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第一章
天使の領域
しおりを挟む白いカーテンが天使の頬を叩く。天使のショートボブが窓から吹く風に揺れる。
夏休みの教室に人はいない。田中愛は窓の向こうの景色を眺めた。澄み切った青空に立つ入道雲。低い山々の緑が雲よりも近くて遠い。
吹奏楽部の音色が校内に響き始めると、田中愛は広い校庭でジョギングを始めたサッカー部の青いユニフォームに視線を落とした。グラウンドの土を削るスパイク。立ち上がった天使は校内の巡回を始める。人に認識され難い天使。音のない存在。
夏休みの職員室は静かだった。机に座って手を動かす二、三人の教員。天使の仕事は見つけられない。グラウンドに出た田中愛は、部活動に汗を流す生徒たちを眺めながら体育館に向かった。使われていない旧校舎の前で枝垂れ柳が夏風に靡く。
体育館前の書道部の部室。畳の上で膝をつく生徒たち。
書道部顧問の臼田勝郎は太い腕を組んで、一年生らしき青いジャージの男子生徒の動かす筆を眺めていた。勝郎の頭で黒光りするウルフカットのカツラ。部室の隅から勝郎の頭を見上げるポニーテールの女生徒とお団子ヘアの女生徒。プルプルと頬を揺らした女生徒たちは、目を見合わせるとクスクスと笑い合った。それに気が付いた勝郎は女生徒の方に視線を向けずに微笑むと、カツラを僅かにズラしてゆっくりと歩き始める。
体育館で汗を流すバスケ部員を二階から眺めた田中愛は渡り廊下から校舎に戻った。夏の午後の教室。赤点補修に集まる生徒たち。
大きく口を開けて欠伸する中野翼。ジャージ姿の吉沢由里はイライラと貧乏ゆすりを続けていた。
田中愛はまだ吉沢由里に報いを与えていなかった。行動は善行か悪行か。報いは幸か厄災か。吉沢由里に与えるべき報いに悩み続けるショートボブの天使。席に着いた田中愛に配られた白いプリントがクシャリと音を立てた。天使も赤点補修者である。
赤点補修は退屈だった。一度人に落ちかけた天使は、その時に生まれた僅かな感情で手元のプリントを睨んだ。びっしりと敷き詰められた数字の羅列。目を回す田中愛。
「ねぇ、君、補修終わったよ?」
必死にプリントと睨めっこを続けていた田中愛は、はっと顔を上げた。静かな教室。閉められた窓の向こうの西日。
「君、見ない顔だね。クラスは何処なの?」
天使の顔を覗き込んだ由里は白い歯を見せてニッコリと微笑んだ。凛と揺れるロングのダークブロンド。稀に、ほんの僅かな時間のみ、天使を認識出来る存在。
田中愛はふるふると首を横に振って立ち上がった。由里が天使を認識しやすい稀有な存在であるという事を田中愛は知っている。人との過度な接触に気を付けているショートボブの天使。そのまま去るのは失礼であろうと、取り敢えず由里の頭を撫でた田中愛は、サッと身を翻すと廊下に向かって駆け出した。何もない床に躓いて転ぶ天使。
「ああ、大丈夫?」
撫でられた頭に手を当てた由里は、田中愛が起き上がるのを手伝うと、天使の感情のない黒い瞳をジッと覗き込んだ。由里から離れようともがくショートボブの天使。
「君、何処かで会ったことあるよね? って、同じ学年なんだから当たり前か、あはは。私は吉沢由里。君の名前、聞いてもいいかな?」
吐息が頬の産毛を震わす距離。目をギラつかせる由里の濡れた赤い唇。振り払えない腕力に、田中愛は諦めたように体の力を抜いた。
「おーい由里、補修はちゃんとやってっか? ……って何やってんだよ、お前!」
「チッ」
部活を終えたらしい太田翔吾の登場に由里は強く舌を打ち鳴らした。日野龍弥との一件以来、翔吾は過保護な程に由里の身の回りを警戒している。
二人が言い合いを始めると、田中愛は素早く教室の外に出た。校舎を出た田中愛は駐輪場に向かう。黄金色のマリーゴールドが揺れる花壇。グラウンドとコンクリートの狭間に佇み続ける長い黒髪の女生徒。
まだ西日は青い。彼方に浮かぶ積乱雲が澄み切った空色に静かな彩りを添えている。
野球ボールが宙を舞う校庭から駐輪場を遠目に見つめた田中愛は首を傾げた。花壇を囲むレンガに腰掛ける長い黒髪の女生徒。その隣に立つ背の高い白髪の老婆。
天使の会話に言葉は無い。花壇に近づく田中愛に鋭い視線を向ける白髪の老婆。戦中に生まれた天使。
長い黒髪の女生徒はゆっくりと立ち上がった。人に落ちた存在。行く当てのない人の頬を伝う涙。
田中愛の胸に浮かぶ怒り。感情を制御出来ない天使。
白髪の老婆はショートボブの天使を見下ろすと警告した。 未熟な判断能力。公平性に欠ける行動。報いを完遂しない怠慢。
何も言い返せないショートボブの天使。白髪の老婆から視線を逸らした田中愛は、長い黒髪の女生徒の後を追った。善行に対する報い。天使を救って人に落ちた天使の善行に対する幸。
道路に飛び出た田中愛は長い黒髪の女生徒を探した。だが、既にその姿は無い。学校から離れようとするショートボブの天使に、白髪の老婆は再度警告する。公平性に欠ける行動。可能範囲を超える活動。
警告を終えた白髪の老婆は田中愛に背を向けると、校舎に向かって歩き出した。伸びた背中に揺れる白い髪。異様に薄い影。
田中愛は困惑したように眉を顰めて立ち止まった。白髪の天使は人の死に対する報いに携わることが多い。学校には縁のない筈の天使だった。
判断に迷うショートボブの天使。長い黒髪の女生徒の安否が最優先だという結論に至った田中愛は、学校に背を向けると駆け出した。
背を向け合う存在。誰にも認知されない白髪の老婆。過去に六度、人に落ちかけた天使は、正面玄関の前で立ち止まると夕暮れに染まっていく校舎を見上げた。
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