天使の報い

忍野木しか

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第二章

切望の天使

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 F高校教頭。新実三郎は白い毛の混じった髪に手を押し当てた。書類を掴む指先が震えると三郎は深く息を吐く。机の上に転がるボールペン。整頓された紙の束。
 ふと、感じる乾いた匂い。首筋をくすぐる秋の風。顔を上げた三郎は開け放たれた窓に首を傾げた。
 確かに閉まっていたはずなのだが……。
 はたはたと白いカーテンが靡く。澄んだ青い空。ほんのりと冷たい風が暗く淀んだ会議室の空気を押して流した。
 飛ばされそうになった書類の束に慌てて重石を乗せた三郎は、窓を閉めようと腰を上げた。絶え間なく会議室に流れ込む風。乾いた空気に混じる微かな焚き火の香が三郎を感傷的な気分に導く。
 広い街の向こう側。秋晴れの下の山々に目を細める初老の男。窓枠に手をついた三郎は背筋を伸ばすと、秋風を胸いっぱいに吸い込んだ。
 秋か……。子供の頃よく父さんと焚き火やったっけな……。
 三郎は昨年この世を去った父の顔を思い出した。鷹のような鋭い一重。厳格そうな高い鼻。キツく結ばれた唇。けれども三郎は、父の瞳に怒りの色が浮かぶのをついぞ見ることが無かった。柔和な人だったのである。
 戦後の食えない時代を一人で生き抜いてきた父さんの苦しみに比べれば、自分の悩みなんて、取るに足らない些事なのだろう。
 そう青空に微笑んだ三郎はそっと窓を閉めた。認知から遠い白髪の天使の視線。会議室の隅で腕を組む新実和子。
 教頭である新実三郎も人事異動の対象だった。善行に対する報い。それが白髪の天使からの幸である。
 書類に判子を押す三郎を見届けた新実和子は音もなく会議室を出た。おやっと顔を上げる三郎。微かに感じた懐かしい気配。振り返った三郎は、開け放たれた会議室の扉を見つめた。


 ショートボブの天使。田中愛は首を傾げた。
 教壇に立つ新任教員の言葉に騒めく生徒たち。興味なさげに欠伸をする吉沢由里。ダンッと机に手を叩きつけて立ち上がる太田翔吾。
「体育祭が全員白組って、先生、冗談だろ!」
「ええっと、君は……」
 短く整えられた黒髪を撫でながら出席簿を捲るスーツ姿の男。上木良平の口元に浮かぶ微笑みは崩れない。
「ああ、うん、太田翔吾くんか。あのね翔吾くん、今年は特例なんだ。先生はね、冗談なんて言わないよ」
「おかしいだろ! そんなの体育祭じゃねーよ!」
 翔吾に合わせるように立ち上がる体育会系の男子生徒たち。ひそひそと隣同士で話し合う女生徒たち。机の影でパズドラに熱中する中野翼のアイフォンにネオジム磁石を近づけるショートボブの天使。
 教卓に手を付いた良平は丸メガネの縁に中指を置くと、騒ぎ立てる生徒たちを観察するように教室を見渡した。
「何もおかしくなんてないよ。なぁ皆んな、全員白組だって体育祭は体育祭さ。ただ、勝敗がつかないだけだ」
「それがおかしいんだって!」
「何がだい、翔吾くん?」
「勝敗が付かないって、ガキのお遊戯会かよ! そんな体育祭楽しくねーっての!」
「はは、お遊戯会ときたか。僕からしたら君たちもまだまだ子供なのだけれどね。なぁ翔吾くん、勝敗の付かない体育祭が楽しくないと何故断言出来るのか、先生に分かりやすく説明して貰えるかな?」
「はぁ? 説明って……そりゃあ、一番を目指して頑張れるから、勝負事って楽しいんじゃないか」
「勝負事? ふむ、翔吾くん、ならば君はリレーで一番を目指せば良い」
「え?」
「何も順位をつけないとまでは言ってないからね。ただ、皆んなが白組であり、敗者が存在しないというだけの話なんだよ」
「いや、でも、それじゃあ盛り上がりにかけるんじゃ……」
「翔吾くん、体育祭はね、君の考えるような勝負事の場では無いんだよ、分かるかな? 先ほども言ったように、君たちはまだ子供だ。これから大人になるにつれて、君たちは様々な場面で他人と自分の人生を賭けた大勝負に出くわす事となるだろう。受験もその一つであり、社会に出れば君たちはその身一つで戦って行かなければならないんだ。だから僕はね、子供の内くらいは君たちに、皆んなで心を一つに通わせられるという素晴らしい体験をして欲しいんだ。分かってもらえるよね、翔吾くん?」
 黒縁メガネの奥で細められた瞳。良平の笑顔に口を紡ぐ翔吾。
「何、来年がある、君たちはまだ二年生だ。不幸の重なった今年は、どうか喪に服す形で仲間との絆を噛み締めて欲しい。僕も、あれよあれよと流されるままに、こんな時期に新任教員としてこの学校に迎え入れられる事となったけども、君たちのような若く活気のある生徒たちと出会えて本当に良かったと思っているよ。皆んな、ありがとう」
 白い歯を光らせた良平は、バッと頭を下げた。翔吾は当惑したように肩をすくめてキョロキョロと周囲を見渡す。クラスで口を開く者は一人もいない。
 顔を上げた良平はもう一度白い歯を見せて微笑んだ。胡散臭そうに良平を睨み上げる由里。その視線に気が付いていた良平だったが、気にしていないフリをした。吉沢由里は既に要注意人物としてチェックリストに記載されている。
 来年迎え入れられる新たな校長と共に、F高校の教育改革は佳境に至る。教員の入れ替えや体育祭はその為の下準備だった。
 仲間との絆という良平の言葉に感銘を受けて頷くショートボブの天使。田中愛の手から離れたネオジム磁石が、中野翼のアイフォンに飛び掛かった。
 突然の衝撃に悲鳴をあげて飛び上がる翼。驚いて翼を見つめるクラスメイト。重苦しい沈黙。徐々にクラスに笑い声が広がると、密かに眉を顰めた良平は、照れ笑いする中野翼を流し見た。出席簿に何かを記入する良平を睨み続ける由里。床に落ちたアイフォンからネオジム磁石を取り外そうと苦戦するショートボブの天使。
 授業が再開すると田中愛は教室を出た。昼前の校舎は静かである。一階に下りたショートボブの天使は、職員室側から歩いてくる白髪の老女を見た。新実和子の鋭い視線。ぷいっと横を向く田中愛。苛烈な白髪の天使の報いは厄災ばかりが目立った。
 白髪の天使から逃げるように走り出した田中愛は、正面玄関から校庭に飛び出した。
 青い秋の空。心地良い風。そのまま駐輪場脇の花壇に向かった田中愛は、僅かに枯れ始めたマリーゴールドの向こうに長い黒髪の女生徒を探した。人に落ちた天使の行方。完全な人とはなれない天使。取り敢えず花壇に水を撒いた田中愛は、長い黒髪の女生徒を待った。
 天使の気配。田中愛の肩を叩く誰かの手。はっと振り返った田中愛は、自分を見下ろす白髪の老婆の高い鷲鼻にムッと眉を顰める。
 鋭い一重を細める白髪の天使。長い指を開いた新実和子は、田中愛の腕を掴むと立ち上がらせた。
 



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