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第三章
抗う者
しおりを挟む倉庫の隅に転がるバレーボール。壁に寄せられた段ボールの山。血の海に横たわる肩の広い男。
体育倉庫の空気は鍾乳洞の白い石が如く冷たかった。啜り泣く声。重なり合う音は遠い。動かなくなった男が発する音はない。
夢乃美琴は、はっはと荒い呼吸を繰り返した。手に掲げられた金槌がウレタンの作り物のように軽い。いや、体全体が宙に浮いているかのように、美琴は自分自身の存在の重みを忘れてしまっていた。
倉庫の床で仰向けに倒れた男は目を見開いていた。まるで、今すぐにでも動き出して怒鳴り声を上げるのではないかと思えるほどに鋭い眼光。だが、床に広がる血の海と、痙攣したまま折れ曲がった手足は男の死を暗示している。
生と死の狭間の存在。その呼吸を、瞳孔を、心臓の鼓動を確認するその瞬間まで、男は、生きた状態と死んだ状態の重なり合った存在であった。美琴は動かない時を神に祈った。やがて事象を確認することとなるその時が恐ろしかったのだ。恐怖を待つ時間にこそ本当の恐怖が宿る。恐怖に支配された女生徒は、ただじっと自分の呼吸音を聞き続けた。
「大丈夫よ、夢乃さん、大丈夫」
聖母の声。凍えた空気から自分を守ってくれる温かな抱擁。全ての雑音をかき消す鼓動の福音。涙が鼻を伝って唇を濡らす。
「大丈夫、もう、大丈夫」
野村理恵は震え涙を流す女生徒の背中を何度も撫でた。いったい何処で拾ったのか、錆びた金槌が木製の床を叩いて転がる。
女生徒が声を上げ始めると、理恵は、その頭をギュッと抱きしめた。溢れる熱は喜怒哀楽の全てを表す。苦しみも喜びも同じ円の内にあるのだ。
「もう大丈夫よ、夢乃さん、終わりはあるの」
「ぐっ……んっ、ひっ……」
「他を想う苦しみも、自己を想う苦しみも、終わらせることが出来るのよ」
「ひっ……ひっ……せ、先生……わ、私、人を……」
「大丈夫、夢乃さん、大丈夫だからね。いたいのでしょう、いたみが苦しいのでしょう。でもね、夢乃さん、大丈夫、もう終わりにしましょう、私たちはもう十分罰を受けました。もう、終わらせましょう」
「は、はい……」
抱き合ったまま苦しみと喜びの涙を流す女生徒と教員。二人を見つめる白い影の焦り。
山下克也の血が床に散らばる錠剤を包んでいった。まるで、死してなお抗おうとするかのように。
ショートボブの天使。田中愛は一息ついた。
柔らかくなった花壇の黒土。散らばった土を片付ける同僚たち。後はマリーゴールドの花を咲かせるのみである。
さっそくホームセンターへ種を買いに行こうと、スコップを土に刺すショートボブの天使。梅雨空の厚い雲がほんの僅かな動きを見せる。
赤い服の天使。藤野桜は視線を上げた。今からマリーゴールドの種を蒔くつもりなのか、と藤野桜の栗色の瞳に困惑の色が走る。六月の終わりである。植えるのならば苗であろうか、そもそも、花壇の土もこのままでは駄目だろうと藤野桜は切言した。
首を傾げるショートボブの天使。田中愛は、絹のように滑らかなダークブロンドを靡かせる吉沢由里に視線を向けた。
ダークブロンドの天使。吉沢由里は肩をすくめた。花など育てたことがないのである。無論、生前の記憶は無いわけだが、天使に落ちてもなお、花の育成になど何の興味も湧かなかった。タンポポとかでいいのでは、と吉沢由里は地面に腰を下ろす。めんどくさそうに曇り空を見上げるダークブロンドの天使。
田中愛は思案した。今から種を蒔いたのでは遅すぎる、が苗を何処で手に入れられるのかが分からない。難問である。ショートボブの黒い毛先が思案する天使の頬をくすぐった。
取り敢えず長い黒髪の天使に相談してみよう、と頷くショートボブの天使。くわっと顔をあげる二つの存在。吉沢由里と藤野桜は、校舎に向かおうとするショートボブの天使の前に立ちはだかった。
鋭い視線。警告の嵐。吉沢由里と藤野桜の瞳の色は険しい。
二つの存在は警戒していたのだ。それは最大限の警戒である。
新雪に煌めく鮮血が如き真っ赤な唇。薄氷を流れる白雪が如き純白の肌。長い黒髪の天使の整った表情。その人形が如き容姿に浮かぶ微笑を、二つの存在は警戒していた。
何より、ショートボブの天使の態度である。まるで、長年離れ離れになっていた想い人に対して己が全ての歓喜をぶつけるが如き抱擁。互いの全てを知り尽くしているかのような熱き視線の交わり。長い黒髪の天使に抱き付いたショートボブの天使の瞳には喜びの光が満ち溢れていた。
二つの存在は警戒していたのだ。
もしや、宮野鈴にはそっちのけがあるのではなかろうか、と。
長い黒髪の天使の誘惑の微笑みが、ショートボブの天使を魅了してしまっているのではなかろうか、と。
二つの存在は、愛する、否、崇拝するショートボブの天使が、宮野鈴の魔性の微笑の虜にされてしまう可能性に対して最大限の警戒心を抱いていた。
まぁ、私なら相手になってあげてもいいのだけれど、と淫靡な笑みを浮かべるダークブロンドの天使。そんな吉沢由里の太ももにローキックを食らわせた藤野桜は、花屋ならば苗を売っているかもしれないよ、と田中愛の腕を掴んで説得を始めた。
小さなエンジン音。顔をあげる三つの存在。桃色の軽自動車がゆっくりと東門を潜る。やがて音を止めた車から初老の男女が姿を現した。
先程までと様子が変わった花壇に首を傾げる新実三郎。養護教諭の奥田恭子は久しぶりの学校に丸くなった背中をグッと伸ばした。
生暖かい梅雨の風。静かな校舎に向かって小走りに足を進める二人。
奥田恭子は、ゆっくりと東に動く灰色の空を見上げた。白い毛の混じった黒髪。新実三郎は、黒々と光る花壇の土に視線を向けたまま表情を崩した。
「君たちがならしたのかい?」
二人の女生徒に微笑み掛ける背の高い男。毛並みの良い黒猫が奥田恭子の足元に擦り寄る。
女生徒たちがコクリと頷くと、三郎はにっこりと口を広げて感心したように腕を組んだ。ニャーと口を開ける黒猫。その頭をよしよしと撫でた恭子は、女生徒たちを見上げて微笑んだ。
「花を植えなければね」
「そうですなぁ、これほど良い花壇があるんだ、花を植えなければもったいなよ」
はっはと笑った三郎は、恭子を振り返って頷いた。微笑み合う二人。女生徒たちの存在が二人の認知の外へ離れると、立ち上がった三郎と恭子は校舎へと向かって足を急がせた。その後ろでフリフリと尻尾を動かす黒い猫。
グラウンドから保健室の中を覗いた恭子は、ムスリと口を結んで丸椅子に座る背の高い二人の男子生徒と、ベットで欠伸する男子生徒を見た。
「大丈夫そうだね?」
三郎の声。恭子はほっと息を吐くと腰に手を当てて安堵の笑みを溢した。
「もう、野村先生ったら……。あの子、本当に切迫した声で、生徒たちが大変な目にあってるって、電話越しに大騒ぎだったんだから。慌てちゃって損した気分ね」
「はっはっは、それはそれは」
休暇中の恭子に代わって臨時で養護教諭を勤めていた野村理恵。春から療養の為に学校を休んでいた恭子は、生徒に何かあったらすぐに電話を寄越すように理恵に頼んでいたのだ。先程、理恵から電話を受けた恭子は、偶然にも恭子を見舞っていた三郎と共に、慌てて学校を訪れたというわけである。
外から保健室に足を踏み入れる恭子と三郎。顔を上げた三人に、恭子はニッコリと微笑み掛けた。
「久しぶりね、あなたたち」
「あ、先生だ。学校辞めたのかと思ったよ」
ベットに腰掛ける男。中野翼は恭子と三郎の後ろに立つショートボブの女生徒を横目に欠伸をした。
「辞めないわよぉ、もう、ちょっと休んでただけよ。それより、あなたたち、野村先生は何処かしら?」
「野村先生? 見てねぇけど?」
太田翔吾が首を傾げる。鼻と目の周囲がほんのりと赤い。
「見てないってどういうこと? 野村先生に診て貰わなかったの、あなたたち?」
「いや、臼田先生がさっきまでいたんだけど、野村先生は見てねぇよ」
恭子の顔に影が差すと、苦笑した三郎は一歩下がった。生徒たちに仏のように慕われる養護教諭。恭子が稀に見せる怒りの表情が、般若のように恐ろしいということを、長年一緒に働いてきた三郎はよく知っている。
「あの子……」
「ま、まあまあ……はっは。それより君たち、何があったんだい? 喧嘩したと聞いて僕たちは飛んできたわけだが」
「コイツが俺の足を踏んだんだよ」
パープルピンクの毛先。口元に光るピアス。島原健也は憮然とした顔で、長い指を横に座る大柄の男子生徒に向けた。太田翔吾はギロリと健也の横顔を睨み付ける。
「踏んでねーよ! つーか、テメェが俺の背中蹴ったんだろうが!」
「蹴るかよ、アホ。いい加減にしとけよ、お前?」
「テメェがいい加減にしとけや。人の顔面殴っといて被害者ヅラか? こっちは鼻血出たんだぞ、おい」
「お前がブチギレて暴れるからだろうが、このクソゴリラ野郎! つーか、お前、俺を投げ飛ばして締め上げた件、まさか忘れてんじゃねーだろうな、ああ?」
立ち上がって睨み合う背の高い生徒たち。恭子の顔がカッと鬼に変わる。
「いい加減になさいっ!」
腕を腰に当てて二人の少年を睨み上げる初老の女性。その隣で同じ様に腰に手を当てるショートボブの女生徒。中野翼は我関せずといった様子で、白いベットに横になった。
「どっちが先とかそんな事はどうでもいいのよ! 喧嘩になったのは、あなたたちの性根の問題よ! エネルギーが有り余ってる様ならグラウンドを走ってらっしゃい!」
「先生、でも俺、このゴリラのせいで肩が……」
「カッ!」
「ま、まあまあ、はっは、まあまあ、奥田先生、一応この子達怪我人ですから」
「……もうっ」
ふんっと鼻から息を吐く初老の女性。目を見合わせた翔吾と健也はショボンと肩を落として丸椅子に座り直した。そのズボンのチャックは、ショートボブの女生徒の手によって全開となっている。ベットで横になる中野翼は、何も見ていませんよ、といった態度で目を瞑った。
ショートボブの天使。田中愛は首を傾げて窓の向こうを見た。ダークブロンドの天使が保健室に足を踏み入れないのである。
翔吾と健也の怪我の具合を確認する奥田恭子。ベットに腰掛けて中野翼と世間話を始める新実三郎。興味深そうに保健室を見渡す赤い服の天使。
ダークブロンドの天使。吉沢由里はグラウンドから窓越しに保健室の中を見つめていた。ぴょんっと外に飛び出るショートボブの天使。
中に入らないのかと首を傾げる田中愛に、吉沢由里は細い首を振った。ここで良いのだと微笑むダークブロンドの天使。どうしても中には入りたくないのだと吉沢由里の視線が下がる。その頬を伝う一雫の涙。
田中愛は困惑した。何故、天使が涙を流すのか。
取り敢えず、恐る恐る、吉沢由里のダークブロンドを撫でるショートボブの天使。だが、鼓動は高まらない。
もしやコイツ、人なのでは、と田中愛は吉沢由里の瞳を覗き込んだ。サッと赤みが差す吉沢由里の白い頬。視線で交わす会話。やはり吉沢由里は天使であるようだった。であるならば何故、涙が出てくるのか。
まあいいか、と頷くショートボブの天使。天使の対象は人なのである。涙を流そうと流すまいと、それが天使であるならば想いの対象ではない。
久しぶりにF高校の生徒たちを見て回ろうと、田中愛は、吉沢由里の手を引いた。小さな手。ショートボブの天使の瞬く瞳。慌ただしい天使に導かれるようにして、吉沢由里は記憶にない校舎に足を踏み入れた。
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