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第三章
震える者
しおりを挟む何故だ……。
何故、居るのだ……。
この場に居てはならぬ……。
立ち去るのだ……。
厄災に近づいてはならぬ……。
山本恵美は走った。姉の影を追って、姉と微笑み合う未来に向かって、音の無い校舎を駆け抜けた。
居るはずがないだろうと囁き掛ける理性。それを否定する感情。
それは暗闇に照らされた唯一の道であった。歩みを止めた中年女性。その場に蹲って振り返り続けた過去。
記憶の底の日々に宿ったのは理性だった。その理性が訪れる未来を暗いものとし、戻れない過去を彩りに溢れたものとしていたのだ。
再び未来に向かって歩み出すのに必要なのは感情だった。感情こそが動きを止めた体を震わす原動力となる。感情こそがまだ見ぬ未来を渇望させる想いとなる。
姉はもう居ない。
絵を見て。
姉は死んだのだ。
絵を褒めて。
居ないのだ。
微笑んで。
もう居ないのだ。
抱き締めて。
ああ、褒められたい。ああ、抱き締められたい。
居るかもしれないのだ。微笑んでくれるかもしれないのだ。
希望は期待に、期待は高揚に、高揚は喜びに変わる。
居ないのかもしれない。最後に見た幻想なのかもしれない。
それでもこの期待は、高揚は、喜びは本物だった。例え妄想の産物だったのだろうと、未来に希望を抱く手足の躍動は本物だった。
過去に視線を落としていた中年女性。顔を上げた恵美は未来に向かって必死に走った。
否、貴様だけは許さぬ。
白髪の天使。新実和子は音も無く廊下を歩いた。ゆらりゆらりと消えては現れる白い影。厄災の視線の先に希望はない。
新実和子は絶望した。報いの完遂の手前に最悪の災いが舞い降りたのだ。
何故、居るのだ。
新実和子は問うた。背の高い初老の男。新実三郎はこの場に居てよい人では無かった。
だが、落ち続ける時計の砂を止めることは出来ない。やがて厄災が全ての声を奪うのだ。この学校は沈黙の手前にあるのだ。山本恵美への報いが為に。29年前の罪が為に。
もっと早くに遠ざけておくべきであった。厄災の及ばぬ位置に留めておくべきであった。
三郎を近づけていたのは他でもない新実和子自身である。山本恵美への報いが為に、抑えきれない激情が為に、最愛の人でさえも己が報いを完遂させる為の道具として動かしてしまっていたのだ。
違う。
新実和子は否定した。動かしていたわけではない、と、三郎の意思を尊重してのことだ、と、それは決して抑えられぬ激情に動かされた結果などではないのだ、と新実和子は否定した。
悪行に対する報い。罪に対する罰。
与える行為は天使の宿命なのだ。山本恵美への報いは避けられぬ定めにあったのだ。
かつての失敗を繰り返してはならぬ。
長い黒髪の天使。宮野鈴が彷徨く校舎。
或いは、もはや生徒たちに平等な死の幸を与えてやる事は不可能かもしれない。異物の始末が済んでいないのだ。まだ死の幸を与えるべきでない人々の排除が終わっていないのだ。怠惰の罪を背負わぬ者たちがまだこの学校に留まっていた。特に、臼田勝郎の存在だけは、死の報いを実行する前に消しておく必要があった。だがそれも、もう遅い。
そして何より、三郎の存在があるこの校舎において救済の炎は躊躇われた。否、止めるべきであった。本来ならば、今すぐにでも生徒たちへの幸を止めるために動き出すべきであった。
かつての失敗を繰り返してはならぬ。
激情は定めか。新実和子は動けなかった。宮野鈴の動きは読めない。だが、山本恵美に対して何らかの行動を起こしていることだけは確かであった。
かつての虚ろに向かっていた恵美の心。その心に再び宿された感情の光。
かつての失敗を繰り返してはならぬ。
己が手で与えねばならぬ報い。山本恵美の罪に対する罰だけは、何としてもこの手で与えてやらねばならぬ、と新実和子の白い影がゆらりゆらりと揺れて落ちた。
平成の始まり。夏の終わり。青い日差しの下の校舎。
屋上への階段を駆け上る太った少女の顔は喜びの光に満ち溢れていた。それは作られた喜びだったのだろうか。虚な少女が感情を表すのは姉の前だけであった。
新実和子は音もなくその後を続いた。階段の先。開かれた扉の向こうの青空。宮野鈴の邪悪な微笑み。
太った少女。山本恵美、否、宮野恵美は満面の笑みを浮かべた。夏休みの静かな校舎。姉と二人だけで共有する屋上という空間。宮野恵美はご機嫌だった。純粋な青年の心を汚そうとした悪魔の微笑みに、美しい青年の唇を奪った悪魔の長い黒髪に、宮野恵美は限りない愛しみの感情を覚えているようだった。
長い黒髪の女生徒。大罪を背負った存在。
宮野鈴に与える報いは特別なものとしようと、新実和子は考えていた。長い時間を掛けて、微かな喜びと、それを踏み砕き塗り潰すような絶望を繰り返し与えながら、決して免れぬ終わりの瞬間への恐怖に打ち拉がれ泣き叫び救いを懇願する宮野鈴に対して、更なる厄災を与えてやろう、と新実和子は大罪を背負った弱者への嗜虐心に打ち震えていた。
先ずは自らが作り上げた醜い人形との決別であろうか。
新実和子は歪な姉妹の縁を完全に断ち切ってやろうと考えた。与えられる罰は小さなものとなるかもしれない。宮野鈴という存在はおよそ人の心というものを持たない怪物なのである。たとえ肉親である妹との間に永遠の決別が訪れようとも、宮野鈴は微笑みを崩さないかもしれない。
それでも決別の罰は必要であろう、と新実和子は考えた。厄災を与える中で味方の存在が異物となり得たからだ。先ずは仲違いをさせておいて、いずれ然るべき時に、この哀れな醜い人形に死の幸を与えてやろう、と新実和子は考えていた。
夏の終わりの風。澄んだ深い青に覆われた空。屋上で見つめ合う姉妹。二人を囲む柵は低い。
宮野鈴が妹を屋上に呼んだ理由は分からなかった。だが、およそまともな理由では無いのだろう、と新実和子は思っていた。それ程までに宮野鈴の精神状態は不安定だったのだ。否、表には出ぬ感情の起伏が激しくなっていたというべきか。心理誘導による妹へのイジメは激しさを増し、自分自身は、まるでその身を汚すことに喜びを感じているかのように、次々と、手当たり次第に様々な男と肌を重ね合わせるようになっていた。
何も知らない妹。宮野恵美の喜び。醜い人形の微笑み。その瞳に宿る同情の光。
妹の瞳の光に微笑むのを止めた宮野鈴は、ゆっくりと、赤い唇を縦に開いた。
中傷の言葉。
否、真実の暴言。
醜い人形はポカンと口を横に開いたままに動きを止めてしまう。同様に、新見和子も唖然として動きを止めた。
宮野鈴のその姿がまるで普通の少女のようだったのだ。
邪悪な怪物が、か弱い人の姿となって現れたかのような。老練な悪魔の仮面を剥ぎ取った思春期の少女が、同級生への嫉妬心に口を滑らすかのような。宮野鈴のその姿は何処にでも居るような普通の女生徒であった。
宮野鈴は笑っていた。嘲笑。少女の笑い声。自分と対等な、否、自分では到底叶わぬ相手に向けられるような羨望と屈辱の混じった声色。
醜い人形。宮野恵美の困惑は、新実和子のそれとは類が違う。眩い天使の瞳に宿る影への惑い。聖母の微笑みが崩れていく恐怖。醜い人形は美しい姉の見せる醜い表情に困惑していた。
宮野鈴は止まらなかった。
沸き上がる感情の渦に操られているかのように。収まらない感情の炎を吹き出し続けるかのように。醜い人形を、実の妹を、蔑み嘲り続けた。
困惑の表情。同情の瞳。宮野恵美は腕に抱えられたノートを開いた。
クレパスの花々。黄色いマリーゴールド。
新しい絵を見てもらおうと、大好きな姉に褒めて貰おうと、宮野恵美は屋上を訪れたのだ。
妹に近づく姉。宮野鈴の冷たい瞳。妹からノートを奪った姉はその絵を嘲笑った。下手クソな絵だと、才能がないのだと、凡庸な者が好んで口にするであろう何処にでもありふれた中傷の言葉。
クレパスのマリーゴールド。青空に煌めく黄色い花の群。
その白い端に指を掛けた宮野鈴は、高笑いと共にページを破り捨てた。細かく飛ぶ黄色い破片。夏の終わりの風が連れ去る匂い。
宮野恵美は呆然と破かれた絵を見つめた。屋上に投げ捨てられるノート。風に飛ばされていくクレパスのマリーゴールド。
ほんの少しだけ満足したように微笑む宮野鈴。だが、その瞳はすぐに驚愕の色に染まる。
虚ろなだけであった筈の妹の瞳に、憧れ嫉妬し愛するように作られた筈の人形の顔に、怒りの炎が浮かび上がったのだ。
宮野恵美は泣いていた。悲しみの涙である。怒りの涙である。激しい感情に歪んだ顔。瞳から溢れ出る光。
それは恐怖だったのだろうか。それとも何か別の感情だったのだろうか。妹の激しい怒りに触れた宮野鈴は微かに唇を震わせながら後ずさった。低い柵の向こうの青空。怒りと悲しみ震える人形。
宮野恵美が前に掲げた両腕。暴力など振るった事が無かったであろう丸い指。ただただ、激しい怒りに任せて前に突き出された宮野恵美の手のひらが、後ろに下がる姉の胸をグッと押した。大きく見開かれた宮野鈴の漆黒の瞳。浮かび上がる様々な感情の光。
怪物が最後に放った言葉は何であったのだろうか。それは妹の耳に届いたのであろうか。
その最後は唐突だった。あまりにも呆気ない終わりだった。新実和子が最大の報いを与えようと定めた大罪人の儚い命は、夏の終わりの空に散った。
許さぬ。
新実和子は激情に駆られた。人に落ちる感覚。天使の視線の先に佇む醜い少女。
同種殺しの罪。近親殺しの罪。神の定めを踏み躙った罪。大罪人を救った罪。
姉を殺した少女への激しい怒り。激情の中で思考する天使の視線の先。宮野恵美は様子がおかしかった。
ポカンと青い空を見つめたまま固まる太った少女。両腕を前に向けたままキョロキョロと辺りを見渡す醜い人形。
宮野恵美は風に靡くノートを手に取ると、トコトコと屋上を歩き回りながら姉の名前を呼び始めた。おーい、おーい、と姉の姿を屋上に探す太った少女。キョトンとした表情で、疲れたように屋上のコンクリートに腰掛けた宮野恵美は、体操座りで青い空を見上げたまま固まってしまった。まるで、これから訪れる予定である姉の姿を待っているかのように、天使が舞い降りるのを待ち望んでいるかのように、宮野恵美は夏の終わりの青空に微笑んでいた。
あり得ぬ。
新実和子は全身を震わせた。
そんな馬鹿な事があってはならぬ。
新実和子は激しく鼓動する心臓を押さえた。
宮野恵美は自分が犯した罪を忘れてしまっていたのだ。近親殺しの罪を、神を冒涜した罪を、完全に忘れて微笑んでいたのだ。
ただの……ただの報いでは済まさない……。
新実和子は神に誓った。たとえ自分が人の身に落ち愚かな最後を迎えようとも、この醜い人形だけは絶対に許さない、と。
最大の厄災を与えた後に、大好きだった姉をその手で殺した罪を思い出させ、悲観と絶望の淵でこの世に生まれた事を後悔させながら自らの命を絶たせてやるのだ、と新実和子は神に誓った。
だが、歪な砂時計は動きを止めない。
夏の終わりの空下にその命を落とした宮野鈴は再びこの世に落ちる事となる。
完璧だった人は完璧な天使となった。
長い黒髪の天使に人であった頃のような感情の乱れはない。心の静寂を取り戻した宮野鈴は静観する天使となった。
天使と落ちた宮野鈴は警告した。人を殺す天使への警告。憎しみに縛られた天使への警告。
六度目の事だった。人に落とされた新実和子は自らの終わりが近いことを感じた。
だが、まだ終われない。
まだ終わることは出来ない。
死の直前に再び天使と落ちた新実和子は、F高校を領域とした長い黒髪の天使から最愛の人である三郎を守るために、F高校を離れた宮野恵美の存在を自らの視線の側においた。そうして、互いが互いの存在を見つめ合うような状態の中で、互いに干渉することなく、互いのもの触れることなく、ただ無用な時だけが過ぎていったのだった。罪の報いは宙ぶらりんのままに、いつか必ず罰を完遂させるのだと心に誓って。
静観する、否、観察する天使が再び動きを見せたのは、それから28年後のことだった。
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