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第三章
変わらぬ者
しおりを挟む学校を動く影。罪の報いを求める者たち。俯く人に向けられる視線。
春の終わりの最後の青空を求めて、疲れた表情の女性教員は橋の上に向かった。
春の終わりの最後の花弁を求めて、頬のやつれた男性教員は山の奥に向かった。
「いたみの会」を締め括ろうという声が何処からか聞こえてきた。終わりの見えない悼みと痛み。自分たちの手でそれを終わらそうではないか、と。
罪を背負った者たちが歩く校庭。疑わぬ者たちが歩く校舎。集団の意思の動き。
時に集団の意思は動かされることがある。動かそうとする存在の意思の介入によって。
中野翼は風に靡く白いカーテンを見つめた。青い空には薄い雲が流れ、梅雨の近づきに空気がほんのりと重たい。
教室は静かだった。いや、F高校全体が静まり返っていた。厄災の後に訪れたのは意外にも穏やかな日常であった。
自分の境遇について翼は何ら不満を抱いてはいない。むしろ、前よりも人生が上向きに傾いているのではないかと、ウキウキと心踊らせる事すらあった。祖父や祖母、親族たち、そして両親。不幸な厄災によって多くの同級生を失ったこの哀れな少年への悲哀と慈愛が絶えることはない。潤い続ける懐の重み。重なり合う贈り物の厚み。不幸な少年の将来を明るいものとしようと精力的に動く両親一行。曖昧だった翼の将来はむしろ、未曾有の大厄災によって明瞭となったくらいである。
翼の心配事はネットの声だった。だが、それも杞憂のようである。大厄災を生き残った者たちに向けられたそれは果てしない同情の声だった。
世論ではない。大きな流れでもない。それは本能に近いものだ。自由な弱者が不自由な弱者に向ける同情。僅かな強者に支配された世界で、既に厄災に見舞われた哀れな弱者に対して負の感情を抱くような感受性の高い者は稀であった。
翼はそんな同情の視線を楽しんだ。まるで悲劇のヒーローにでもなったかのような万感。厄災を跳ね除けた英雄にでもなったかのような高揚。
昔から一人を好んだ少年。その実は、陽気で自己顕示欲の高い男だったのだろうかと、翼は自分自身に疑いを持ち始めている。
扉が床を擦る音。教室に入る誰かの気配。
机に肘をついたまま振り返った翼は、慌てて窓の外に向き直った。虚ろな目を下に向けた太田翔吾の広い肩が視界に入ったのである。かつての陽気な少年は声を無くしていた。
ゴクリと唾を飲んで窓の外を凝視する翼。火元から離れていたおかげか、元2年D組の生徒からは火災による犠牲者が出なかった。それでも、親友や同級生、同じ校舎の仲間を失った悲しみを背負う生徒たちは、それぞれがそれぞれの方向に視線を向けている。半分以上のクラスメイトが学校を去った教室で、彼らが目を合わせることはなかった。
翼は掛ける言葉を探し始めた。あり得ない変化だと心の中で自嘲する少年。それでも、陰気な雰囲気を漂わせるようになった大柄な少年に、何か言葉を掛けてやりたかった。
不作法で声ばかりが大きく、時に暴力的だった同級生。男子からも女子からも人気のあった同級生。意識の戻らない従兄妹と、放火未遂で懲役を受けた友達に憂う同級生。それらが自分のせいであると、決して許されることのない罪の重さに前を向くことを止めた同級生。
無論、翼には翔吾が罪の報いを求めている事など知る由もない。だが、陽気だった同級生の急激な変化が翼の心を揺さぶっていたのは事実である。
チャイムが鳴っても授業は始まらない。
自習を告げる女性教員のやつれた頬。守るべき存在である大人。守られるべき存在である子供を前に、女性教員は温もりが欲しいと願った。自分を守ってくれる誰かを願いながら女性教員は静かに教室を出ていった。
スマホを取り出す少年。パズドラを始めた中野翼は、すぐにそれがつまらないと感じると電源を落とした。鞄から参考書を取り出す少年。かつての勉強嫌いな少年の変化。強制される勉強ではなく、進んで行なう勉強は楽しかった。
窓から吹く風が白いカーテンを揺らす。
その白いカーテンは少年の頬に届かない。
翼は何処か寂しさを感じた。無論、以前と比べて教室に人は少ない。否、そうではない何かの存在を少年は物足りなく感じていた。
誰が居なくなったんだっけ?
静かな教室を見渡した翼は微かに首を傾げた。
臼田勝郎は下を向いた。
校舎を赤く染めた夕陽が西の空に沈んでいく。暗がりの青黒い校庭を歩く男。ウルフカットのカツラを揺らす風はない。
校門前に人影があった。薄暗い歩道。梅雨前の重い空気を照らす街灯。
緩い藍色のシャツを着た船江美久がペコリと頭を下げる。チラリと視線を上げた勝郎は頭を下げ返した。そのまま通り過ぎようとする勝郎に美久はサッと手を伸ばす。
「無視って酷くないですか?」
シワの寄った白いワイシャツ。立ち止まった勝郎は苦々しい笑みを浮かべた。
「む、無視などは……」
「こんな薄暗い歩道に乙女が一人で立ってるなんて、不自然じゃないですか?」
「いや……それは、確かに不自然ですが……」
「普通、挨拶ついでに理由を聞きませんか?」
「は、はぁ……」
「あの、立ち話も何ですし、何処か寄りませんか?」
意味ありげに目を細めて微笑む乙女。そのピンク色の唇に眉を顰める勝郎。
「いえ、私は用事がありますので……では」
微かに顎を下げる男。勝朗は亡くなった生徒たちの家に早く向かわねばならなかった。終わらない謝罪。残った生徒たちが卒業する一年後にF高校は廃校となる。勝郎は贖罪こそが自分に残された最後の道だと信じていた。
背中を丸めて歩き出す大柄の男。ウルフカットのカツラはズレていない。くわっと目を見開いた美久は、その背中を強く引っ張った。
「コラッ、先生! 生徒が困ってるんですよ! 先生ならどうするべきですか!」
「……は?」
「生徒が話をしたいって先生を待ってたんです! どうしたのって首を傾げるのが普通でしょうが!」
「いや……あなたは私の生徒では……」
「生徒みたいなもんですよ! だって先生、私の担任だった人にそっくりだし、色々と教えてくれそうじゃないですか! 別に私が生徒でも困らないでしょ? なら、生徒でもいいじゃないですか!」
感情だった。論理の見えないそれは剥き出しの感情だった。勝郎は、美久のその感情に圧倒された。言葉が出てこない。否、感情に意を唱える感情が湧いてこない。感情に反論する理論も出てこない。果てしない後悔の念に理性も感情も抜け落ちてしまった男。今の勝郎には最後の贖罪を信じることしか出来なかった。
勝郎の胸ぐらを掴む乙女。顔を真っ赤にした美久は力なく項垂れる勝郎の体を揺すった。
「先生、これからどうするんですか? 学校、無くなっちゃうんですよ? 先生、先生辞めちゃうんですか? そんなの嫌ですよ! 先生だって嫌でしょ!」
「そ、それは……」
「私、リハビリコーチングっていう仕事を考えてるんです! 非行少女、引きこもりの少年を導いてあげる仕事。勉強、友達、恋愛、将来、色んな不安を抱えてる思春期の子供たちの相談相手になってあげる仕事。皆んなに明るい未来を見せてあげる仕事です! どうですか? 凄いでしょ!」
「え、ええ……」
「先生も手伝ってください! もしも先生を辞めちゃうんなら、私の仕事を手伝ってください! 私なんかより先生の方が、子供を導くの、お上手でしょ? いえ、お上手なんです! ですから、お願いです。私の夢を手伝ってください! 私を導いてください! お願いします!」
美久の赤く染まった頬に光が伝う。真剣な瞳だった。真剣に自分の夢を追い続ける若い輝きがその瞳に満ち溢れていた。
勝郎は目を瞑った。美久の瞳を見るのが辛かった。その輝きが苦しかった。勝郎は未来に目を輝かせる子供たちの命を守れなかったのだ。
「素晴らしい夢です……。いや、本当にあなたは素晴らしい人だ……」
「でしょ! 流石先生はお目が高い!」
「だが、すまない……。私には手伝う事が出来ない……」
「で、出来ます! 絶対に出来ます、いえ、手伝いなさい! 生徒命令です!」
「すまない……」
「謝らないで! 出来ますから、絶対に出来ますから、お願いだから手伝ってくださいよ、先生!」
「出来ないんだ……。私は、私は、報いを受けなければいけないんだ……。罪の報いとして、罰を受けなければいけないんだ……」
バチン、と勝郎の頬に強い衝撃が走った。驚いて目を見開く勝郎。痛みがじんわりと鈍った脳を震わせると、勝郎は、怒りに顔を歪ませる美久の頬を伝う涙を見た。
「罰って……罰って……罰なんか受けてどうするんですか! 罰を受けてどうなるっていうんですか!」
「つ、罪があるんだ、私には……。生徒を守れなかったという罪が……」
「なら、それなら、償いでしょ! 罪を背負ったって言うなら、償わないと! 報いなんて待ってどうするんですか! 罰なんて受けてどうするんですか! 必要ないよ、報いなんて、罰なんて何の意味もない! 先生、もしもあなたが罪を背負っているとお思いになるのならば、一緒にそれを償いながら生きていきましょうよ……」
太陽の沈んだ空に月が輝く。夕闇の薄い街灯は夜闇に強く光を放った。美久の頬を濡らす涙の光が勝郎の心の闇に降り注ぐ。
天使だ……。
勝郎は、美久の放つ光に圧倒された。天使の光だと、勝郎は思った。天が自分にもたらしたものは、報いではなく導きであったのだと、地面に膝をついた勝郎は嗚咽を始めた。その広い肩を包む天使の細い腕。静かで力強い二つの声が、月明かりに照らされた歩道に響いた。
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