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第二章
権謀の天使
しおりを挟む水気のない季節の平穏。白銅の空は動かない。
は、は、と乾いた空気を押し出す息。白い熱がふっと冬空を流れて消える。灰色の世界を彩る赤。甘い薬品のような匂い。
「あ……?」
日野龍弥は呆然と立ち尽くした。流動する熱がスッと冷めると、先程まで体中を暴れ回っていた生血は、雪に埋もれた小川の如く静まり返ってしまう。
冷たい地面にうつ伏せに倒れる男。石田大樹の黒い髪から染み出す液体。
「嘘だろ……」
咄嗟に口から溢れた陳腐なセリフに、龍弥は微かな笑いが込み上げてくるのを感じた。
静寂を区切るチャイムの音。顔を上げた龍弥は慌てて辺りを見渡した。動かない灰色の脳を侵食する恐怖の黒。右手に握られたバットを投げ捨てようと龍弥は必死に腕を振る。だが、バットは縛り付けられているかのように張り付いて離れない。
何処からか声がした。それが校舎からの声か、コンクリートの壁を越えた車道からの声か、龍弥には判断がつかなかった。荒い呼吸。何とかバットを手放した龍弥は、倒れたまま動かない石田大樹に駆け寄ると、恐る恐る首筋に手を伸ばす。生暖かい血。指先に血の滑り感じた龍弥はわっと手を引っ込めた。
だ、だ、駄目だ……。
全身を襲う悪寒。強い恐怖に顔を歪めた龍弥は、大樹の腰の辺りに腕を回して地面を引き摺ると、錆びた用具入れの中に押し入れた。
た、たとえアレが生きていたとしても、お、俺はもう駄目だ……。
冷たい地面に腰を下ろした龍弥は頭を抱えた。恐怖と悪寒に冷え切った全身が暖かな何かを求めて激しく痙攣を始める。
ポチャン、という空気を弾くような音が鼓膜を震わせた。そっと視線を上げた龍弥の鼻の奥に甘ったるいような薬品の臭いが流れ込む。
何だ……何で……?
それは、よく知った匂いだった。
だけど、何で、この場所で……?
顔を上げた龍弥は用具入れの影に赤いポリタンクを見た。人けのない校舎裏。あまりにも静かである。だが、今の龍弥に違和感を持つ余裕はない。
ポリタンクの中身を見た龍弥は眉を顰めた。赤い影に揺れるオレンジ色の液体。鼻の奥にぶつかるピリピリとした臭い。
ガソリンだ……。何でこんな所にガソリンが……?
声がした。静寂を破る怒鳴り声が上空から響いてくる。
ビクリと龍弥の体が硬直する。周囲を見渡して浅い呼吸を繰り返した龍弥は、オレンジ色の液体に視線を戻した。
そうだ……これで……アレを燃やせば……。
へっへと舌を動かした龍弥は、目をギュッと閉じて首を振った。
な、何を考えてんだ、死体損壊なんてさらに罪が重くなるだけじゃねーか! そもそも、ガソリンに火なんてつけたら……。
あっと龍弥は口に手を当てた。暫し白銅の空を見上げたままに龍弥は思考する。流れ始める血液。薄れていく嫌悪感。
ガソリンの入ったポリタンクに視線を落とす男。口を大きく横に広げた龍弥はは、クックと喉を震わせながら笑い始めた。
静寂が訪れてもまだ、F高校の生徒たちは上の様子が気になった。
鍵を破壊して屋上に出たという三年生たちの英雄的行動。存在が不快な女性教諭の醜い号泣。そして、久しぶりに怒鳴り声を上げた臼田勝郎。
生徒たちの大半はワクワクと上を見続けた。学校の下で行われようとしている何かに気が付いた生徒はいない。当事者を除いて。
「龍弥くん、遅れて悪い」
駐輪場とグラウンドの境界。見晴らしの良い花壇の前で頭を下げる男。前田大介は蛇のようなラインの入った坊主頭に汗を光らせながら日野龍弥に謝罪した。
「いいって、忙しかったんだろ?」
「お、おう、あのさ龍弥くん、学校でさ、今凄いことが起きてんだぜ!」
「凄いこと?」
「そ、三年のケンドウ先輩たちがさ、屋上で宴会してたんだって! 教員たちもビビって何も言えなかったんだとよ!」
興奮して唾を飛ばす男。あまりにも低次元でくだらない話に龍弥は言葉を失う。舌打ちしそうになるのを何とか堪えた龍弥は、満面の笑みを浮かべながら大介の顔を見下ろした。
「うおっ、やっぱケンドウ先輩キマッてるな! 鍵ぶっ壊して侵入したってことだろ?」
「え、鍵って?」
「……屋上には鍵がかかってんだよ。だからケンドウ先輩たちはバカな先公共に反抗するために鍵をぶっ壊して屋上で宴会してたんだよ」
「スッゲー! マジカッケェー!」
鼻息荒く花壇に飛び上がった大介は腰を振りながら踊り出した。そんな同級生の姿に、龍弥は呆れを通り越して強い失望感を覚える。だが、彼は笑顔を崩さない。龍弥の失望は自分に向けられていた。
「ああ、かっけーよな。で、どうなったの、先輩たち?」
「あ、えっと、それがさ、臼田の奴が出てきてさ……ほら、流石に勝てねーだろ、アイツには?」
さっきの怒鳴り声は臼田先生のか……。
龍弥は納得したように頷いた。そして、笑うのをやめた彼は不機嫌そうに目を細める。その目を見た大介は動きを止めた。大介も他と同じように龍弥の存在に怯えているのだ。
「そっか、ケンドウ先輩たちでも駄目だったのか」
「お、おう」
「やっぱ学校には勝てねーのかな、俺ら」
「えっと……」
「はぁ、先公共、マジでムカつくよな。権力行使して、俺らを苦しめてさ」
「お、おう、ムカつくよな、マジで」
「アイツら、勉強出来ない俺らの事バカにしてんだよ。負け組だって鼻で笑ってんだ」
「ま、負け組? マジでウゼェな、アイツら!」
「なぁ、どうするよ?」
「ど、どうするって?」
花壇に立ったまま、大介は腕を組んだ。龍弥はポケットからビニール袋に包まれた何かを取り出す。
「ケンドウ先輩たちは駄目だった。ならさ、俺らで先公共やっちまわねー?」
「あ?」
「大介さ、英雄になりたくねーか?」
「英雄?」
龍弥はそっとビニール袋の中身を大介の手に落とした。大介は緑色のライターに首を傾げる。
「これ、臼田のライター」
「え、臼田のライター?」
「そ、これで学校に火を付けたら、どうなると思う?」
「どうなると思うって?」
ポカンと口を開いて同じ言葉を繰り返す男。
「火を付けるんだよ、臼田のライターで」
「えっと……それで、臼田が焼け死ぬってことか?」
「……かもな。でも何よりも重要なことは、臼田のライターで火をつけるって事だ。そうする事で、臼田が全ての罪を被ることになる。あの禿げた先公が逮捕されんだよ。臼田が逮捕されれば教員たちはもう俺たちに逆らえない。ボヤ騒ぎで学校の信用も落ちる。つまり、罪を臼田に擦りつけたお前は英雄になれんだよ!」
龍弥は早口で説明を進めた。目を丸くした大介は緑色のライターを掲げて飛び上がる。
「す、すっげー! すっげー!」
理解したのか、してないのか。花壇の上で再び踊り出した男を、龍弥は訝しげに見上げる。
「臼田を逮捕する為だぞ」
「おう、臼田を逮捕する為だ」
「校舎裏に灯油の入ったポリタンクがあるんだ。臼田を逮捕するために、それに火を付けてくれ」
「火を?」
「そうだよ、英雄になりたいんだろ? お前が火を付けるんだよ」
「お、俺が?」
大介の瞳に恐怖の色が浮かび上がる。湧き上がる怒りにギリッと奥歯を噛み締めた龍弥はそれでも笑顔を崩さない。
「そうさ、大介、英雄になれるんだよ」
「で、でも……」
「大丈夫さ、ただのボヤ騒ぎだぜ? あ、大介って火が怖かったんだっけ?」
「こ、怖くねーよ!」
大介は慌てたようにポケットからタバコを取り出す。龍弥は思わず吹き出した。
「……罪は全部臼田のせいになるからな」
「は、はは、別に俺のせいになったっていいよ。学校に火つけるとかカッケーじゃん!」
大介は落ち着きを失くしたかのように火のついたタバコを口に運んでは下ろした。念には念を、と龍弥は携帯の電源を入れる。
「他の皆んなも呼ぼう。俺らでバカな先公共をやっちまおうぜ!」
「お、おう!」
大介の力強い頷き。携帯を耳に当てながら曇り空を見上げた龍弥は口を大きく横に広げた。
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