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第三章
願う者
しおりを挟む「俺が……俺がやった」
カツラを被った大男が唇を震わせる。臼田勝郎の声に救急隊員の男が振り返った。体育倉庫の薄明かり。外の喧騒の遠い世界。
「俺だ……お、俺が殺した……」
「そりゃ、無茶だぜ」
ジッと、床に横たわる肩の広い男を見つめていた老人が顔を上げる。後ろに撫で付けられた白い髪。疲れ果て肩を落とした大場浩二は、太い指を握り締めて唇を震わせる臼田勝郎の開かれた両眼に冷たい視線を送った。
「お前さん、ずっと俺と一緒に行動してたじゃねぇか」
「ち、違う……お、俺だ……俺がやったんだ……」
「おい」
「あ、あ、あの時だ……! せ、生徒が喧嘩したと、離れた時……あ、あの時、あの時に、俺が殺した……俺が、俺がやったんだ!」
膝から崩れ落ちるようにしてしゃがみ込んだ勝郎は、老人が決して触れるなと袋を被せていた金槌に飛び付いた。
「お、俺だ……俺が殺したんだ……」
「……先生ぇ」
止める暇も無かった。いや、止める気力が残されていなかった。遠くに響くサイレンの音は止まない。救おうと、救われようと叫ぶ人々の声が遠い。
力無く腕を下げた浩二は、錆びた金槌を祈るように両手で包み込んだ大男を見下ろした。
「俺が殺した……俺が殺した……」
願いであった。祈りであった。
これ以上誰にも苦しんで欲しくないという願い。全てが丸く収まって欲しいという祈り。
勝郎の乾いた叫びが薄暗い倉庫の空気を震わせる。
山本恵美は唇を横に開いた。笑顔を崩さないようにと目を細め、グッと奥歯を噛み締める。力の入らない下半身。震え続ける指の先。救急隊員に抱えられた生徒に微笑み掛けた恵美は、大丈夫だよ、と唇を動かして見せた。だが、声は出てこない。
涙を流す女生徒の頭を撫でる初老の女性。床に腰を付けた奥田恭子もまた優しげに微笑んでいた。救急隊員の一人が恭子に声を掛ける。険しい表情の隊員。だが、恭子は微笑みを崩さない。まるで隊員の声が聞こえていないかのように微笑み続けた初老の女性は、そっと窓から降り注ぐ白い光を仰ぎ見た。聖母の表情。初夏の天使。
やっぱり大丈夫なんだ。
恵美は頬の力を抜こうと唇を縦に横に動かし始めた。紫色の髪をした背の高い男子生徒が、救急隊に運ばれる女生徒に付き添うようにして体育館から出ていく。首振り人形のように頭を動かし続ける細身の男子生徒は、何を探しているのか、隊員と生徒たちの間をキョロキョロと歩き回った。
大丈夫……大丈夫……。
未だ理解の追い付かない現状の中で、理想の微笑みを探し求める中年女性。フラフラと足を動かしながら、恵美は、嘆き震える生徒たち一人一人に微笑みを与えていった。
ショートボブの天使。田中愛は額の汗を拭う動作をした。
天使の腰にしがみ付く背の高い少女。藤野桜は片時も田中愛の側を離れようとしない。
掃除を手伝え、と田中愛は体を揺すった。藤野桜の腕に力が籠る。背の高い少女は、いや、いや、と首を横に振るばかりである。
「掃除中?」
ボビングヘッドの人形。ぐるりと回る黒い瞳。中野翼はモップを抱えるショートボブの天使を舐め回すように見つめた。コクリと頷いてみせるショートボブの天使。中野翼の視界から外れようと田中愛は足を急がせる。ズルズルと引き摺られる背の高い少女。
「手伝おうか?」
ぐるり、ぐるりと回り続ける黒い瞳。天使の後を追う中野翼の首から上が、からくりの人形のようにググッと横に動いていく。ならば、と田中愛が背後に回り込むと、中野翼は上半身から順番に体を捻って後ろを振り返った。何処かの大道芸人のような動き。なんだコイツは、と田中愛は下唇を突き出した。得体の知れない存在に怯える背の高い少女。
「よ、何してんの?」
浅葱色の瞳の女生徒。誰からも認知されることなく体育館に足を踏み入れた雨宮伊織がニッと澄んだ青空のような笑顔を見せた。土に汚れた頬。微かな花の香りが、開け放たれた外扉から吹く初夏の風に混ざって流れる。
「友達かい?」
カクッと横に動く男子生徒の首。伊織は夏の空に浮かぶ雲のような白い歯を見せて微笑んだ。
「そうだよ」
「どんな?」
「友達は、友達だよ」
「例えば近しい友達だったとして、君は友が無償の愛を捧げる者に同じような愛を捧げる事が出来るかい?」
「うん?」
「例えば離れた友達だったとして、君は友が無償の善に勤しむ姿を見過ごす事が出来るかい?」
「うーん」
「例えば離れた存在だったとして、君はそれに無償の愛を捧げられるかい? 例えば狭間の向こうに佇む存在だったとして、君はそれを仰ぎ見ずにいられるかい?」
「……うん」
「へぇ、そうか、そうか。もしや君も、体験した側の存在なのか?」
「……君、大丈夫?」
「狭間が近づいた事で向こう側の存在が集まっているのかな。いや、体験したばかりの存在が此方を彷徨っているだけなのかもしれない。時間の概念が違えば一瞬の事なのだろうね。いや、一瞬という概念すらも当て嵌まらないのだろうか」
「……壊れちゃってる?」
うーむ、と黒い瞳をぐるりと回す首振り人形。伊織が哀れむように浅葱色の瞳を細めると、ショートボブの天使は、直れ、直れ、と中野翼の頭を叩き始めた。
「翼くん!」
大柄の男子生徒の声。首だけを声のする方向に動かした中野翼は、目を赤く腫らした太田翔吾と、その後ろで俯くダークブロンドの女生徒を見た。
「やぁ太田くん、それに吉沢さん」
「吉沢さん?」
「ああ、二人とも大丈夫だったかい?」
「二人ともって?」
キョロキョロと辺りを見渡す大柄の男子生徒。ダークブロンドの女生徒。吉沢由里は涙を流して指を震わせた。
「あ……」
中野翼の頬がサッと青ざめる。頭を掻いた翔吾は、翼に向かって太い首を傾げた。
「吉沢さんって、まさか由里の事か? 由里は今、病院に居るんだが」
「あ、えっと……」
視線を泳がせる首振り人形。翼は浅く息を吸って吐いた。
「大丈夫か、翼くん。顔色悪いぜ?」
「そ、その……太田くん……い、今すぐ病院に行こう」
「え、どうしてだ?」
「その……その……と、とにかく、病院に行こう」
浅い呼吸を繰り返す首振り人形。尋常ではない様子。その青ざめた顔に生気は見えない。
背中に冷たい汗を感じた翔吾はゴクリと唾を飲み込んだ。
「由里に何かあったって言いたいのか?」
「……分からないけど、多分」
ダッと駆け出す大柄の男子生徒。慌ててその後を追おうとした中野翼の腕を伊織が掴む。
「離してよ! 急いでるんだ!」
「君、近づいたままだね」
凄まじい力だった。大樹に縛られた鎖が如く、伊織に掴まれた翼の腕はピクリとも動かない。
「離して! 離せ!」
「君、うちの高校来ない?」
「何言ってんだよ! 離せ!」
「君、うちの高校来ない?」
「離せ! 離せってば!」
「君、うちの高校来ない?」
「……い、行かないよ! つーか、行けないし……いったい何の話だよ!」
「来れるよ、この学校はもうこれで終わりだし、君はこれから何処かの高校に編入しなきゃならないんだよ」
「はぁ?」
「君と、彼と、それともう一人、うちの学校に来なよ。ね、いいでしょ?」
後ろを振り返る女生徒。白い煙。黒いジャケットを着た背の高い女性が腕を組んで立っている。その口元から浮かび上がる煙が体育館の天井へと昇っていった。
「わ、分かったから、離してよ!」
「おっけー」
パッと手を離す女生徒。バランスを崩した翼は、二歩、三歩、前につんのめると、翔吾の後を追って走り出した。その背中を見送った伊織は、バケツを取りに行こうとモップを壁に立て掛ける田中愛の肩に手を伸ばした。
「ねぇ」
何だ、と振り返るショートボブの天使。
「前から言おうかなって悩んでたんだけど、あの子、まだ間に合うかも」
間に合うとは何だろうか。田中愛は首を傾げた。ニッコリと微笑んだ伊織は細い指の先を吉沢由里に向ける。初夏の風に靡くダークブロンドの長い髪。
「人に落としてあげて」
そう微笑んだ伊織は、白い煙の天使と共に体育館で嘆き悲しむ生徒たちの下へと歩みを進めた。
ショートボブの天使。田中愛は腕を組んだ。
人に落とせとは何だろうか。
首を傾げた田中愛は腰にしがみ付く少女の瞳を覗き込む。いつの間やら再び天使に落ちている背の高い少女。藤野桜は首を振った。よく分からない、と落ち込む少女。
田中愛は思案した。だが、すぐに考えるのを止める。ショートボブの天使の頭はパンク寸前である。取り敢えず、と田中愛はダークブロンドの天使の瞳を覗き込んだ。涙目の天使。ダークブロンドの細い毛先が曇り空の白い光にキラリと煌めく。
吉沢由里は涙を流し続けた。何がそんなに悲しいのか、と瞳を覗き込んだまま田中愛は、ダークブロンドの天使の長い髪を優しく撫でてあげた。
視線を上げるダークブロンドの天使。分からないのだと、吉沢由里は嗚咽した。
そうか、そうか、と頷いた田中愛は、吉沢由里の口元に先ほど拾った錠剤の一つを近づけた。藤野桜が人に落ちたように、錠剤を飲めば吉沢由里も人に落ちるのではないか、と田中愛は考えたのだ。
何をする、と吉沢由里の瞳に怒りの炎が宿る。いいから飲め、と田中愛に容赦は無い。
揉み合う三つの存在が床に倒れると、下敷きになった藤野桜はもぞもぞと起き上がった。田中愛を馬乗りに押さえつけるダークブロンドの天使。力では叶わない相手。いいから薬を飲め、と田中愛の視線だけは強気である。
ダークブロンドの天使。吉沢由里は怒った。か弱き存在の強気な瞳。愛しき存在の許されない行為。愛する者への強い怒りが嗜虐心へと変わってゆくと、吉沢由里は、抵抗出来ない田中愛に淫靡な視線を送った。
覚悟しろよ、と唇を横に開くダークブロンドの天使。田中愛の唇に唇を重ねた吉沢由里は、その濡れた舌を天使の唇の奥に捩じ込んだ。
訳が分からず抵抗するショートボブの天使。だが、吉沢由里は離れない。荒い鼓動。熱い体。
わっと口を開いた藤野桜が二つの存在に体当たりした。何をしてるんだ、と天使に落ちたばかりの少女の頬は真っ赤である。
床を転がるダークブロンドの天使。吉沢由里は激しく鼓動する胸をグッと押さえた。
「由里! 由里!」
白い部屋に響き渡る声。太田翔吾は白いベットで目を瞑る吉沢由里の体を揺すった。「離れなさい」と翔吾の体を抑えようとするナース達。ベッドサイドモニターの脈派が乱れ始めると、ナースの一人が「先生を呼んで」と叫んだ。
「太田くん!」
中野翼が病室に飛び込む。だが、翔吾は気が付かない。死を間近で見てきた翔吾は取り乱していた。失いたくない、と願う者の叫び声が白い部屋を木霊する。
「……はっ」
パチリ、と目を見開く存在が一人。ナース達が動きを止めると、翔吾はあんぐりと口を縦に開いた。白い部屋を流れる沈黙。呼吸を忘れた者たちの瞳が驚愕により一点に固まる。
「……あ?」
吉沢由里は困惑したように視線だけを辺りに動かした。白い部屋。白い服。暑苦しい男の視線。
由里の細い肩を掴む翔吾の相好がゆっくりと崩れていく。目に優しげな涙を浮かべて、うっと息を吐いた翔吾は、震え続ける唇を横に広げていった。
「由里、おかえり……」
「ちけぇよ!」
由里の掌底が翔吾の股間を貫く。うっと白目を剥いて蹲る大柄の男。
「ああ……せっかくいい夢見てたってのによ……」
ふぅと息を吐いた由里は、窓の向こうの雲の先の、青い青い初夏の空に目を細めた。
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