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第二章
狂気の天使
しおりを挟む白髪の天使。新実和子は駐輪場のイチョウの木の下を進む三つの存在を見つめた。
汗と震えに顔を歪める二つの存在と、血に塗れた一つの存在。頭に傷を負った男子生徒を運ぶ幼い天使たち。
ショートボブの天使の苦痛の表情。それは、その小動物ほどに細い体力に起因するものであった。だが、赤い服の天使の苦悶は別の理由である。赤い服の天使は人に落ちる一歩手前にいた。
意識と目的の違いである。ショートボブの天使とは違い、赤い服の天使は自らの行いに疑念を抱いていた。それが、赤い服の天使を人に落とす要因としていたのだ。
怠け者の亀と競い合うようなペース。男子生徒の足を抱いた赤い服の天使に力はない。ショートボブの天使の体力も限界である。
新実和子は白銅の空を見上げた。思案。
白髪の天使の関心は一人だった。太った中年の女性教諭。山本恵美、否、宮野恵美こそが長年に亘る白髪の天使の対象であった。報いの炎の中心にいるのは宮野恵美なのである。
報いに巻き込まれる形となった多数の人々。不幸であり幸福でもある人々。宮野恵美への報いが完遂すれば白髪の天使の視線から逃れられるであろう罪を背負った人々。
だが、新実和子は思案した。動かない曇り空。乾いた風に舞う枯れ葉。
特別な罰を必要とする報いの対象がもう一人増えたのである。その人物への関心が新実和子を思案させた。
いよいよと動きの止まる三つの存在。怠け者の亀にも劣るペース。
赤い服の天使は男子生徒の足にしがみついたまま目を瞑っていた。その顔には人としての生気が宿り始めている。
新実和子は腕を伸ばした。赤い服の天使の小さな体を抱き上げると、その頬を叩く。ううっと呻く赤い服の天使。
力なくこちらを見つめるショートボブの天使に赤い服の天使を任せた新実和子は、血塗れの男子生徒の体を軽々と持ち上げた。流れ出た血の割に傷はそれほど深くないようである。新実和子は、まだ意識のない男子生徒を花壇の向こうの安全なスペースに運んだ。
目を瞑る赤い服の天使の頬をペチペチと叩くショートボブの天使。二つの存在に男子生徒を見ているように伝えた新実和子は、まだ死の報いを与えるべきではない人々を導く為に、ふっと校舎の中に姿を消した。
炎上。
日野龍弥は噴き上がる熱い血の躍動に絶叫した。
伸縮と膨張を繰り返す筋繊維。赤い龍が破壊する静寂。
一瞬の出来事であった。緑色のライターに灯った小さな影は、咆哮を上げる炎の龍となって校舎裏を呑み込んだ。忌まわしき肉塊の眠るであろう用具入れも、葉の枯れた木々も、冷たい大地も、僅か数秒で猛火の内である。
神火だ……。
窓ガラスを力強く叩いた龍弥は膨張する下半身の熱に恍惚の涎を垂らした。
赤い世界で踊る影。灼熱の炎に呑まれた前田大介は必死に全身を叩いて暴れ回る。シトリンの黄金色に輝く肉体。見え隠れする漆黒の宇宙。最後の躍動に興奮した男は息を吐き、経験出来得る最大の苦痛に狂った男は息を吸った。瞬間を知覚した二つの存在は、ほんの数秒に永遠の時間を感じていた。
窓の向こうは舞台であった。限りなく圧縮された永遠の世界で、音の無い演劇の赤に龍弥は涙する。
ありがとう、大介。
お前は立派な贄だ。
龍弥は初めて他人に感謝した。全ての罪を被る事になるだろう男に賛美の言葉を送る男。殺しの罪は俺が被るという幻聴を聞いた龍弥は喜びの絶叫を上げた。
だが、絶叫はすぐに止まる。永遠の世界が動き出すと、激しい爆発音が校舎を縦に揺らした。用具入れの裏側に面した技術室の窓から噴き出す炎。その隣の空き教室の窓が爆炎に吹き飛ばされると、二階の窓に黒煙が映った。
惚けたように燃え盛る校舎を見つめる龍弥。黒煙は三階、四階へと伸びていき、それに続く様に立ち昇る赤い炎が窓ガラスを叩き割っていった。
火をつけたのがガソリンだったとはいえ、校舎裏から鉄筋コンクリートの校舎内部に炎が燃え広がる事などあるのだろうか……?
未だ音の無い世界で龍弥は首を捻る。さらに別の爆発音が冬の空に轟くと、龍弥は全身の筋肉を硬直させた。
ま、まさか、他にもガソリンが……?
無音を破る轟音が鼓膜を貫く。「うわっ」と後ろに倒れる龍弥。体を引き摺るようにして空き教室の床を這った龍弥は、続く爆発音に飛び上がった。
に、に、逃げねーと! 早く逃げねーと!
立ち上がって転けてまた立ち上がった龍弥は必死に長い手足を振った。空き教室を出ると、化学物質が混じったような微かな煙の臭いが龍弥の肺を侵食する。旧校舎に人けはない。だが、爆発音に混じる悲鳴と絶叫が古い廊下の空気を震わせた。
転げ落ちるように一階に飛び降りた龍弥は、物置として使われている階段前の教室に飛び込んだ。棚に並ぶ賞状とトロフィーの数々。ペンキの剥がれた窓辺に飛び上がった龍弥は、窓を開けると外に飛び出た。
「逃げろっ! 早く行けっ!」
「いやああああああああああ」
「誰かっ! 誰かっ!」
阿鼻叫喚。校庭を逃げ惑う生徒たちの黒く煤けた頬と体。呆然と校舎を見上げる教員たち。数人の生徒と教員が混乱の渦にある人々を先導するように声を荒げている。そんな、赤い龍よりも日常に近い光景に龍弥はより鮮明で強烈な現実感を覚えた。やっと自分のした事の大きさに気がついたのである。強い恐怖と焦燥感。震え出した全身を包む冬の冷気。
だ、大丈夫だ……。火をつけたのはアイツだから、俺には何の責任もない……。
震える足に力を込めた龍弥はゆっくりと歩き始めた。正門には人集りが出来ている。不安げに口を押さえる人々。壁のようだと龍弥は思った。
誰も知らないんだ……。俺には何の罪もない……。
口を横に広げる龍弥。だが喉を震わす笑いは湧いて来ない。
肩を寄せ合って泣く二人の女生徒。ポカンと口を開いて燃え盛る校舎を見上げる男子生徒。その間を抜けた龍弥は突如眼前に現れた白い影に慌てて立ち止まった。ドンッと背中にぶつかる誰か。ヨロけて数歩進んだ龍弥の視線の先に転がる木製のバット。
な、なんで……?
音が消える。心臓を跳ね上がらせた龍弥は倒れ込むようにして木製のバットに手を伸ばした。煤けた匂い。少し湿ったグリップ。
「おい、テメェ!」
呆然とバットを見つめていた龍弥は誰かの怒鳴り声を遠くに聞いた。それが自分に向けられたものだと気が付いた直後、頭を揺らす強い衝撃を感じた龍弥は目を見開いた。
「ケ、ケンヤ?」
「テメェ、何しやがった! ふざけてんじゃねーぞ、コラッ!」
パープルピンクの毛先。島原健也はピアスの光る唇を怒りに歪めて龍弥の瞳の奥を睨んだ。龍弥は殴られた頬を押さえて呻く。
「まっ……は? な、何の話だよ?」
「とぼけてんじゃねーぞ! 学校に火ぃつけさせたのはテメェだろ!」
「ま、待ってって、俺じゃねーよ、俺のワケねーよ! 大介の奴が勝手にやった事だろうが!」
「あのビビりがこんな事やるわけねーだろ! あんなちっぽけなライターでここまで大事になるわけねーだろ! 何やったんだよテメェ!」
健也は完全に龍弥を疑っていた。龍弥は自分ほどに背の高い男の怒気に押されて言葉を失う。
「おい、黙ってんじゃねー! 何人死んだか分かんねーぞ! 俺らのダチも死んじまったかもしれねー! どうするつもりだテメェ!」
「……うるせぇ」
「あ?」
「う、うるせぇって! お、お、お、俺じゃねーつってんだ!」
「なん……」
「俺じゃねぇって! 俺じゃねぇんだよ! こ、こ、こ、こんな、こんな大事に、俺がするわけねーだろうが! 何だよ、これっ、どーなってんだよ、どーなってんのか俺も聞きてぇんよ。なぁ、ケンヤ、どうなってんだよ、何でこんな事になってんだよ、答えろよ!」
龍弥は取り乱した。焦点の合わない瞳は逃げ惑うかの如く縦横に揺れ動き、ワナワナと震える唇には泡が浮かんでいる。
いつも冷静で冷淡な龍弥の人が変わったかのような取り乱し様に健也は戸惑った。
まさかコイツ、本当に何も知らねーのか?
疑念が健也の内に湧き上がる。
わっと体を左右に暴れさせた龍弥は手に持った木製のバットを弱々しく振った。駐輪場を目指して走り出す龍弥。健也は唖然としてその情けない後ろ姿を見送った。
龍弥は走った。とにかく逃げなければ、と人の少ない駐輪場に向かって手足を動かす。
黒い煙と白い灰。火元に近い駐輪場は熱気と臭気に濁っている。
雪のような灰の中を走る男。男の目に映る三人の男女と二つの何か。
あっと目を見開いた龍弥は立ち止まった。
ゆ、ゆ、夢だ……。
龍弥は白い灰の舞う花壇の先を呆然と見つめた。握られた木製のバットの重み。赤と白と黒の世界。
焼失した筈の遺体、否、生きた少年の顔がそこにあったのだ。
石田大樹の肩を抱く吉沢由里。太田翔吾の声が白い灰を震わせている。
「な、何でだよ……」
龍弥は一歩前に足を踏み出した。死体を隠滅する為に行われた惨劇。石田大樹が生きているという事実は龍弥の終わりを意味する。
フラフラと三人に近付く龍弥。炎の轟音と人々の叫びの中にある三人は龍弥の存在に気が付かない。
三人の側に立った龍弥はバットを振り上げた。足元に感じた微かな衝撃に気が付かない龍弥。
バットが振り下ろされる刹那、龍弥の存在に気が付いた吉沢由里が動いた。大樹の体を守るように覆い被さる由里。はっと体を硬直させる翔吾。龍弥の瞳に感情はない。
煙と灰を切り裂いたバットは、血塗れの少年を守る女生徒のダークブロンドに振り下ろされた。
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