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第三章
疑わぬ者
しおりを挟む天使のダークブロンドが春の陽気を流れる。春風が天使の白い頬を撫でる。
私立Y高校の校庭。昼休みの木影。日差しに煌めく金色の髪。
吉沢由里は、体育館前でモジモジと指をこね続ける坊主頭の少年の尻を蹴飛ばした。
「わあっ」
飛び上がる少年。そんな少年を見つめて首を傾げるミディアムショートの女生徒。
「小森くん、どうしたの?」
「い、いや、えっと……」
突然背中に響いた衝撃に、サッカーボールでも飛んで来たのかとキョロキョロと辺りを見渡した小森太一は、頬を真っ赤に染めて頭を掻いた。グラウンドを賑わす生徒たちの声。暖かな春の風。体育館の端から二人の様子をジッと見守る山下拓也と天使たち。
早く告れと、また少年の尻を蹴り上げようとするダークブロンドの天使に、ショートボブの天使が飛び掛かった。
乾いたグラウンドで揉み合う二つの存在。大野真由美は突然現れた黒猫に薄桃色の頬をクタリと緩める。
「ああぁ、かわゆいっすなぁ」
毛を逆立てた黒猫の頭を撫で始める真由美。黒猫にしがみ付くダークブロンドの天使の存在には気が付かない。
しばらく黒猫の丸い頬を揉んで遊んでいた真由美は、昼休みの終わりを告げるチャイムの響きに顔を上げると、未だモジモジと指をこね続ける太一を見つめてニッと笑った。
「じゃ、私、五限目移動教室だから、もう行くね?」
「あ、う、うん、頑張って!」
「頑張ってって、あはは」
小川のせせらぎのような涼しい笑い声を上げた真由美は、細い指をフリフリと横に振ると渡り廊下から校舎の中に入っていった。その後ろ姿をぼーっと眺める坊主頭の少年。グラウンドに寝転がるショートボブの天使とダークブロンドの天使に鋭い視線を送る赤い服の天使。
体育館の端でやれやれと首を振った山下拓也は、肩を落として渡り廊下を見つめ続ける太一の側に歩み寄ると、その背中をバンッと叩いた。
「せめて何か話せよ」
「ご、ごめん……」
「謝んなって、次だ次」
「う、うん!」
太一は真由美に一目惚れをしていた。それは、縁のないメガネの向こうの凛とした眼差しに抱いた恋心ではない。その豊かな表情に、初めて自分に眩い笑顔を見せてくれた女生徒のその心に、どうしようもない親しみと愛情を抱いてしまったというわけである。
そして、それを見逃さなかった陽気な男。歴史に熱中する前の拓也は、ラブコメに夢中だった。
「昼休みってのが良くなかったぜ。ラブコメでフラれるモブ共は大抵昼休みに告るからな」
「ええっ? じゃ、じゃあ何で今告れって言ったの?」
「だってアイツ、ラブコメのヒロインって感じじゃねーじゃん。それにさ、俺、早くてぇてぇしたかったんだよ」
「はぃ……?」
「まぁ、兎にも角にもだ、放課後に攻めようぜ、放課後に。ああ、夕陽をバックに伝える想い……。これ、成功しても失敗しても、最高にてぇてぇじゃねーか……?」
「し、失敗したら終わりだよ!」
笑いながら校舎に戻る二人。下駄箱付近で五限目を告げるチャイムを耳にするとと、慌てた二人は教室に向かって走り出した。
ショートボブの天使。田中愛は地面でジタバタともがいていた。体にしがみ付く吉沢由里がなかなか離れてくれないのである。何かを求めるかのような吉沢由里の瞳の潤み。紅く春陽を反射させる唇。
赤い服の天使。藤野桜は吉沢由里の足を引っ張った。ズルズルとグラウンドを引き摺られるダークブロンドの天使。中々の力である。高校生の姿である吉沢由里と比べると、まだまだ藤野桜の容姿は幼い。それでも、この赤い服の天使は少しずつ成長を続けていた。中学一年生くらいの背丈。田中愛よりも僅かに低い身長。
何とか吉沢由里の白い腕から抜け出した田中愛は、ポンポンと体についた土埃を払う動作をすると、校舎に向かって歩き出した。最近は仕事をサボってばかりである、と田中愛は深く反省していた。
反省するショートボブの天使の後に続く二つの存在。赤い服の天使とダークブロンドの天使はまだまだ新米の域を出ていない。それでも、そろそろ独り立ちをしてはくれないものか、と田中愛はため息をつく動作をした。平穏な私立高校においても、ショートボブの天使にとっての仕事時間は足りないくらいなのである。
授業中の私立高校は静寂に包まれていた。空き教室で白い煙を漂わせる黒いジャケットの存在。私立Y高校を領域としている唯一の天使。岸本美咲は長い足を組んで新聞を読み耽った。
田中愛と二つの存在は手分けして教室を見回った。居眠りをする生徒の筆箱を床に落とす赤い服の天使。こっそりとゲームに熱中する生徒のスマホの音量をマックスにしてマナーモードを解除するダークブロンドの天使。何故か掃除を始めたショートボブの天使が廊下の用具入れを倒すと、生徒たちは騒めいた。倒れる用具入れの怪は、私立Y高校の七不思議の一つとなっている。
「よ、今日も忙しいね?」
異質の存在。天使を完全に認知する人。雨宮伊織は、用具入れを元の位置に戻そうと踏ん張るショートボブの天使に手を貸した。かつて田中愛にミルキーを与えた女生徒。昨年入学した雨宮伊織の存在が、この私立Y高校から岸本美咲以外の天使の存在を消したのだった。
用具入れが戻ると田中愛はペコペコと頭を下げた。人との過度な接触は本来避けるべきである。だが、親切な雨宮伊織への幸を返し切れないショートボブの天使は、その存在を無下には扱えなかった。
いったいどうしたらこの異質な女生徒に最良の報いを与えられるのだろうか。腕を組んで頭を悩ました田中愛は、タッと方向転換すると校舎の外に向かって走り出した。その愛らしい後ろ姿に微笑む伊織。花束を伊織への幸としようとショートボブの天使は閃いたのである。
色とりどりの花々に彩られた花壇。その隅の寂しげな空間を見つめる存在。ヘチマの種が植えてある花壇の土にショートボブの天使はコクリと頷いた。ここに薔薇の花を植えようと。
流れる水に雲が映ったような浅い青の空。春風が花の香りを運ぶ。
白い雛菊のオレンジ。ショートボブの天使はその揺れる花弁に目を奪われた。何かを忘れているような感覚。白い花弁ではなく管状花のオレンジ。否、黄色。
あっと田中愛は手を叩いた。F高校の花壇の手入れを忘れていたのである。未だ居場所の分からない長い黒髪の女生徒がいつか戻って来た時の為に、田中愛は、昨年と同じマリーゴールドの花を植えようと考えていたのだった。
そうと決まれば、と花壇の段差を飛び降りるショートボブの天使。その前に立ちはだかる影。何処から現れたのか、白い煙を漂わせる天使の視線が、再びF高校に向かおうとする田中愛の丸い瞳を捉えた。
何かの宗教のようだ……。
中野翼は、薄暗い体育館の中央で静かに涙を流す生徒たちの存在を何処か薄気味わるく思った。時刻は午前九時である。遠くに響くチャイムの音を気にする者はいない。昼にだけ行われていた「いたみの会」は朝と夕にも開かれるようになっていた。その参加は半ば強制されている。
疑う者も疑わぬ者も共有される意思には逆らわなかった。自らが自らの意思でそれを行なっていると、錯覚していたからだ。
「黙祷」
誰かの声。意思の声。神の声。
蝋燭に火が灯ると両手を前に組んで俯く生徒たち。中野翼は果てしない違和感と不快感を抱きながらも、皆の行為に追従した。
哀れな者たちへの悼み。自己の胸に抱く痛み。目を瞑って両手を合わせる孤独。
それは想う時間であり、考える時間だった。答えのない答えを探し求める時間。果てしない問いの先に目を凝らす時間。或いは、想いを願う時間。
疑問を抱く者ほど「いたみの会」の「黙祷」に考えさせられた。
過去、未来、偶然、必然、運命、過程、結果、思考、感情、理性、本能。悼みと痛み。生と死。
何故、悼むのか。何故、痛むのか。結果は偶然だったのか、それとも必然だったのか。悲しむのが感情ならば、悲しまないのは理性であろうか。死とは何か。生とは何か。
完全な答えなど無いであろう問いに。永遠に終わりなど見えないであろう疑問に。考えて、考えて、考えて、やがて考えるのをやめた時、その生徒は「黙祷」に想いを乗せるようになる。想いは願いであり祈りであった。果てしない疑問の淵を覗き終えた生徒たちは、闇の奥の見えない存在に祈りを捧げた。叶う叶わないではない。ただただ、信じることのみが彼らの辿った道の終わりなのである。
体育館の影に佇む存在。白髪の天使の視線の先。罪を持って生まれた哀れな人々。
怠惰の罪を背負った者が行き着く先は地獄である。
時代に、世論に、観念に流される人。彼らは動かない事を選んだわけではない。ただその本能に従って生きていただけなのだ。
種族保存本能。種の繁栄を無意識に望む人々の生きついた先、否、それは生まれる前から背負わされている業。この世に生まれるという厄災。深い思考と豊かな感情を持った種に宿る罪。白髪の天使の瞳に映るのは望まぬ罪の罰に苦しむ哀れな人々だった。
その豊かな感情が老いの失望を加速させる。その深い思考が死の絶望を加速させる。孤独への恐怖。喪失への悲しみ。
怠惰の罪を背負わされた者が行き着く先は地獄である。
やがて孤独を知る人。やがて老いに憂う人。やがて恐怖に思考を止める人。決して免れぬ死を待つ絶望の日々こそが最大の厄災であろうと白髪の天使は考えていた。だからこそ、その絶望の日々を終わらせる死は救いなのである。
人に報いを。罪を背負わされた哀れな人々の罰に終わりを。
そろそろ幸を与えねば。
本来、神への祈りは白髪の天使にとっての大罪である。死への恐怖こそが全ての人に平等に与えられるべき罰なのだ。冒涜の罪。不遜の罪。罰から目を背ける行為は、罰を与えた存在への冒涜となる。勝手気ままに多様な神を創造する不遜。自らが創造した神に罪の赦しを乞う冒涜。
否、十分に罰を受けた存在であるならば、不遜も冒涜も大目に見よう。
新実和子は涙を流して俯く生徒たちを冷たく見下ろした。
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