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第三章
悼む者
しおりを挟む完璧な人であった。
春の夜風のような細い黒髪。凛と涼しげな表情。秋晴れの空を連想させる透き通った声。
彼女は完璧な生徒であった
彼女が笑うと皆が笑う。彼女が悲しむと皆が悲しむ。
誰もが彼女を慕った。誰もが彼女を求めた。
ただ一人、最も彼女の身近にいて、最も彼女を愛していた筈のその妹のみが、彼女に対して複雑な表情をした。そんな妹に対しても、彼女は皆に向けるのと変わらぬ菩薩の笑みを注いだ。
聡明で活発。清楚で可憐。優雅で婉容。利己的で理性的。
完璧な人。
まだ髪が黒かった頃、F高校に訪れたばかりの新実和子が、宮野鈴に対して抱いた最初の印象がそれであった。
桜の舞う校庭。私立Y高校。朝日の差し込む三年A組を覗く三つの存在。
黒板の前で肩を丸める坊主頭の男子生徒。欠員募集の出ていた私立高校への編入試験に受かった小森太一は、これから一年勉学を共にするであろうクラスメイトたちと目を合わせられないでいた。ほんの少し視線を上げると見える、整った机の並びと、黒光りする制服の群。
太一は怖かった。またイジメられるかもしれないと思うと、床が鼓動しうねり反転するかのような不快な錯覚に視界がチカチカと点滅した。
ショートボブの天使。田中愛は辟易した。
田中愛の上に覆い被さるようにして教室を覗き込む二つの存在。藤野桜と吉沢由里は固唾を飲んで小森太一を見守った。
大丈夫だから仕事に戻ろうと視線を上げる田中愛。
吉沢由里は首を振った。ダークブロンドの細い毛先がさらりと流れる。
こんな時期に他校へ編入するなど、自ら災いに飛び込んでいくようなものである、と吉沢由里の視線は険しい。藤野桜もダークブロンドの天使に同意するかのように頷く。
二つの存在の物理的な重さに辟易しながらも、田中愛は教室に視線を戻した。
「こ、小森太一……です。よ、よろしくお願いします……」
飛び立つツバメが如くか細い声。A組を受け持つ女性教員が何かを囁くと、トタン屋根に降り立つ雨粒のような拍手がパラパラと教室を満たした。
太一は顔を下げたまま一番後ろの席に向かった。力の入らない手足。背中を濡らす冷たい汗。何とか空いた机に辿り着いた太一は俯いたまま席についた。朝日差す亜麻色の机。乾いた木の匂いが太一の鼻を埋める。
机で肩を縮こめる太一に微笑んだ女性教員は廊下に出ていった。途端に騒がしくなる教室。一限目のチャイムにはまだ時間がある。
太一は俯いたまま鞄の中を漁った。ゆっくりと、蟻が巣を作るようなペースで一限目の準備を始める坊主頭の少年。指先を細かく震わせた太一は、早く時間が過ぎ去ってくれる事ばかりを願った。
「よぉ、お前、歴史が好きなんだって?」
肩を叩く誰か。ビクリと体を震わせた太一は恐る恐る顔を上げる。黒髪をワックスで固めた男子生徒の清々しい笑顔。思わず笑顔を返した太一に、男子生徒はさらに明るく輝く笑顔を見せた。
「俺も最近歴史小説にハマっててさ、ほら、ちょっと前に真田の大河ドラマやってたじゃん? あれ見返してんだよ、今」
「へ、へー、真田丸だよね? 僕も見てたよ、真田丸……えっと?」
「おお、悪りぃ悪りぃ、俺、山下拓也ってんだ。拓也って呼んでくれていいよ」
「あ、えっと、うん、た、拓也……くん」
「もー、山下くん、いきなり過ぎでしょ。小森くん、ごめんね、コイツめっちゃ馴れ馴れしい奴だから」
ミディアムショートの女生徒が拓也の後ろで腰に手を当てた。利発そうな丸い瞳。縁なしのメガネが春の朝日を反射させる。
「歴史のロマンを知らん女は黙ってろ。つーか真由美、一限目は数学だぞ? 数3は別教室だろ」
「アンタが新入生にちょっかい出さないか心配で残ってんのよ。ねぇ小森くん、もしもコイツが勉強の邪魔になったら、いつでも私に相談してくれていいからね」
大野真由美はニッと笑った。細められた丸い瞳の優しさ。漂うフローラル系の甘い香りに太一の首筋が真っ赤に染まる。
「アホ、俺ら文系は話し合う事で互いの知識を深めていくんだよ。なぁ小森、お前って小説とか読む?」
「あ、た、太一でいいよ? 小説は、毎日読んでる」
「おおー! こも、いや太一って何の本読んでんの? 俺、今、真田にハマってて、真田太平記読んでんだよ」
「へ、へー、拓也くんって歴史小説好きなんだ。真田太平記って長いよね? 僕、今、山崎先生の白い巨塔読んでるんだけど……」
「おお、ちょうど僕も山崎先生の華麗なる一族を読んでいるところですよ」
太一の斜め前の席。髪を七三に分けた黒縁メガネの男子生徒が振り返る。
「わー! ……えっと?」
「失敬、わたくし、宮藤裕斗と申す者です。以後よろしく」
「く、宮藤くん、よろしく! 華麗なる一族もすっごく面白いらしいね? 地銀再編のニュースがよく流れてるから、僕も、華麗なる一族読みたいなって思ってるんだ!」
教室の扉が開くと、数2Bを担当する初老の教員が姿を表した。慌てて席に着く生徒たち。チャイムと同時に授業が開始するクラス。
太一はワクワクと教科書を開いた。新しい紙の匂いが胸を満たすと、窓の向こうの青い空を見つめる坊主頭の少年。初老の教員に名前を呼ばれた太一は「はい!」と慌てて立ち上がった。
教室を覗く三つの存在。優しげに微笑む吉沢由里。だから大丈夫だと言ったではないかと、床にうつ伏せに押し潰された田中愛は芋虫のように体をモゾモゾと動かした。
立ち上がる三つの存在。新米の天使たちを見つめるショートボブの天使。
ダークブロンドの天使。吉沢由里が人だった頃を田中愛は知っている。吉沢由里への報いの幸は、結局与えることが出来ないままに終わった。それについて、田中愛は多少の後悔の念を抱いていた。だが、天使となった吉沢由里への感傷はない。天使の想いの対象は人なのである。
ニャー、という鳴き声。よく磨かれた校舎を歩く白い猫。
吉沢由里はニッコリと微笑んだ。未だに感情の波が激しいダークブロンドの天使。
白い猫に目を丸める赤い服の天使。藤野桜は田中愛の手をギュッと握り締める。
天使の想いの対象は人だった。それでも田中愛は困惑の色を隠せないでいた。
よく笑い、よく怒るダークブロンドの天使。吉沢由里は稀に、信じられない事に、一雫の涙を溢した。
そして、赤い服の天使の存在。
藤野桜の体は成長していた。天使であるにもかかわらずである。小学校低学年程度の容姿だった藤野桜は、現在、中学一年生くらいの少し大人びた少女の姿に成長している。
考えても仕方のない事だと田中愛は首を振った。天使の対象は人なのである。
人の善行に幸を、人の悪行に厄災を。
さぁ、仕事に戻ろう、と田中愛は二つの存在の手を引いた。
午後0時。県立F高等学校。春の新入生はいない。
春風が静かな校庭を流れた。廃校の決まった校舎の半分は音の無い黒と寂しい灰色に佇んでいる。
編入先の決まらなかった三年生のみが残る校舎。100名に満たない生徒たちは、亡霊のように音もなく体育館へと向かった。昼休みの「いたみの会」である。
誰が初めた訳でもない。何か目的がある訳でもない。それは、ただ俯く者たちが寄り合って成った集いであった。
痛みと悼み。薄暗い体育館の壁に並ぶ黒い文字。若くして亡くなっていったF高校創立以来の生徒たちの名前。
「黙祷」
生徒の一人が蝋燭に火を灯した。両手を胸の前に捧げて膝をつく者たち。太田翔吾も、臼田勝郎も、無言でそれに続いた。
残り一年となった学校で勉学に励む生徒はいない。熱意を燃やす教員もいない。ほんの僅かに残った生徒と教員たちは皆、後悔を胸に故人を悼んだ。
揺れる蝋燭の僅かな灯火に両手を合わせて。
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