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第三章
恐れる者
しおりを挟む花のない春の花壇。青い朝日にまどろむ黒い土。
山本恵美は夢中で絵を描いた。閑散とした校庭に響き渡る笑い声の幻想。クレパスの花々がノートの白を埋め尽くしていく。
恵美は錯覚した。かつての寂しくも穏やかだった日々を。一人絵を描き続けた毎日を。
それは平穏であった。姉に勧められて入学した高校。理想と現実のギャップに苦しんだ学園生活。それでも、一人花壇に並ぶ花々の絵を描いている時間には確かな平穏があった。柔らかな滑り。溶けた蝋燭とも違う独特の香り。白い心を埋めていく色とりどりの景色。
美しく聡明な姉は恵美の唯一の自慢だった。理想であり憧れの存在。時には嫉妬した。疎ましいとさえ思うこともあった。だが、恵美は長い黒髪を靡かせる姉のことが大好きであった。
姉と共有する時間。平穏は無かったが、幻想はあった。姉のような人気者になれるという幻想。皆の中心で黄色い声を上げられるという幻想。
幻想であった。容姿や体型だけの問題ではない。何故だか恵美は幼い頃から異様に陰気で卑屈だった。生まれ持っての性格か、姉と過ごす日々の中で形成された人格か。恵美の胸の内には常に影があった。それが恵美を一人にした。
小鳥が花壇の土の上を歩く。青い雑草の影で何かを捉えたのか、小鳥は、清々しい春の空に飛び立っていった。
ノートに小鳥の絵を描き入れる恵美。七時のチャイムが鳴っても校庭は閑散としたままである。
絵を描きながら恵美は、いつの頃からか自分の容姿を嘲笑うようになった女生徒たちの顔を思い出した。そこに全身の骨が潰されて溶け出すかのようなかつての不快感はない。音のないモノクロの映画。ミミズを啄むスズメの茶色い羽。第三者の視点から眺める風景。
何故、彼女らは自分に興味を示すようになったのだろうか。
純粋な疑問であった。平穏な心に浮かぶ疑問は妄想に繋がる。
人気者の姉に嫉妬心を抱いた結果、その妹に嫌がらせをしてやろうという気を起こしたのだろうか。
嘲笑。冷笑。やがて物理的なものに変貌を遂げるイジメ。
恵美は自分を嘲笑う女生徒たちの顔を思い出して首を振った。
いや、単に面白かったからだろう。思春期の子供たちが日常に抱く憂愁。偶然、陰気な自分がその苦悩の捌け口として選ばれたという訳なのだ。
では、何故人気者だった姉までもがイジメの対象に選ばれたのか。
恵美はノートから視線を外すと遠い青空に浮かぶ白い雲を目で追った。
何故、姉がイジメられなければならなかったのか。
知的で可憐で活動的だった姉。慕われることこそあるとすれ、イジメの対象に選ばれる要素など何一つ持っていなかった筈の女生徒。
何故、彼女らは姉を嘲笑ったのか。あの誰からも慕われていた姉を……。
あれ、と首を傾げる恵美。鮮明な彼女の記憶に浮かぶ黒い影。
彼女らは、いったいどんな表情をしていたっけ……?
ノートの花々に視線を戻す恵美。ゆっくりと青いクレパスで空を描いていく。
自分をイジメる彼女らの表情は本当に楽しそうだった。弱者をいたぶる優越感と、人が本来備えている嗜虐性に打ち震えるかのような恍惚の表情。その大きく横に開かれた唇を、恵美は今でも鮮明に覚えている。
だが、姉をイジメていた女生徒たちの表情がどうしても思い出せない。確かに笑っていた筈の彼女たち。その声と顔の記憶だけが黒い影に塗り潰されたかのように、どうしても思い出せない。
屋上と同じだ……。
サッと全身の血が凍り付く恵美。パンドラの箱は遠くから眺めることすら許されない。慌ててクレパスを握り締めた恵美は夢中でノートの余白を埋めていった。
「ほぉ、上手いもんですな?」
優しげな男性の声。驚いて全身の弛んだ皮膚を震わせた恵美は、頬の脂肪を震わせながら後ろを振り向いた。
「そろそろ花でも植えましょうか、山本先生」
朝日を浴びるウルフカットのカツラ。臼田勝郎の痩せこけた頰。無精髭のない顎にかつての漲る生気はない。
恵美はギロリと目に力を込めるとノートを閉じた。フンッと息を吐いて立ち上がる恵美。数人の生徒が視線を下げて校庭を歩いている。
「結構です!」
恵美は校舎に向かって歩き出した。苦笑しながらその後に続く勝郎。俯く生徒たちに挨拶をして校舎に入った恵美の頭の中から過去の幻想が薄れていく。それでも、喉の奥を圧迫されるような違和感だけは消えなかった。
大葉藍香は紅いルージュを片手にため息をついた。同棲する家出少年が職場までついて行くと言って聞かないのである。
「もぉ、龍ちゃんはお留守番だってばぁ」
「あ、藍香さん、頼むって、今日だけでいいからさ」
背の高い少年の懇願。上半身裸の日野龍弥は不安げに辺りを見渡した。壁の薄いアパートの一室。脱ぎ捨てられた衣服と化粧品の匂い。
二十時を回っていた。風俗店で働く藍香の出勤は夜である。その為、帰宅時間は明け方近くとなった。
白いカーテンの向こうの黒い窓を見た龍弥は、この世のものでは無い何かを見てしまったかのように頬を激しく引き攣らせた。そんな少年を無視してビニールバックを手に取る藍香。
「じゃね、大人しくしてるんだゾ」
「ちょっと、藍香さん!」
パタンと閉じられる木製の扉。慌ててウォークマンの電源を入れる龍弥。イヤホンから一昔前のJpopが流れ始めると、シーツの無いベットに腰掛けた龍弥は頭から毛布を被った。
三ヶ月ほど前から、龍弥はジッと、このアパートの一室に身を潜めていた。まだ一年生の頃に不良仲間と訪れた風俗店。そこで知り合った藍香という女性ならば自分を養ってくれるかもしれないと、あの日、龍弥は火事の見物に来た群集の間を抜けて寒空の下を必死に走ったのだった。
藍香はテレビを見なかった。当然新聞などは読まず、画面にヒビの入った携帯の用途もLINEかゲームのみである。世間を賑わせた放火事件すらも知らない藍香は無意識に隠棲的生活を送っていた。親はいない。友達もいない。世間との繋がりが薄い藍香が求めるものは体の繋がりである。風俗店で働くのも、家出少年を養うのも、その為であった。
龍弥が使っているウォークマンは前に住まわせていた少年が置いていったものだという。毛布の下で肩を丸めた龍弥は名前も知らないその少年に感謝した。
ブンッという微かな音がした。続いて聞こえてくる誰かの話し声。龍弥は震える指先でウォークマンの音量を上げる。
ガタリと何かが落ちる音が龍弥の骨を震わせた。誰かが歩き回るような床の振動。毛布の隙間から白い足を見た龍弥は鋭い悲鳴と共に飛び上がった。慌てて辺りを見渡す龍弥。だが、部屋には誰もいない。
部屋の隅で点滅する光。恐る恐る顔を上げた龍弥はブラウン管のテレビに視線を送る。家出少年の中にはテレビを見たがる者もいると藍香が捨てないでいる黒い箱。埃を被った地デジチューナーが放つ緑色の光。
な、な、何で……。
確かにコンセントは抜いておいた筈である。それにも関わらず、ブラウン管テレビは光を放っていた。
画面に映る焼け焦げた黒い校舎。死亡した少年Mというテロップと共に主犯格の少年Hという文字が流れる。慌ててテレビのコンセントを引き抜いた龍弥は毛布を被ってベットに蹲った。
も、もう止めろって……。お、お、俺のせいじゃねーって……。
部屋を歩く誰かの足音。再び点滅を始める光。
耳を塞いで目を瞑った少年は、ベットの上で震えながら眩い春の朝日を待った。
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