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第三章
笑う者
しおりを挟む「中野くん、大丈夫……?」
山本恵美は階段に座り込んで爪を噛む男子生徒の背中を優しく撫で続けた。やけに騒がしい旧校舎の空気。低い気圧に木製の廊下が軋むと、外の雑音を運ぶ梅雨の風が閉じられた窓を揺すった。
中野翼は廊下の一点に視線を下げたまま何かを思案するように爪を噛み続けた。魂が抜けたような虚な表情。だがその瞳は新たな発見を目前にした思想家のように、ギラギラとした光を放っている。
「……そうか、そうだよ」
ガチリ、と前歯が噛み合わさる音が、静寂とは程遠い旧校舎の空気を走った。視線を上にあげる男子生徒。不安そうに下唇を突き出した恵美は、強いショックにより心身が不安定な状態となっているであろう翼の背中をヨシヨシと揺すった。
「数の問題だったんだ。そうだよ、狭間への距離が近づいてたんだ。絶対性の無い空間が体験した死の数によって距離を縮めたんだ。数の問題だったんだ」
「……うん?」
眉をへの字に曲げて微笑む中年女性。首だけをグルリと回した翼は、ギラつく瞳を恵美に向けると白い歯を見せた。
「近付いたんだよ、先生、距離が近づいた事で皆んな悟ったんだ。死と生の距離じゃない、狭間への距離が物理的に近付いたんだ」
「……大丈夫?」
「そうだよ、生ある者は皆、狭間へと向かって進んでいるんだ。死は体験だったんだよ、求める者たちの神秘は死の向こう側にあったんだ。これって凄いジレンマだよね。だって生の内には体験出来ない事象なんだから、狭間に触れる事さえ出来ないんだから」
「へ、へぇ……」
「こうしちゃいられない!」
ボビングヘッドの人形のように首を振った翼は、飛び上がるようにして立ち上がった。旧校舎の廊下を走り出す首振り人形。慌てて立ち上がった恵美は前につんのめるような動作を繰り返しながら男子生徒の背中を追いかけた。
蠢く闇。悪臭。
体育館の外扉を開けた救急隊員たちは目の前の光景に声を忘れた。阿鼻叫喚。
いったい……いったい、これは何だ。ここは、学び舎では無かったのか。
思わず顔を見合わせた救急隊員たちは誰かの叫び声に肩を震わせた。
「息してねぇ! 息してねぇって!」
痙攣する女生徒の傍で叫ぶ大柄の男子生徒。太田翔吾の声に我に返った救急隊員たちは体育館に飛び込んだ。
「退きなさい!」
大柄の男子生徒を押し退けた隊員の一人が女生徒の首筋に手を当てる。目を見開いた隊員は心停止した女生徒を蘇生させようと胸骨圧迫を開始した。
「おせぇぞ、テメェら!」
老人の怒鳴り声。慌てた様子で無線を掲げる隊員に駆け寄った大場浩二はその胸ぐらを掴み上げた。
「何台だ」
「一台です。今、応援を呼んでいます」
「一台だと! ざけんじゃねーぞ、テメェら!」
「も、申し訳ありません」
「生徒たちが睡眠薬飲んでんだよ!」
「す、睡眠薬!?」
「急ぎやがれ!」
バッと手を離した浩二は一人でも多くの生徒を救おうと動き出した。慌てて無線の向こうに状況を伝える隊員。女生徒が息を吹き返したという隊員の言葉に安堵した翔吾は、その場にへたり込んだ。
未だ体育館の出入り口で佇む大男。握り締められた拳。全身の筋肉に込められた力。だが、臼田勝郎の足は一向に前に進まない。
ショートボブの天使。田中愛は眉を顰めた。入り口の前で立ち竦む大男のせいで体育館の中に入れないのである。
とおせんぼするな、とショートボブの天使は勝郎の尻にドロップキックを喰らわす。バランスを崩した勝郎が倒れ込むようにして体育館に足を踏み入れると、生徒たちを救わねば、と意気込んだ田中愛も体育館に飛び込んだ。
大丈夫か、と叫び声を上げるような動作をするショートボブの天使。白髪の天使曰く血に染まっているという体育館。血は、血は何処だ、と辺りにギラつく視線を送った田中愛は、はて、と首を傾げた。暗かったのだ。体育館の内部は異様な暗闇に包まれていた。
何も見えないではないか、と腰に手を当てたショートボブの天使は、入り口前の照明のスイッチをオンにした。だが、明かりは灯らない。
スイッチが壊れているのか、と憤慨した田中愛は、取り敢えずカーテンでも開けようかと体育倉庫に向かって走り出した。薬を舐める男子生徒の頬を蹴り飛ばし、袋を被ろうとする女生徒に躓きながら倉庫を目指すショートボブの天使。体育倉庫には2階のカーテンを開閉させられるボタンがある。夜の学校でカーテンを開閉させて遊んでいた田中愛はそのことを知っていた。
体育倉庫の周囲は特に暗かった。誰にも認知されることなく倉庫の扉を開けた田中愛の俊敏な動きがピタリと止まる。薄い電球の明かりに照らされた倉庫の床に肩の広い男が倒れていたのだ。その両眼は驚いたように見開かれ、乾きかかった赤黒い血が男の周囲に広がっている。
一瞬の間の後に、倒れ込むようにして肩の広い男に駆け寄った田中愛は、男の頬に触れて開かれた目を覗き込んだ。冷たい頬。音の無い身体。両眼に光は見えない。
何だ死体か、と胸を撫で下ろすショートボブの天使。死者は想いの対象では無い。ふぅと息を吐く動作をして立ち上がった田中愛は、倉庫の壁に設置されたスイッチに人差し指を伸ばした。
ヴィー、という田中愛にとっては心地良い音が倉庫の乾いた空気を微かに震わせる。舞台の幕が上がる直前のような高揚感。久しぶりに歌劇でも見に行こうかな、と田中愛は休暇の予定を立て始めた。否、天使に休暇など無い。劇場もまた人の文化を知る為に必要な学びの場なのである、と田中愛は細い顎を縦に振った。
体育館に広がる騒めきにショートボブの天使は気が付かない。開かれていくカーテンの隙間から差し込む曇り空の白い光。明かりが体育館の闇を包み込むと、顔を上げた生徒たちは困惑したように辺りを見渡した。
離され、遮断されていた空間に溢れる光と音。外の世界がやけに騒がしい。先程までの重苦しい静寂は何処へ行ったのか。終わりの見えない暗闇は何処へ行ったのか。
床に両手を付いたまま蹲っていた臼田勝郎がゆっくりと顔を上げる。光の下に涙を流す生徒たち。やっと口を開けることが出来た大男は深く息を吸った。いったい、自分は何をやっていたのか。だが、罪を嘆いている暇などない。
「やめんかぁああああっ」
勝郎の絶叫が梅雨空に向かって轟くと、外と中を遮断していたカーテンが全開となって動きを止めた。吐き出した死の幸を探していた女生徒は顔を上げ、光と声に困惑した男子生徒は被っていた袋を取る。
「やめんかぁああああっ」
勝郎は叫んだ。何が出来るのか、何をしてやれるのかが分からない。勝郎はとにかく叫んだ。嘆くように。怒るように。勝郎は声を張り上げた。
ショートボブの天使。田中愛は思案した。
いったいあの男は何をやめて欲しいのであろうか。
細い顎に手を当てて辺りを見渡すショートボブの天使。阿鼻叫喚の絵図。田中愛の判断能力の限界を軽々と飛び越えていく情報の量。いったい誰にどんな報いを与えてやれば良いのか。田中愛は考えるのを止めた。ジッと臼田勝朗の頭を睨み付けるショートボブの天使。
あっとショートボブの天使は目を丸める。勝郎の頭に煌めく光。ウルフカットのカツラが見当たらない。
また誰かに悪戯されたのか。
やれやれと腰に手を当てた田中愛は、蹲る生徒たちを踏み付けながら勝郎の側に歩み寄った。頭の光る大男。ウルフカットのカツラは誰に剥ぎ取られたのか体育館の出入り口付近に転がっている。
カツラを手に取るショートボブの天使。出入り口付近で惚けたように口を開けていた男子生徒の一人が、カツラを咥える黒い猫を見た。
ダッとカツラを咥えたまま走り出す黒い猫。勝郎の肩に駆け上った黒猫が器用にカツラを被せると、頭の違和感に気が付いた勝郎は叫ぶのを止めた。
「な、何だ?」
困惑したように頭に手を伸ばす大男。ガシッとカツラを掴んだ勝郎は、それを力一杯床に投げ捨てた。
ニャーと口を開ける黒い猫。何故、せっかく被せてあげたカツラを投げ捨てるのか、と田中愛は憤慨した。
カツラを咥え直して勝郎の肩によじ登るショートボブの天使。黒い猫がまたカツラを被せると、勝郎はイライラと太い腕を振った。
「やめんか!」
だが、田中愛は諦めない。サッと身を翻してはウルフカットのカツラを拾い上げるショートボブの天使。黒い猫がカツラを被せると、勝郎の怒鳴り声が体育館を震わせる。繰り返される動作は何処か滑稽だった。
「あはっ……」
誰かの失笑が微かに、はっきりと、窓の向こうの梅雨空に向かって走った。
「あはは……」
一人の声は集団の音に、失笑は哄笑へと変わっていく。
「あっはっは……」
喉を鳴らした女生徒が薬を吐き出した。腹を震わせた男子生徒は被ろうとしていた袋に胃液を溢す。痙攣し横たわる友達。吐瀉物と排泄物の悪臭。窓から差し込む初夏の光。
吐き出した息を大きく吸い込む生徒たち。哄笑はやがて嗚咽へと変わっていった。啜り泣く者たち。差し込む光。音に溢れた世界。
遠いサイレンの音が校舎を震わせる頃、カツラを被せるの諦めた田中愛は啜り泣く生徒たちの間で戯れ合う二つの存在を見た。
ダークブロンドの女生徒に抱き付く赤い服の存在。床に寝転がって見つめ合う少女たち。
何を遊んでいるんだ、と田中愛はカッと口を縦に開いた。少女たちの頭を叩くショートボブの天使。むくりと顔を上げた藤野桜は目を丸めて動きを止める。羨望の存在の瞳の光を見たのだ。それは導きの灯火だった。
ダークブロンドの天使。吉沢由里は力一杯身体を揺すった。田中愛に鋭い視線を送るダークブロンドの天使。ええ、と飛び上がった田中愛は藤野桜の瞳に輝く瞳を近づけた。サッと顔を背ける赤い服の少女。薬を飲んだという藤野桜は人に落ちていた。
何をやっているんだ、と田中愛はため息を吐く動作をした。明後日の方向に視線を送る藤野桜の目に涙が浮かぶ。早く吐かせろ、とダークブロンドの天使の視線は険しい。
分かった、と頷くショートボブの天使に容赦は無かった。藤野桜の頬を引っ叩いた田中愛は、その固く閉じられた唇に指を捻り込むと、喉の奥を細い指で掻き回した。後輩が涙目で呻こうとも田中愛は手を緩めない。
ゴボッと藤野桜は胃の内容物を吐き出した。ゴボ、ゴボ、激しくえずく動作を繰り返す赤い服の少女。数え切れない程の大量の錠剤が床に散らばると、なんて欲張りな奴なんだ、と田中愛は後輩の強欲の罪にドン引きした。涙と鼻水に濡れた後輩の顔。人に落ちたばかりであった為か、幸いにも錠剤はほとんど溶けていない。
さて、と顔を上げるショートボブの天使。嘆き、笑い、惑う、生徒たちの声。重なり合うサイレンの音で校庭が騒がしい。
取り敢えず、掃除でもしようかな、と頷いた田中愛は、腰にしがみ付く後輩を引き摺りながら歩き出した。
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