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第一章
天使の視線
しおりを挟む桜並木の青葉でヒグラシが鳴いた。
西日はまだ空高く、青々とした頭上に細い雲がゆっくりと流れていく。
放課後のグラウンドで走る生徒たちの声。駐輪場にほど近い、砂とコンクリートの狭間。赤いレンガに囲まれた花壇でマリーゴールドが夏風に靡いた。
花壇に腰掛ける長い黒髪の女生徒。白い手足。寂しげな瞳。人に落ちた天使は、一人、黄金色の花の群を眺めていた。
その隣に腰掛けるショートボブの天使。田中愛は、長い黒髪の女生徒をじっと見つめた。天使を救ったことで人に落とされた哀れな存在。否、それが果たして哀れなのどうかは本人次第であるが、田中愛は僅かに残った感情で人となった天使を哀れんだ。人に認知され難い天使。マリーゴールドの花弁に光る水滴。長い黒髪の女生徒の視線の先に田中愛はいない。
西日が赤く染まる頃、長い黒髪の女生徒は立ち上がった。人に落ちた天使に身寄りはない。長くは生きられないであろう人。当てのない世界を彷徨う存在。ヒグラシの声が止むと、立ち上がった田中愛は職員室に向かった。
グラウンドでは運動部が熱心に練習を続けている。対照的に、校舎の中は静かだった。
薄暗い廊下の先の職員室。窓辺で俯く臼田勝郎の薄い髪。職員室に入った田中愛は、勝郎の隣に立った。現代国語の教師である勝郎は、大学受験を控えた三年生の期末テストの採点に勤しんでいる。複雑な表情の勝郎。生徒の死という到底受け入れ難い事実の後にも時間は進んでいく。彼は教師として生徒たちを前に進ませなければならなかった。人の心を読めない天使に、その心を窺い知ることは出来ない。
夜が訪れると静まり返る学校。グラウンドにも校舎にも声は無い。僅かに職員室に残った教師たちは、皆、自分の仕事に集中していた。田中愛は無音で、教師たちの顔を眺め続ける。
テストの採点を終えた勝郎は残った仕事を片付けると、小物が積まれた乱雑な机の引き出しの一番下を開いた。生徒の誰かに送られたカツラ。おっと目を見開くショートボブの天使。黒い、柔らかな人工の毛をそっと撫でた勝郎は寂しそうな笑顔を見せると、それを頭に被った。四角い顎をした無精髭の男の耳を隠すミディアムウルフの男性用カツラ。何処かの大道芸人のような風貌となる大男。
立ち上がった勝朗はいそいそと荷物を纏め始める。勝郎の頭の異変に気が付いた女性教員は、見てはいけないものを見てしまったかのように慌てて視線を下げると、生徒の日記帳を開いた。
「では、お先に」
「は、はい……お疲れさまです」
手を上げて微笑む勝郎。オドオドと肩を丸めて頭を下げる女性教員。暗い廊下に出た勝郎の背後を歩くショートボブの天使。
夜の校庭に出た勝郎は駐車場には向かわず、歩いて校門を出た。カツラは勝郎の頭にジャストフィットしており、多少の風にも動かない。田中愛は、勝郎の頭にメジャーを巻いたり、薄毛相談の講習会に赴いたりした日々の事を思い返した。街頭に照らされた公園を通り過ぎる勝郎と天使。十の文字に重なる丸時計の針。深夜十一時に用事がある事を思い出す天使。
カツラを身につけて人けの無い夜の街を闊歩する勝郎は、何処か清々しい表情をしていた。勝郎の散歩に人知れず付き合っていた田中愛はコクコクと首を動かす。
前方から近づく人の影に勝朗が道を譲る。黒のTシャツにグレーのロングタイトスカート。栗色のミディアムパーマ。人影が若い女性である事に気が付いた勝郎は、ピタリと動きを止めると、サッと明後日の方向を向いた。勝郎の視線の先を追う田中愛。怪訝そうに首を傾げる若い女性。
「あ、あの……?」
若い女性の声。勝郎は夜空を見上げたまま、ビクリと体を動かす。
「こ、こんばんは」
「こんばんは……?」
勝郎の顔を覗き込むように視線を上げる若い女性。勝朗はその視線から逃げるように首を捻った。
「で、では……」
ぐるりと歩道で一回転した勝郎は片手を上げた。視線を追って勝朗の周囲を一周する女性と天使。
「あの、黒猫の方ですよね、高校の先生の?」
「えっと……」
「その、どうしたんですか?」
「な、何がでしょうか……」
「カツラなんて被っちゃって?」
「い、いえ……その、ですね……」
「こんな事言うのもなんですけど、あまり似合っていませんよ、それ?」
「は、はぁ……」
若い女性のデリカシーの無い言動に汗を掻き始める勝郎。田中愛は自販機の下を彷徨く黄金虫を一匹捕まえると、若い女性の背中に張り付けた。
「その……ですね、このカツラは、生徒が私にプレゼントをしてくれたもので……」
大量の汗で額を光らせた勝朗が首の後ろを掻く。若い女性は何かを察したように眉を顰めると、腕を組んだ。
「はぁ……なるほど……。やはり先生はお優しい方ですね。ですが、恐らくそれは生徒のイタヅラだと思います」
「いや……」
「そのカツラを渡した生徒の事はご存知なのですか?」
「い、いえ……誰かまでは……」
「誰かは分からないと? はぁ、ダメですよ、そんなのって……許せませんよ、私、そう言うの」
「い、いえいえ、これがイタヅラかどうかなんて……そんな事は、本人に聞いて見なけりゃ分からんでしょう? 決めつけるのは良くない」
「分かりますよ! こっそりカツラをプレゼントするなんて、非道です! そんな、デリカシーの無い……許せませんよ!」
デリカシーの無い若い女性の怒鳴り声。しょんぼりと肩を落とす勝郎。黒いTシャツに張り付く黄金虫が七匹に増えた頃、若い女性は異変に気が付いて悲鳴を上げた。
「きゃあ! む、む、む、虫っ! いやぁ!」
猫のように体を跳躍させてバランスを崩す若い女性。慌てて女性の体を支えた勝郎は、動転する彼女を宥めると、黄金虫を一匹一匹逃していった。
「虫……虫が……」
「あっはっは、大丈夫、大丈夫。ただの黄金虫ですよ。いやぁ、しかし、黒い服に集まる習性でもあるのかな?」
震える女性の肩を叩く勝郎。ゆっくりと顔を上げた女性と目が合った勝郎は、あっと顔を真っ赤に染めると、慌てて女性の体から手を離した。
「す、す、すいません……本当に申し訳ない……」
「い、いえいえ、此方こそ取り乱してしまって……」
お互いに頭を下げ合う二人。夏の夜に火照る体。赤い顔をする勝郎を見つめた若い女性は、クスリと笑うと、細い腕を前に出した。
「私、船江美久って言います」
勝郎の手をぎゅっと握る乙女。柔らかな手の感触に体を硬直させた勝郎は、サッと背筋を伸ばした。
「わ、わたくしは、臼田勝郎と申しまして……いえ、名乗りもせずに申し訳ない」
「へぇ、勝郎先生って言うんですか? あはは、もう、そんなに謝らないでくださいよ。先生、高校の頃の私の担任にそっくり」
美久の赤い唇から白い歯が覗くと、勝郎も照れたような笑いを浮かべた。
地面にひっくり返った黄金虫を自販機の側の雑技に運ぶショートボブの天使。カツラを被ったまま笑う勝郎を見上げた田中愛は、美久の背中に黄金虫がいない事を確認すると、二人に背を向ける。
公園まで戻る天使。十時四十分を示す丸時計。
吉沢由里への報いは思い付かないまま、田中愛は、T川の運動場を目指して歩き始めた。
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