天使の報い

忍野木しか

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第三章

報われぬ者

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 行かねば……。

 ゆらり、ゆらりと揺れる白い影。校舎を彷徨う白髪の老女に気が付いた人はいない。

 行かねば……。

 一歩。
 命の灯火が薄れていく。
 一歩。
 胸の鼓動が消えていく。

 行かねば……。
  
 新実和子の視線の先。白髪の老女が求めるもの。
 何故、この世に生まれ落ちたのか。
 新実和子は知っている。その問いに答えは無い。
 何故、この世を彷徨うのか。
 彷徨う理由は一つである、と新実和子は考えた。
 報われる為だ、と白髪の老女は痩せ細った腕を誰もいない廊下の先に伸ばした。
 やがて報われる時の為に我々は存在しているのだ。終わらぬ罰を受け続ける己の鼓動が求めるものは報いなのだ。
 ゆらり、ゆらりと揺れ続ける白い影。白髪の老女の鼓動は誰の耳にも届かない。
 信じていた。
 己の身が腐り果てるのを見届け、大切な者は救えず、やっと見つけた同じ名を持つ少年の身に寄り添い縋り付きながら地獄を彷徨い、哀れな存在の嘆きと悲鳴から目を背けず、罪を見て、罰を考え、数え切れぬ程の罪の先に、数え切れぬ程の罰を与え、永遠に終わらぬ苦しみの中をそれでも歩き続けてきた理由は、ひとえに、信じていたからだ。いつか報われる日が来ようと新実和子は信じていた。
 ただ信じるなどと、許されぬ罪の一つではないか。
 新実和子の浅い呼吸に耳を傾ける者はいない。
 罪を許さぬなどと、罪を背負った己という存在は、なんと浅はかで愚かだったのであろうか。
 新実和子の白い目に初夏の風は映らない。ゆらり、ゆらりと流れる白い髪だけが無意味な時を刻み続ける。
 
 行かねば……。

 階段が険しい。一段が遠い。枝から見下ろす大地を恐れる毛虫のように、屋上から眺める花壇の黄金色を畏怖する子供のように、骨と皮ばかりの手を壁に合わせた白髪の老女は、恐る恐るその痩せ細った足を、一歩、一歩、前へと落としていった。
 あっと腰を崩した老女の体が階段下に落ちる。二段、三段と転がる体。3階の廊下に倒れた新実和子は、それでも前に進もうと腕を動かした。

 行かねば……。

 骨は折れていない。肉は切れていない。だが、身体が起こせない。
 老女は痩せ細った腕で床を這った。一段、一段、と険しい段差を下に進んでいく。行かねばなるまい、と。見守らねばなるまい、と。
 気配。視線。階段を這う己の腕の先を見つめていた新実和子は浅い呼吸を繰り返すと、グッと顔だけを上にあげた。
 丸メガネの存在の視線。ポニーテールの女生徒。久保玲の透き通った瞳が階段下から白髪の老女を見つめた。
 ああ、見ないでおくれ……。
 一段、新実和子は滑り落ちる。見ないでおくれと願う老女。その視線が怖かったのだ。本物の天使の瞳が怖かった。いったいその透き通った瞳に己という存在はどう映っているのか。天使は憐んでいるのか。それとも蔑んでいるのか。
 善行も、悪行も、静かに見守る傍観の天使。久保玲の静観が白髪の老女には恐ろしかった。
 ふっと軽くなる身体。肩を支える誰かの腕。煙草の香。
 己は……。
 身体を支えられて起き上がった新実和子は白い目をほんの筈かに見開いた。辺りを漂う白い煙。黒いジャケットを着た天使。岸本美咲の瞳に言葉は無い。
 己が、何故……。
 ゆっくりと、一段、一段、階段を降りていく二つの存在。新実和子はかつての同僚の口元に浮かぶ白い煙を見上げた。
 そうか、ここはF高校であったか……。
 新実和子は硬く結ばれた唇をほんの僅かに緩めた。窓の向こうに広がる曇り空。久保玲が窓を開けると、初夏の訪れを告げる涼しい風が、階段を降りる二つの存在の白い影をゆらり、ゆらりと揺らめかせた。
 そうか、そうだ、ここはF高校であった……。ここは己の職場であった……。ここはあの子の職場であった……。
 新実和子の瞳がゆらゆらと揺らめく。岸本美咲は言葉なく、その痩せ細った身体を支え続けた。
 この学校はどうであろうか……。己が目を掛けておる青年がここで働く事となるのだが……。良い場所であろうか……。
 岸本美咲の視線が動く。ああ、と白い煙の天使は寂しげに微笑んだ。
 そうか……そうか……。
 薄れていく鼓動。消えていく灯火。
 丸メガネの天使の導きの先。一階の廊下は静かだった。遠くに響く声が梅雨の終わりの空に消えていく。まだほんの僅かに離れた世界を新実和子はゆっくりと歩いた。
 校庭の音が遠い。サイレンを鳴らす白い車の群が美術館に並ぶ絵画のように止まっては動いた。絵画を横目に、のそり、のそりと歩みを進める白髪の老女。やがて白い目に映る黄金色の光。背の高い老人の瞳。
 おお……これは……この花は……。
 白髪の老女の乾いた唇が横に開いた。初夏の風が、マリーゴールドの輝く花弁をゆらり、ゆらりと靡かせる。
 そうだ……そうだ……。これは、己が植えた花だ……。己とあの子で植えた花だ……。
 新実和子は視線を上げた。肩を支えてくれる存在。白い煙を見上げる白髪の老女。
 美しかろう……。己とあの子で植えた花なのだ……。美しかろう……。己とあの子、それともう一人……。はて、誰であったか……。確か、長い黒髪の美しい、誰か……。
 新実和子の視線が揺れる。花壇に向かって、一歩、一歩、足を前に踏み出す白髪の老女。やがて花の香りが鼻腔をくすぐると、白い煙の天使は白髪の老女から離れていった。花壇の前に座り込む消えかかった存在。ゆらり、ゆらりと黄金色の光が白い瞳に揺れ動く。


 やはり、何かあったのか。
 花を植える手を止めた新実三郎は、なだれ込むようにして校庭に現れる白い車の群に唇を噛んだ。スコップを投げ捨てて立ち上がる初老の男。軍手を付けたままに体育館に向かって駆け出そうとする三郎を白い腕が引き止める。
「先生待って、おばあちゃんが」
 浅葱色の瞳の女生徒。雨宮伊織の言葉に三郎は動きを止めた。あっと驚いたように目を見開く初老の男。痩せ細った白い髪の老婆が花壇の前で浅い呼吸を繰り返していたのだ。
「だ、大丈夫ですか」
 白髪の老婆に駆け寄る初老の男。弱々しく顔を上げた老婆は白く濁った瞳を三郎に向けた。
「大丈夫ですか? お名前は?」
 老婆からの返事はない。ただ老婆は、異様に凹んだ頬を微かに緩めると、小さく窄んだ唇をほんの少し横に開いてみせた。
「今、救急隊の方を呼んで参ります」
 立ち上がる三郎の腕に縋り付くようにもたれ掛かる白髪の老婆。軍手を投げ捨てた雨宮伊織が声を上げる。
「先生はおばあちゃんと居てあげてよ」
「何?」
「あたしが呼んで来るからさ」
 浅葱色の瞳の少女の微笑み。雨宮伊織のグレーのセミロングが風に流れる。マリーゴールドの花を植える二人の女生徒は、老婆の存在にも、救急車のサイレンにも気が付いていない様子である。
 伊織の背中を見送った三郎は、濁った瞳を此方に向ける白髪の老婆に微笑んだ。
「大丈夫、大丈夫ですよ」
 三郎の声に合わせるように、初夏の風がマリーゴールドの花弁を揺らした。優しげな男の声。白く濁った瞳を濡らす光。
 異相の老婆は唇を動かした。ありがとう、と。ごめんね、と。窄んだ唇が声を求める。伝える為の声を。繋がる為の声を。
 だが、声は出てこなかった。音の出し方が分からなかったのだ。白い目が語る言葉は初老の男には伝わらない。声を、音を、必死に求める老婆。白髪の老婆は唇を動かし続けた。
「せんせー、花、植え終わったよー」
 お団子ヘアの女生徒。深山沙智の声に、老婆の背中を優しく撫でていた三郎は顔を上げた。笑顔が眩しい女生徒が二人。初夏の風に流れる黄金色の花の群。
「おお、そうかそうか。うん、二人とも、ありがとう」
 ニッコリと微笑んだ三郎はスッと立ち上がった。離れていく温かな熱。あっと口を縦に動かした老婆が腕を伸ばす。
「いやはや、うんうん、綺麗な花だね。僕はね、この花が大好きなんだよ」
「ふーん」
「はっはっは、本当に綺麗な花たちだ。山梨クン、怪我は大丈夫かい?」
「うん、大丈夫だよ」
 ポニーテールの女生徒。山梨恵梨香は腕を振った。虫に噛まれたらしい指は傷も残っていない。何かに噛まれたと慌てふためいていた親友の姿を思い出した深山沙智は、ブハッと口から息を吹き出すと、雲を吹き飛ばすような高い声を空に響かせた。同じく笑い出す初老の男。白髪の老婆の存在は既に三郎の認知の外にある。

 
 行かないでおくれ……。

 
 白髪の老女。新実和子は痩せ細った腕を力無く伸ばした。鼓動と共に消えていく存在。灯火は影を作れないほどに薄い。
 新実和子は必死に唇を動かした。行かないでおくれ、と。見守っておくれ、と。三郎の背中に救いを求めた。神に祈りを捧げた。

 待っておくれ……。置いて行かないでおくれ……。

 丸メガネの天使。久保玲は動かない。静観の天使は、寂しそうに目を細めて、哀しそうに唇を閉じて、白髪の老女の最期の時を見送った。

 嫌だ……。怖い……。

 豊かな感情は罪なのであろうか。溢れ出る感情は罰なのであろうか。

 死にとうない……。一人になりとうない……。
 
 白髪の老女の視線の先。マリーゴールドの黄金色の花々。
 
 一人にしないでおくれ……。
 
 ふっと動きを止める音。報いを求める者の灯火が終わりの光を放つ。

 行かないでおくれ……。
 
 何故、この世に生まれ落ちたのか。
 何故、この世を彷徨い続けたのか。
 もんぺ服の少女が見つめた未来。少年と歩む筈だった世界。
 白髪の老女の指が閉じられる。少年の小さな手をぎゅっと握り締めると、もんぺ服の少女は歩き出した。行こうよ、と。もう一人ではないよ、と。
 天使の白い煙が空高く昇っていく。風がマリーゴールドの花を揺らすと、白い煙と共に、新実和子の存在が夏の空に消えた。


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