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第一章
避難経路
しおりを挟む学校は騒然とした。
不安そうに顔を見合わせる女生徒たち。背の低い三郎教員の話に千代子はじっと耳を傾ける。膝に手を置いて肩を振るわせた障子は、母の顔を思い出そうとギュッと目を瞑った。
「──」
障子の肩を優しく揺する手。親友の千代子が青白い顔を歪ませて微笑んでいる。彼女の額に浮かぶ汗を見上げた障子はコクコクと首を縦に動かした。揺れる三つ編みのおさげ。黒いセーラー服に滲む汗。警戒するように廊下を見渡した三郎の後に続いて女生徒たちは教室を後にする。彼女らは学校に不法侵入しているという不審者を警戒していた。
「──」
千代子は白い歯を震わせながら障子を励まし続けた。そんな親友の手を握り締めた障子はフラつく下半身にグッと力を込める。
三人からなるという侵入者。異様に背の高い二人の男と鬼のような顔をした女。注意に赴いた三島教員を負傷させた後も、彼らは、破壊行動を繰り返しながら校舎中を徘徊しているという。正体も目的も分からない侵入者たちに狼狽する高等女学校の生徒たち。無産政党設立を叫ぶ共産主義者たちだの、壊滅した皇道派の残党だのと、様々な憶測が飛び交った。
「──」
「お家に帰りたい」
「──」
「お母さんの顔が、思い出せないの」
「──」
泣き始めた障子の頭を優しく撫でた千代子の唇がキッと結ばれる。一階に下りた女生徒たちは渡り廊下を抜けると体育館に避難した。
「どーなってんのよ、ここは!」
睦月花子の怒鳴り声が明るい校舎に響き渡った。田中太郎は階段横のドアの向こうを呆然と眺めている。異常な状況の連続に頭が働かなくなった新九郎は、四階のドアの向こうに広がる田園風景に心を和ませた。気絶したまま眠る麗奈を背負い直した新九郎は、トマトを収穫するモンペ姿の老婆に頭を下げる。
「憂炎、何がどーなってんのよ、ええっ?」
声を張り上げた花子が先ほど引き剥がした黒板の先を田園風景に向ける。夢うつつに微笑む新九郎の影に隠れた太郎は、ドアの向こうの風景と花子を交互に見つめながら勢いよく首を振った。
「し、知らないっすよ、そんなの!」
「アンタが、ここは過去だとか適当な事ほざいたんでしょーが! それとも何、昔の学校は四階と畑が繋がってたとでもゆーのかしら? どーなのよ、憂炎!」
「マジで分かんないんですってば!」
新九郎と麗奈の周りをぐるぐると回る二人。畑を飛ぶアゲハ蝶に見惚れた新九郎は、フラフラと足を前に出した。
「ま、待て、新九郎、出るな!」
「アンタもしっかりなさい!」
太郎に腕を掴まれた新九郎の頭に花子の鉄拳が振り下ろされる。はっと目を見開いた新九郎はキョロキョロと周囲を見渡した。
「の、のぶくんは?」
花子と太郎を交互に見つめる長身の男子生徒。新九郎はとっさに理科室に置いてきたまま安否不明となっている超研の新入部員を想った。その事が多少気掛かりだった花子はくっと奥歯を噛み締める。
「行方不明よ」
「さ、探さないと!」
「探してるわよ」
「い、一階に、戻りましょう、部長!」
「一階に戻れないから、困ってるんじゃないの!」
花子が階段の手すりを蹴り上げると宙を舞った残骸が階下へと落ちていく。三人は先ほどから、四階を抜け出そうと階段の上り下りを繰り返していた。上っても下りても現れる四階の木板。辟易した花子たちは、四階からの脱出口がないかを探していたのである。
「もう、窓から飛び降りるしかないわね」
花子はふんっと腕を組む。太郎は慌てて首を横に振った。
「む、無理っすよ、死にますってば!」
「なら、アンタは紐にでもぶら下がりなさいよ」
「ち、違いますって! そういう事じゃなくて、出ること事態が不味いんすよ!」
「なんでよ? アンタさっきから適当なことばっか言ってるでしょ?」
「マジなんですってば! この過去の世界って学校の中だけのはずなんで、外に出たら、時空の狭間に取り残されちゃうんすよ!」
「時空だの何だのと、いちいち言うことが面倒臭い奴ね。じゃあ、どうしろって言うのよ」
「と、取り敢えず、四階にある全ての部屋を覗いて見ましょう」
ギロリと太郎を睨み付けた花子は舌打ちをする。階段下を覗いた太郎は三十センチ定規で作った木剣の握りを確かめるように手の中で右左と投げ合った。田園風景に続く扉を閉めた三人はその隣の教室のドアを開く。
「古臭いけど、普通の教室ね」
乱雑に並ぶ黒い木の机。黒板に刻まれたカタカナの文字。花子は次の教室に向かって黒板を引き摺った。
四階の端から端。全ての扉を見て回った三人は顔を見合わせた。
「結局、階段横の扉以外、普通だったじゃないの」
「マジで、閉じ込められたのか、俺たち……」
「のぶくん、大丈夫かな……」
三人はため息を吐いた。新九郎の背中で麗奈が呻き声をあげる。
「こうなったら、床に穴を開けるわよ」
砕け散る黒板。言い切る前に黒板を床に叩きつけた花子に対して疲れ切った太郎は首を横に振ることしか出来ない。フラフラと開け放たれた教室に足を踏み入れた新九郎は、制服を枕にして麗奈を床に寝かせると、腰を下ろして頭を抱えた。
「ああ!?」
穴を開けられるような道具はないかと棚の中を探っていた花子が素っ頓狂な声を上げた。戸の奥に石造りのトイレが広がっていたのだ。疲れ切って反応を示さない新九郎と太郎の首根っこを掴んだ花子は、二人を棚の前に引き摺った。面倒臭そうに棚の奥を見つめた新九郎と太郎は、目を丸くして顔を見合わせた。
「な、なんで?」
「し、知るかよ」
「とにかく、四階から出れそうで良かったじゃないの」
躊躇なく棚の戸を潜り抜ける花子に、太郎は飛び上がった。ひょいっと石畳のトイレに飛び降りた花子は、興味深そうに辺りを見渡すと、後ろを振り返って太郎に手招きをしする。
「アナタたち、そこで一生を終えるつもり?」
「……アンタ、マジで少しは警戒しろっつの」
グッと身を屈めた太郎が戸を潜り抜ける。石畳の上に立った彼は、新九郎と協力して麗奈を下ろすと、窮屈そうに戸を抜ける新九郎の手を握って引っ張った。やっとトイレに降り立った新九郎の肩を叩く太郎。低いトイレの天井に腰を屈めた新九郎は、ボットン便所の白い陶器を不思議そうに見つめた。扉のない石窓の向こうで囀る小鳥。小さな扉の向こうに広がる校庭。
新九郎が戸を抜けるのを見届けた花子は、扉を蹴飛ばして外に出た。覚悟を決めた太郎も花子の後に続く。麗奈を両腕に抱いてトイレを出た新九郎は、青い空に流れる新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「ど、どうなってんだ……?」
太郎は呆然と広い校庭を見渡した。ある筈のない外の世界に混乱する男。放心状態のまま夢見心地になった彼は、青い空を見上げながら当てもなく校庭を歩き始めた。
「そっちはダメだよ」
誰かの声が太郎の鼓膜をくすぐった。肩を掴む誰かの白い手。後ずさった太郎は地面に倒れ込む。新九郎の手を借りて立ち上がった彼は、キョロキョロと辺りを見渡して声の主を探した。青い空。何処か古臭い校舎。石造りの四角いトイレ。風に揺れるシダレヤナギを見上げる花子の鋭い眼差し。校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下に目をやった新九郎は、走り去る誰かの影を見た。
「新九郎、取り敢えず、校舎に戻るぞ」
影の消えた先を見つめた太郎は木剣を構える。頷いた新九郎は、意識の戻らない麗奈を背中に背負った。名残惜しそうにシダレヤナギの枝を撫でる花子。三人の後を追った彼女は、太郎の横顔に微笑みかける。
「憂炎、アナタ、ここが過去だって言ってたわね」
「言いましたけど?」
「面白いじゃない」
花子の不敵な笑みに太郎は苦笑した。嬉しそうに指を鳴らす女。渡り廊下に足を踏み入れた三人は、体育館へと続く広い扉を見上げた。
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