いた太郎は荒い呼吸を繰り返したまま生徒会室を見渡した。部屋を埋め尽くす段ボールの箱。薄汚れた壁。光沢の無い窓。トロフィーの並んだ棚のガラスはひび割れ、補強の為に貼られたビニールテープは黄色く変色している。顔を上げて赤茶色の絨毯を踏み締めた太郎は、かつての豪奢な部屋の荒れ果てた跡に息を呑んだ。
「何だ、これ?」
「知らないっつの、本当に生徒会室?」
「あ、そうか、場所が変わってるんだ。部長、ここは恐らくこの世界では物置か何かだ」
「じゃあ本当の生徒会室は何処にあんのよ?」
「さぁ?」
「さぁ、じゃないわよ! 一分一秒を争う事態なのよ!」
「お、おち、落ち着けって」
 胸ぐらを掴まれた太郎が宙で足をバタつかせる。その時、聞き覚えのある声が廊下の向こうから響いてきた。
「だから、生徒会としては看過出来ないと……」
「お前らの容認など問題じゃない。いいか、事は性急なんだ。場合によってはお前らにも協力して貰うぞ」
「ですから、そのような横暴は……」
「足田太志!」
 野獣の咆哮が校舎を駆け抜ける。ビクッと肩を震わせた足田太志の隣で、目付きの鋭い坊主頭の男がサッと耳を塞いだ。
「な、何だ……?」
「足田太志ぃ」
 のし、のし、と開け放たれた扉を潜り抜ける野獣。いつ花子が暴れ出しても対処出来るように太郎は頰を強張らせる。生徒会室に向かって目を細めた坊主頭の男は「頼んだぞ」と太志の背中を軽く叩くと廊下の向こうに去っていった。ふうっと深く息を吐いた太志の表情が和らぐ。
「やぁ睦月さん、ちょうど良かった。アマ名人戦優勝おめでとう。編入試験の話も聞いているよ。それでね、取材したいっていうアポが学校に沢山届いているんだけど、睦月さん、大丈夫かい?」
 太志の目尻に寄った皺が動く。名前に似合わず細身の男である。そんなミディアムヘアの優男の表情は疲れ切っていた。
「だーから、訳わからん事ばっか言ってんじゃないっつの!」
「訳わからん?」
「心霊現象研究部っていったいどういうことよ! アンタ、幽霊信じてないんでしょ? なーんで超自然現象研究部は潰しておいて、心霊現象研究部は潰さないのよ。ざけてんじゃないわよ!」
「君こそ何を訳の分からん事を……。それより、取材の方はどうする。別に今すぐにという訳ではないんだが」
「受ける訳ないでしょーが! 私はね、超自然現象研究部復興に忙しいのよ。たく、将棋なんてやってられるかっつーの」
 花子がケッと舌を鳴らすと、ポカンと口を開けたまま固まった太志の頬が徐々に青ざめていった。
「な、な、な、何を言ってるんだ、睦月さん……?」
「あん?」
「き、君は奨励会に編入出来るほどの実力を持っているんだぞ……? 藤元辰巳八段にその実力を認められているんだぞ……?」
「な、何よ?」
 フラフラと亡霊のように花子に迫る太志の痩せた体。かつての自信に満ち溢れた態度は何処へいったのか。最大の敵であると考えてきた生徒会長のあまりの変容ぶりに、狼狽えた花子の足が一歩後ろに下がった。
「た、例え、奨励会に編入出来ずとも……いや、編入出来たとて、三段リーグを抜けること叶わずとも……じょ、女流棋士になる道だってあるんだ。君は、君は、その培ってきた努力を、天から授かった才能を、無駄にするつもりなのか……?」
「ちょ、ちょ、こら!」
「目を、目を覚ますんだ、睦月さん。超……なんちゃらなどという訳の分からん事は金輪際口にするな。そして、取材を受けろ。なぁ、睦月さん、目を覚ませ、目を覚ますんだ、睦月さん……!」
「近いっつの!」
 花子は眼前に迫る太志の瞳。花子の膝が太志の腹に刺さると、うっと息を止めた太志の体が赤茶けた絨毯の上に倒れる。
「はぁ、たく、なんなのよコイツ」
「……さぁ」
 花子と太郎は呆然と床に伸びる生徒会長を見下ろした。


 後頭部を包む柔らかな感触。甘い花の香り。
 目を覚ました足田太志は自分を見下ろす髪の長い女生徒の赤い唇を見た。
「あ、会長さん、おはよう」
「お、おはよう……」
 姫宮玲華の大きな黒い瞳に煌めく星々。赤い唇から覗く純白の雪。はっと首を動かした太志はそこが太ももの上だと気が付いて赤面した。慌てて体を起こした太志は、玲華の背後に立つ宮田風花の氷原のように冷たい瞳に浮かんだ怒りの炎を見る。
「や、やぁ、宮田さん……」
「変態さんだったんですね。私、失望しました」
「ええっ!? い、いやいやいやいや、ちょっと待ってくれ! お、お、俺は何も……」
 玲華の端正な顔と、風花の冷え切った頬を交互に見つめた太志は、焦ったように膝を立てると玲華の後ろに立つ風花に向かって腕を伸ばした。
「わっ」
「うわっ」
 どてん、と倒れる太志と玲華。いてて、と体を起こした太志は左手に伝わる柔らかな感触に首を捻った。
「な、なん……」
「わあ……。ちょっと会長さん、大胆過ぎるよ……」
「は?」
 サッと太志の顔が青ざめる。玲華に覆い被さったまま顔を上げた太志は弁解する間もなく、風花の鋭い平手打ちによって絨毯の上に張り倒された。
「さ、さ、さ、最低!」
 風花の瞳に燃え上がる炎。段ボールの山に腰掛けていた花子と太郎は顔を見合わせるとやれやれと立ち上がった。更にもう一発と、振り上げられた風花の腕を掴んだ花子が、その体を後ろへと引き摺っていく。太志を抱き起こした太郎は、意識を朦朧とさせる彼の体を小さな椅子の上に座らせた。
「……さて、状況を説明して貰おうじゃないの」
 風花の腕を離した花子は未だ目を白黒とさせる太志の元に歩み寄った。わっと風花が玲華の元に駆け寄ると、壁際で蹲っていた三原麗奈はそっと顔を上げた。その頰は先ほどのショックで未だに真っ赤である。
「せ、説明……?」
 徐々に瞳の揺れを止めていった太志は椅子に座ったまま痩せた頰を横に傾げた。腰に手を当てた花子は肩を落とす。
「なーんで、アンタ、そんな情けない姿になってんの。つーか、ここって物置?」
「はぁ?」
「だーかーら」
「ちょっといいか?」
 スクエアメガネの縁に指を当てた太郎が花子の隣に立つ。太郎の整った横顔を見上げた麗奈の頬が更に濃い赤に染まる。よっと立ち上がった玲華はスカートの埃を払った。
「あの男は誰だ?」
「あの男?」
 玲華の青いスカートから慌てて視線を逸らした太志は腕を組んで胸を逸らした。
「坊主頭の男だ。さっきアンタ、何か話してたろ?」
「ああ、亀田くんか。彼はオカ研の副部長だ」
「オカ研?」
「心霊現象研究部の通称さ、そんな事も知らないのか? 君、田中くんだろ。勉強は出来るようだけど、他の事はからっきしのようだね」
「べ、勉強が出来るって、俺がか?」
「ま、俺ほどじゃないが、前回の実力テストは頑張ってたじゃないか。はは、期末テストも楽しみにしているよ。当然、学年一位の座を明け渡すつもりはないがね」
 ふふん、と太志の態度が尊大になる。太郎と花子は困惑したように顔を見合わせた。
「あー……まぁ、その話は一旦置いておこう。それよりもアレだ、何でさっき、アンタはその亀田とかいう男に対してあんなにヘコヘコしてたんだ?」
「ん?」
「アンタ、生徒会長だろ。何で副部長如きにあんな態度を取ってた? それとも、あの男自身に何かあるのか?」
「先ほどから何を言ってるんだね、全く、彼はオカ研のビッグ4の一人だよ。将来的には心霊学会の幹部候補に迎えられる男なんだ。いち生徒会長如きが逆らえる相手じゃないのさ」
「ど……どういう事だ? 心霊学会って何だ? オカ研ってのはそこまでデカい部活なのか?」
「まさか君、記憶喪失か?」
「い、いや……」
「何かよく分からんが、まぁそうさ、オカ研はそこまでデカい部活なんだ。そして、心霊学会ってのはこの学校の後ろ盾となっている団体だ。トップの人がこの学校の元教師らしくてね。そうだな、宗教団体を想像してくれればいい」
「宗教団体……」
「ま、法人化はなされていないようだがね」
 太志は疲れたように息を吐いた。何とか話を整理しようと額に手を当てた太郎の眉間に皺が寄る。直後、カツカツという足音が廊下から生徒会室に響いてきた。
「三原麗奈はいるか?」
 スーツ姿の小柄な男が生徒会室を覗き込む。男の背後に立つ白いフードを被った四人の男女。更にその後ろには心霊現象研究部の部員たちが頬を引き締めて控えている。
「いませーん」
 玲華の赤い唇が光る。玲華の隣に立つ風花が不安げに肩をすくめると、壁際に蹲っていた麗奈が顔を上げた。
「三原麗奈。我々と一緒に来てもらうぞ」
 麗奈の赤い頬を見据えた小柄な男が声を上げる。麗奈はその異様な雰囲気にひっと息を呑んだ。
「捕らえろ」
 小柄な男が片腕を上げる。フードを動かさずに足を踏み出す幹部候補生たち。スッと玲華が目を細めると、ゴキリと首の骨を鳴らした花子の口が縦に開いた。
「たくっ……」
「あっれ! ぶっちょ、そこっすか?」
 突然、耳障りなハスキーボイスが廊下の窓を揺らした。何だ、と振り返った心霊現象研究部の部員たちはギョッと目を見開く。
「つか、いる?」
「いらねっしょ」
「しんちゃん、律儀だからねぇ」
「ふん……」
「律儀なシンくんもかっこいい!」
 ジャーン、という空間を歪ませるような衝撃音が窓を貫く。アシッドグリーンのギター。孔雀のように髪を尖らせた上半身裸の男。「愛」と書かれたマスク姿の眉毛の無い男。スキンヘッドの男の丸いサングラス。マッシュルームヘアの男の唇に光るピアス。
「ぶっちょ! 俺、仲間と練習あんで、暫く超研休みてぇんすけどぉ!」
 先頭を歩く大柄な男が尖った金髪をグルンと縦に揺らすと、彼らを取り巻く女生徒たちの黄色い歓声が生徒会室に轟いた。


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