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第一章
天使の行方
しおりを挟む日の当たらない駐輪場は正門から遠い。体育館裏のイチョウの葉が夏の風に揺れて落ちる。
吉沢由里の怒鳴り声が、ちょうど自転車を止めた小柄な女生徒のブレーキ音を消した。激しい怒りを感じる音。甲高い叫び声。
驚いて振り返る女生徒。イチョウの木の向こう側の争い。顔を赤く染めるダークブロンドの女生徒と、背の高い男子生徒を視界に入れたショートボブの女生徒は、見てはいけないものを見てしまったかのように慌てて自転車に鍵を掛けると、そそくさと日の当たる校庭に向かって歩き始めた。
グラウンドを走るサッカー部の青いユニフォーム。朝に鳴く蝉の羽。
日陰に響く鋭い声が遠くなると、女生徒はほっと胸を撫で下ろした。涼しい校舎の空気を胸いっぱいに吸い込む小柄な女生徒。認知の外の世界は、女生徒の関与するところでは無い。
スニーカーを脱いだ女生徒は白い上履きに手を伸ばす。ギリギリの距離。土間と簀子の段差に躓いた女生徒は、あっと上履きを振り回して廊下につんのめった。茶色い廊下に倒れ込む女生徒。その脇を通り過ぎる生徒たちの話し声。
養護教諭である奥田恭子が、廊下に手をついて体を起こす小柄な女生徒の側に通りかかった。小太りの老女。元気な声を出す生徒たちに満面の笑みを返す恭子。
女生徒は何かを縋るように恭子を見上げた。だが、恭子は女生徒に一目もくれない。認知の外にいる女生徒は、恭子の関与するところでは無い。
恭子の後ろ姿を見送った女生徒は、廊下に蹲ったまま上履きを履いた。冷たい底。頭上を通り過ぎる声。朝の学校に笑う生徒たちは小柄な女生徒の存在に気がつかない。虚な視線を上げた女生徒は、ゆっくりと廊下を立ち上がると自分を囲む世界を見渡した。
狭い廊下。声と熱の喧騒。明るいグラウンド。いつも通りの風景。
何かを忘れている、と感じる女生徒。
羞恥。虚脱。感傷。憂惧。抑えられない胸の鼓動に耐えられないもどかしさ。
何かを忘れている、と涙を溢す女生徒。
朝、白い部屋で一人、目を覚ました女生徒。失った何かとともに与えられた感情に、ショートボブの女生徒は戸惑った。光を受ける瞳の快。胸の奥に湧き上がり続ける不快。両手で耳を覆った女生徒は口の中で舌を動かして声を出した。初めて発した音は小動物の咀嚼音よりもか細い。誰にも認知されない小さな声。
耳を塞ぐショートボブの女生徒を廊下の奥から見つめる長い黒髪の女生徒。ショートボブの女生徒がまた廊下に蹲ると、長い黒髪の女生徒は音もなく廊下を歩き始めた。
人になった天使は人知れず死んでいく。長い黒髪の女生徒は、人になりかけているショートボブの天使を見下ろすと、やりかけた仕事はないかと首を傾げた。
顔を上げた女生徒は首を横に振った。失った記憶。悲痛の表情。鼓動を繰り返す心臓。
長い黒髪の女生徒は感情のない瞳でショートボブの女生徒の濡れた瞳をじっと見つめると、その手を取って立ち上がらせた。
天使が人に落ちることはごく稀であった。長い黒髪の女生徒は人に落ちた天使の存在を他に知っている。だが、迷った。この存在が報いの対象か、否か。受ける側か、与える側か。天使か、人か。
天使は、感情の波に溺れるショートボブの女生徒が、それでもまだ天使であると判断した。
震える小柄な女生徒の手を握ると、天使の仕事場である教室に導く髪の長い女生徒。階段を上った先。閑散とした二階の廊下。幾つかのクラスを通り過ぎて2年D組の扉を潜る認知の外の存在たち。見知った顔ぶれにほっと息をついたショートボブの女生徒は、窓際の空いた机に腰掛けた。風に揺れる白いカーテンがショートボブの女生徒の頬を叩く。授業中の静けさ。前の席で、うつらうつらと頭を動かす中野翼。机の中に仕舞われた一冊のノートを取り出した女生徒は、自分の名前を思い出す。
田中愛。
湧き上がる快の感情。天使と人の狭間の存在。仕事を思い出した田中愛は音も無く立ち上がった。後ろから田中愛を見つめる天使の長い黒髪が窓から吹く風に流れる。女生徒の感情のない瞳を見返した田中愛は、コクリと首を縦に動かすと、雲を動かす風のごとく駆けだした。報いを約束した対象たち。天使としての仕事を完遂せねばという強い想い。
感情が生んだ自覚。狭間に揺れる存在。田中愛は自分が天使であることを確信した。
善行には幸福を、悪行には厄災を。
先ずは奥田恭子に盆栽を与えねばと意気込む天使。常識と判断能力に疎いうえに、警告を無視して人に落とされそうになっているショートボブの天使の報いを手伝ってやろうと、後に続く長い黒髪の女生徒。
与えるべき報いを数えた田中愛は、校庭に飛び出すと、盆栽用の苗木を求めて近くの山に走り出した。
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