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第三章
拒む者
しおりを挟む暗い底に横たわる人形。
声が無かった。熱が無かった。音が無かった。
人形だと奥田恭子は思った。
袋を被った人形。異臭を放つ人形。人の姿をした人形。
音が無かったのだ。その人形の胸にも手首にも音は見当たらなかった。
あっと恭子は自分の耳を塞いだ。変わらぬ静寂。耳から手を離してみても世界を包む無音に変わりはない。
恭子はほっと息を吐いた。音が無いわけではない、音が聞こえなくなっていただけなのだ。
隣で女生徒が胃の内容物を自らの太ももに溢した。涙と鼻水に濡れた頬。薄暗闇を照らす光。だが、音は無い。
女生徒の背中を優しく撫でた恭子は、せっかくだからこの精巧な人形の顔でも拝んでやろうかと、頬を緩ませた。
濃く深く沈んでいく暗闇の底。外と隔離された空間。音を忘れ、自分の居る場所を忘れてしまった恭子は、夢見心地にワクワクと人形の顔を隠す袋に手を掛けた。首に掛かった青い輪ゴムは顔を拝むという欲望を妨げる障壁とはならない。ほんのりと温かなゴミ袋。或いは、この人形はゴミとして捨てられる最中だったのではなかろうか、と無邪気に微笑んだ恭子は袋を剥ぎ取った。
青白い人形の顔。乱れた黒い髪の下で見開かれた黒い瞳。口から漏れる白い液体には泡が混じっている。
窒息したんだ。
恭子は思った。
人形は窒息したから捨てられたんだ。
恭子は人形を哀れに思った。
人形は女性のようであった。誰かの顔に似た人形。だが、その形相は、見知った女性の表情とは似ても似つかない。野村理恵は笑顔を絶やさない可愛らしい女性であった。
恭子はグッと人形の胸を押した。ゴポッと白い液体に泡が浮かぶ。恭子はもう一度人形の胸を押した。恭子の肩を揺する誰か。人形の胸を押しながら顔を上げた恭子は、白い髪を後ろに撫で付けた老人の悲痛に歪んだような表情を見る。
老人は口を開いた。首を振って何かを語り掛けてくる白髪の老人。だが、恭子には聞こえない。恭子はひたすら人形の音の無い胸を押し続けた。老人の瞳に灯る怒りの色。老人の手のひらが恭子の頬にぶつかっても、恭子は気にせず人形の胸を押し続けた。
大丈夫、大丈夫よ、捨てたりなんてしないからね。
心の中で語り掛ける言葉。響き渡る絶叫に顔を上げる生徒たち。
大丈夫、大丈夫。
暗闇に轟く叫び声。初老の女性の口から溢れ出す熱い吐息。だが、その音は人形にも自分にも届かない。
白い髪を映す漆黒の瞳。
表情は無い。
長い黒髪を見つめる白い影。
生気は無い。
白髪の老女。新実和子は長い黒髪の女生徒を睨んだ。重なり合う視線。白い天使と黒い天使。
己の存在意義は何だ、と新実和子は問うた。音の無い領域。人けの無い校舎。
何故再び落ちた、と新実和子は見下ろした。音の無い存在。人では無い者の視線。
観察する天使。長い黒髪の女生徒。
宮野鈴は首を傾げた。自分に問うているのか、と宮野鈴の赤い唇が横に開く。天使の微笑み。悪魔の瞳。
立ち去れ、と白髪の天使は鋭い一重を細めた。あの娘には相応の罰を与えねばならぬ。罪を背負った者に報いを与える行為こそが己の意義なのだ、と白髪の天使は漆黒の瞳を持つ女生徒を冷たく見下ろした。
違う、と宮野鈴は微かに細い首を動かす。梅雨の風が校舎の窓を震わすと、黒と白の幻想が、ゆらり、ゆらりと夢と現の狭間を行き来した。
違わぬ、と新実和子の瞳の色は変わらない。報いは定めなのだ、と天使は風を動かさない。人が人であり続ける限り、天使が天使であり続ける限り、罪は、罰は、生まれ与えられ続けるのである。定めなのだ、と新実和子の白い髪が動くことはなかった。
違うのだ、そういう話ではないのだ、と宮野鈴は長い黒髪を横に振った。観察する天使の瞳。赤く濡れた天使の唇。
もうこの世を憎む必要はないのだ、と黒い髪が静寂に揺れる。
お前は天使ではないのだ、と漆黒の瞳が薄暗い廊下に光る。
あの男はお前の子ではないのだ、と宮野鈴の唇が音の無い空間を動かした。
そんなことは分かっておる。
新実和子の唇が縦に裂けた。怒りの形相は天使のそれではない。音の無い鼓動は人のそれではない。
分かっていないのだ、と宮野鈴の表情が変わる。
恨む人のそれと変わらないのだ。意味の無い行為を繰り返しているだけなのだ、と長い黒髪の天使は憎む者の鋭い一重を冷たく見上げた。
曇り空から吹く風が窓を揺らし続ける。微かな声が領域を越えた外の世界から音の無い校舎を流れた。
何も学ば無かったのかと、凛と揺れる長い黒髪。あの二つの存在から何も学べ無かったのか、と白い影を見上げる宮野鈴の漆黒の瞳が細められる。
何の話をしておる、と新実和子の鋭い瞳の光は変わらない。その白い髪は動かない。
もう良い、と宮野鈴は窓の外を見た。曇り空の向こうの青い線。繰り返される季節に争う術は無い。
新実三郎に罰を下す。
宮野鈴の赤い唇が横に開いた。
ピクリと動く白い眉。細められる鋭い一重。
だが、新実和子の白い髪は動かない。
下したくば下せばよい、と新実和子は宮野鈴を冷酷に見下ろした。意外そうに丸められる漆黒の瞳。かつての白髪の天使は、愛する青年を長い黒髪の天使の報いから守ろうと動いた結果に、人の身へと落ちたのだった。
動かぬ髪。動かぬ視線。新実和子は腕を組んだ。
その清廉な男に対して下そうという愚かな報いこそが、己という悪魔の存在証明となろう、と新実和子の瞳の色は変わらなかった。憎む者の目に宿る最後の光は大罪を背負った娘への復讐の炎のみである。
スッと細められる漆黒の瞳。いやらしく歪む純血の唇。
そうか、そうか、と宮野鈴は納得したように頷いた。
そうであろう、と観察する天使の長い髪が冷夏の涼しい風に遊ぶ黒百合のように楽しそうにはしゃいだ。
それでいいのだ、と長い黒髪の天使は頷いた。
天真爛漫な少女の微笑み。純白と純血の天使。
血が繋がっていないものな。
ドクン、という鼓動が新実和子の全身を震わせた。人に落ちる感覚とは違う痛みではない圧迫感。白髪の天使の長い髪が静寂の校舎にふっと揺れる。
育ての親でも無ければ血も繋がっていない。あの男はお前の存在など認知していない、と宮野鈴は無邪気な笑みを浮かべた。
ドクン、ドクン、と新実和子の血が脈打つ。圧迫され喪失する感覚。人に落ちる痛みではない苦しみ。
無意味な行為だったと後悔する必要はない。天使に血縁は必要ないのだから、と天使の長い黒髪がその新雪が如き純白の頬をスッと撫でた。
違う。
新実和子は否定した。
あの子は己の血縁である、と新実和子は白く濁った瞳を長い黒髪の天使に向けた。
何を根拠に、と柔らかく細められる漆黒の瞳。お前とあの男の繋がりは何一つとして見つからなかった、と宮野鈴の赤い唇が、駄々をこねる子供に困った母親のように優しく縦に開かれた。
苗字が同じである、と新実和子は痩せ細った腕を強く横に振った。
クスリと笑う動作をする長い黒髪の天使。頑張って探したのだな、と宮野鈴は白い手で赤い唇を押さえた。
容姿や体格も似ている、と新実和子は自分の凹んだ頬に骨と皮ばかりの両手を当てた。
細い首を横に振る長い黒髪の天使。成長する天使たちは異様に背が高くなる。そして、その骨格は異形へと変わっていってしまうのだ、と宮野鈴は潰れたゴキブリの触覚の動きに顔を歪める少女のような表情でチロリと桃色の舌の先を出して見せた。
お前のその姿は本来のお前のものではない。自分はお前よりも背が高く異形な顔をした天使たちの存在を知っている、と何処までも無邪気な天使の微笑み。純白の天使の長い黒髪。
違う。
新実和子は震え鼓動する長い足を一歩前に踏み出した。
違う、あの男は、あの子は、己の息子である、と新実和子は長い両腕を宙に持ち上げた。拒むように。抱き締めるように。
意味は無い。
違う。
認知されていない。
違う。
血は繋がっていない。
違う。
お前は母親ではない。
違う。
違うのだ。
新実和子の長い腕。宮野鈴の細い首。
己が存在への報いは、我が子の一生を見守ることにあるのだ。
白髪の天使の視線の先。長く黒い天使の髪。
新実和子の白く濁った瞳に黒い影が映る。開かれた長い指の先が細い首に絡まると、宮野鈴の足がゆっくりと床から離れていった。
違う、と否定する存在の瞳は天使のそれでは無い。
繋がっているのだ、とこの世を憎む存在の表情は人のそれでは無い。
細い首を絞められた宮野鈴は苦しそうに唇を歪めた。だが、新実和子は腕の力を緩めない。否、緩める必要などないのである。天使が死ぬことはないのだから。
胸の鼓動に痛みは無い。苦しみは人に落ちる感覚では無い。
違うのだ、血は繋がっているのだ。
──腐り果て蠅の集るもんぺ服の少女の死体。少女に寄り添うようにして死んでいった少年。
違うのだ、あの子は、己の息子なのだ。
新実和子は歯を食いしばった。指に掛かる力。果てることの無い憎しみの炎。
ゴキッ、と何かが折れる音がした。
動きを止める白髪の天使。感情と並列に動こうとする思考。新実和子の瞳に映る純白の存在。その長い黒髪がピクリと痙攣する。
……音。
……音の無い存在から発せられた音。
ドクン、と新実和子の胸に鋭い痛みが走った。人に落ちる感覚。追いつかない理解。音の無い存在が、何故、音を発するのか。
あっと新実和子は目を見開いた。緩められた指から滑り落ちる物体。力無く廊下に横たわる長い黒髪の女生徒。
宮野鈴は人だった。
あり得ぬ。
新実和子は震えた。
宮野鈴は確かに先ほどまでは天使であった。人などでは無かった。
あり得ぬ。
新実和子は胸を押さえた。
人に落ちる痛み。終わりを拒む者の痛み。
あり得ぬ。
同時に、新実和子は理解した。男の狂気から逃れた少女。抗えぬ筈の厄災から、天使の報いから生還した長い黒髪の女生徒。宮野鈴という存在は偶然の産物などでは無かったのだ。
宮野鈴は天使と人の間を自由に行き来していた。
あり得ぬ、と新実和子は苦痛に歪む唇を横に開いた。
もはや、もはや、この存在は、天使でも人でも無い。
諦めたような笑み。見開かれた鋭い一重。鼓動する胸を押さえたまま、新実和子は、廊下に横たわる長い黒髪の女生徒を見下ろした。
ドクン、ドクン、と激しく痙攣する血管。自らの手で人を殺そうとした天使。落ち果ててゆく存在の鼓動。
新実和子は一歩前に足を踏み出した。ふらり、ふらりと揺れる白い影。校舎を震わす梅雨の風。外の世界の声がゆっくりと音の無い校舎を包み込んでいく。
行かねば。
新実和子は視線を上げた。
行かねばなるまい。見守らねばなるまい。
新実和子は前を見続けた。激しく震える手足。終わりを告げる鐘の音色。
宮野鈴を振り返ることは無かった。死んでいるのであれば、風に飛ばされる煙のようにその存在はこの世から消滅するであろう。生きているのであれば、また天使と落ちてこの世を彷徨い続けることとなるのであろう。
何方にせよ、白髪の老婆には最早関係の無い話であった。
行かねば。
ゆらり、ゆらりと揺れる白い影。静寂を震わせる声。音の無い世界が徐々に崩壊していく。
行かねば。
報いを求める者。空気を動かす存在。
白髪の老女。新実和子の白い影が、校舎を流れる音と共にゆらり、ゆらりと揺れて落ちた。
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