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第三章
蠢く者
しおりを挟む底を流れる汚物。湿気に濁る異臭。
救いを求める者たちに太田翔吾の叫びは届かない。大きな腕の先を伸ばして体育館を走り回る男子生徒。闇の底を踏み鳴らす音が遠い。もがく者の呻きが遠い。
袋を被ろうと手を震わせる女生徒。その腕を叩いた翔吾は、口に入った何かを飲み込もうと涙を流す男子生徒の顔を殴った。
「やめろっ!」
床に頭を打ち付けた男子生徒は、口から唾液に混じった錠剤を吐き出す。薄暗闇に煌めく星々。見えない道を照らす光。殴られた頬を押さえた男子生徒は床に飛び散った錠剤に覆い被さった。守るように。縋るように。
「やめろっ! やめろよっ! やめろっ!」
泣き叫ぶ翔吾の声に顔を上げる者はいない。暗いのだ。隔てられた窓。閉じられた扉。空間を呑み込む闇が翔吾の声を押し潰した。瞳の光りを翳らせた。
「楓! 何処だ!」
体育館に飛び込む背の高い男子生徒。パープルピンクの毛先。島原健也は暗い体育館の底に目を凝らした。
「あ……?」
あまりにも異様な光景に言葉を失う男。足を止めた健也は立ち竦んだまま体育館を見渡した。
横たわる人形の群。袋を被って体をくねらせる者。床に頭を打ち付ける誰かに覆い被さって痙攣する誰か。何かを求めるように腕を振り回して叫ぶ女生徒。蹲って何かを探す男子生徒。
床に飛び散る唾液の光に何かが混じっている。呆然と思考を止めたままにその何かを見極めようとした健也は、獣のような叫び声にはっと顔を上げた。
排泄物と吐瀉物の臭い。底の見えない闇の向こうで叫ぶ者。俯く者たちの隙間を縫うようにして暴れ回っていた大柄の男の絶叫が重い空気を震わせる。太い腕を振り上げる大柄の男。太田翔吾が短い髪の女生徒の頬を叩くと、目を見開いた健也はダッと床を蹴って走り出した。
「ざけんじゃねーぞ、コラッ!」
翔吾に突進するパープルピンクの男子生徒。床を転がった翔吾は、何とか錠剤を飲み込もうと乾いた舌を動かす男子生徒と衝突した。
フラフラと立ち上がった翔吾の頬を健也の右拳が貫く。そのまま流れるように左フックを脇腹に入れた健也は、翔吾の後頭部を右手で押さえると、額に頭突きを食らわせた。頭を押さえて呻く二人。予想外の翔吾の頭の硬さに健也の動きが止まる。
「やってくれんじゃねーか、テメェ」
先に回復した翔吾は、頭を押さえたまま此方を睨む健也の胸ぐらを両手で掴むと、グイッとその体を持ち上げた。宙で足をバタつかせるパープルピンクの男子生徒。
ゴボッ、という鈍い音が二人の足元に響く。顔を下げた翔吾は床に嘔吐する女生徒の黒い髪を見た。
「楓! 楓!」
誰かの名前を叫びながら暴れ始める男。耳をつんざく様な絶叫が体育館の出入り口から暗闇を揺らすと、健也を床に落とした翔吾は顔を上げた。
「ああああああっ皆んなっ! 皆んなっ! の、野村先生っ! 野村先生は何処なの! あああっ大変! どうしてこんなっ! 野村先生! 皆んなっ!」
体育館に足を踏み入れた奥田恭子はショックのあまり我を失った。ヨタヨタと暗闇を歩きながら叫び声を上げる初老の養護教諭。蹲る女生徒の体に覆い被さる様にして膝を付いた恭子は、その周囲に散らばる錠剤を一つ手に取った。唾液に濡れた肌色の錠剤。呆然と錠剤の形状を眺めた恭子は、膝下に転がる包装シートに手を伸ばす。薄緑色の光。
ゾ、ゾルピデム……。睡眠導入剤……。
目を見開いた恭子の意識がゆっくりと遠のいていく。色の無い闇の奥底へ。声の届かない世界の向こう側へ。
「先生っ!」
闇の底に伸ばされる叫び。誰かの怒鳴り声に脳を震わされた恭子は、カッと目を見開いた。此方に向かって走る大柄の男子生徒。太田翔吾は縋り付くように恭子の肩を何度も何度も揺する。
「先生っ! 先生っ! み、皆んなが! お、俺、俺、どうすれば、どうすればいいですか!」
ブワッと涙を流す男子生徒。救おうと足掻く者の光。唇を噛み締めた恭子は、自分の情けなさを恥じるようにギュッと指に力を込めると、翔吾の肩を掴み返した。
「く、薬を吐かせて、太田くん! 吐かせるのよ! 水を飲ませて、喉に指を突っ込んで! か、噛まれるかもしれないけど、とにかく吐かせるのよ!」
「はい!」
身を翻した男子生徒が呻く者たちの群れに飛び込んでいく。その広い背中を見届けた恭子は、目の前で蹲る女生徒の顔を持ち上げると、その狭い口に指を突っ込んだ。
「大丈夫よ、大丈夫だからね」
激しく嘔吐する女生徒。涙と吐瀉物に汚れた女生徒を抱き締めた恭子は全身に力を込めて立ち上がった。
ゆらり、ゆらりと消えては現れる白い影。音の無い存在の彷徨う校舎。白髪の天使の視線の先。静寂に震える大罪人の鼓動。
廊下を踏み鳴らす臼田勝郎の音が遠ざかると、大場浩二の白い髪が旧校舎の向こうの影に消えた。再び凍えていく旧校舎の空気。遠い世界を見下ろす白銅の空。
少し遅れて山本恵美も走り出した。だが、すぐに転んでしまう。下半身に力が入らなかった。疲労によるものか。硬直した筋肉が弛緩していく過程によるものか。足の震えが一向に止まらない。
背後の空気が動く。慌てて振り返った恵美は、廊下に両手をついた男子生徒の嗚咽を見た。恐怖と悲しみに乱れた髪。異様な現場で死体を見たという少年の、風に崩れて消えてしまいそうな程に弱々しい手足。
「な、中野くん!」
体を起こした恵美は震える足に力を込めると男子生徒に歩み寄った。少年の顔に浮かぶ苦痛。少年に寄り添う黒い猫。
「大丈夫よ、大丈夫。中野くん、大丈夫ですよ」
そっと顔を上げる男子生徒。その瞳に浮かぶ困惑の色。
弛んだ頬を横に広げてぎこちない笑顔を浮かべた恵美は、新実三郎が自分に与えてくれた様な優しい微笑みを思い出しながら、恐怖と悲しみに震える中野翼の背中をゆっくりと撫で始めた。
「大丈夫、大丈夫ですからね」
「……ふっ……くっ……」
「大丈夫、大丈夫」
「……な……ううっ……な、何が……?」
「大丈夫です、大丈夫なのですよ」
「……ううっ……だ、だから、何が……?」
「大丈夫、大丈夫、全部、大丈夫です」
「……だ、だから……っ……な、な、何が……大丈夫、なんですか?」
「ん?」
「な、何も、大丈夫なんかじゃ……無いですよ!」
「ど、どうしたの? 大丈夫よ、大丈夫だからね?」
「だ、だから、大丈夫じゃ、無いですって! ……うっ……し、死んで……死んでるんですよ! 誰か、死んでるんですってば! 大丈夫な事なんて、何も、無いですよ!」
男子生徒の瞳に揺れる怒りと焦りの色。フラフラと立ち上がった中野翼は、呆然と此方を見上げる中年女性を尻目に廊下を歩き出した。後に続く黒い猫。
「あ、ああ! お待ちなさい、中野くん!」
慌てて立ち上がった恵美は弱々しく足を前に動かす男子生徒の腕を掴んだ。その手を振り払おうともがく男子生徒。足元を動き回る黒猫の存在にヨロけた二人は旧校舎の廊下にすてんと転がった。ニャッ、と音の無い鳴き声を上げる黒猫。フラフラと起き上がる二人。
「は、早く、体育館に戻らないと……」
「ま、待ちなさい、中野くん! 何が起こっているのか分からないのでしょう? 危険です! 大人に任せておきなさい!」
「友達があそこにいるんだ! 待ってなんてられないよ!」
「臼田先生にお任せするんです! それに、大場さんも体育館に向かっている筈よ! あの人たちが何とかしてくれるわ!」
旧校舎に木霊する声。二つの存在が発する熱気。音の無い世界を震わす音。
視線が対象を捉えた。
ゆらり、ゆらりと現れては落ちる白い影。旧校舎の空気を動かさない存在。新実和子の瞳の光。
言い合う二人を見つめる者。何やら熱心にコクコクと頷いているショートボブの天使。手帳に何かを書き込んだ田中愛に、新実和子は視線を送った。
勧告。今すぐに体育館に向かうよう新実和子が勧告をする。
ショートボブの天使。田中愛は細い首を横に振った。今は忙しいのだと、田中愛は二人の言い合いに夢中である。
スッと前に進む白髪の存在。田中愛を見下ろした新実和子は再度勧告した。死を望む者たちの混乱によって体育館が血に染まっている、と新実和子の瞳が冷たい光を放った。
飛び上がるショートボブの天使。急いで手帳をポケットに仕舞った田中愛は、新実和子の骨張った腕を掴んだ。
何をする、と新実和子は眉を顰める。
早く体育館に向かおう、とショートボブの天使は力一杯新実和子の腕を引っ張った。ドングリを運ぶリスにも劣る力。田中愛の腕を振り払った新実和子は警告する。
己が存在の意義を履き違えるな、と警告する白髪の存在。同じ天使とて本分が違うのだ、と新実和子の瞳は何処までも冷たかった。
困惑。田中愛には理解の出来ない話であった。思わず手帳を取り出すショートボブの天使。中野翼の怒りの叫びにはっと目を丸くした田中愛は、慌てて手帳をポケットに突っ込んだ。今は学ぶ時では無い。
再び新実和子の腕を掴むショートボブの天使。ともかくである。困っている人たちの元に早く行ってあげないと、と田中愛の瞳が何処までも清らかな初夏の青に煌めいた。
あっと口を開いた新実和子はサッと明後日の方向に視線を送った。腕を引っ張る存在。大地に根を張る大木が如き力。
新実和子は窓の向こうの曇り空を見つめたまま唇を噛み締める。
恐ろしかったのだ。田中愛の瞳の光があまりにも眩しかった。それは、一点の曇りも無い天使の瞳であった。
己とは違う存在。観察する長い黒髪の存在とも違う、悲観する赤い服の存在とも、狭間を漂うダークブロンドの存在とも違う存在。異質な存在。本物の天使。
天使の視線が新実和子に問いかける。困っている人々を救わないのか、と。
本質が違うのだ、と新実和子は目を瞑った。
存在の意義が違えば、幸の意味が違う、報いの行方が違うのだ、と新実和子は目を開いた。
首を傾げるショートボブの天使。その澄み切った瞳を見下ろした新実和子は目を細める。感情に揺れる瞳。畏敬と慈しみの視線。
己にはやらなければならない仕事があるのだ、と天使のショートボブを撫でた新実和子は、その小さな背中をそっと押した。
コクリと頷くショートボブの天使。ダッと廊下を駆け出した田中愛は体育館に向かって瞳を光らせた。
田中愛の背中を見上げた新実和子は、旧校舎の廊下で言い合う二つの存在に視線を下ろす。
罪に罰を。人に報いを。それが己という存在の意義である。
山本恵美の太った体。生徒を想う教師。感情に溢れた瞳を持つ中年女性。
スッと片腕を上げた新実和子は、認知から遠く遠く離れた存在の距離をゆっくりと此方に引き寄せていった。天使よりも更に遠くに蠢く者たち。終わりを迎え自我を失った存在。人の成れの果て。
ふっと鼻に付く臭い。焼け焦げた何かの不快臭。
顔を上げた山本恵美は、鼓膜を震わせない微かな音に眉を顰めると、キョロキョロと辺りを見渡した。
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