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第二章 魔法の世界
争いの終わらぬ世界
しおりを挟むマーク・ロジャーは白い壁に背中を預けた。蝋燭の薄明かり。狭い部屋の簡素なベット。
マークの広い背中を抱きしめるようにして、世界同盟幹部エリザ・パストゥールがそっと寄りかかる。鼻腔をくすぐる甘い匂い。絹のような滑らかな金髪。
マークの高い鼻が彼女のその美しい金髪をくすぐると、嬉しそうに笑ったエリザはそっと彼に顔を近づけた。ベッドの上でそっと唇を合わせる二人。
エリザの身体を抱きしめたかった。だがマークは抱きしめる腕を失っていた。
……まぁ、抱きしめて貰えばいいのでしょう。
両腕欠損には生活の不憫さがあるものの、マークはそれほど気にしていなかった。彼は自分の身体に興味が無かったのだ。
「マーク様ぁ……! うわあ!?」
突然部屋に飛び込んできたピット・ハイネスは、マークとエリザが裸で抱き合っているのに仰天し、慌てて背中を向けた。
「ノックをしてから入りなさい」
「す、すいません!」
ピットは後ろを向いたまま両手で目を覆った。首筋から耳の上まで焼けた石のように真っ赤に染まり、坊主頭からは湯気が上がっている。エリザが小さな笑い声が蝋燭の火を揺らす。
「何のようです、ピット」
「い、いえ、先生が隠れ家にお見えになられまして」
「先生?」
「せ、世界同盟のリーダーです」
「ほぉ」
マークは興味が湧いた。壁から背中を離すと、ベッドの外に足を下ろす。エリザは横から彼の体を支えた。
エリザに服を着せてもらったマークは、背中を向けるピットの尻を蹴った。
「行きますよ」
「はい!」
未だ全裸のままの美女。振り返ったピットは卒倒した。
長い地下の道は洞窟だった。剥き出しの岩は乾いており、光球魔法の灯が横穴から洞窟を照らしている。
洞窟はユートリア大陸全土に広がっていた。未踏の穴が多数存在し、危険な霊獣や太古の呪いが暗闇に潜んでいる。迷い込めば永遠に抜け出せないであろう大洞窟だった。
大陸中に散らばる世界同盟は、各都市の真下の洞窟に身を潜めていた。当然、都市の魔術師たちはその存在に気付いているはずである。だが、誰も地下の世界同盟には手を出さなかった。
恐らく世界同盟は権力者との繋がりを持っているのでしょう。
マークはそう考えた。
「こちらです!」
しばらく洞窟を進むと、木製の豪奢な扉が現れた。
ノック無しに扉を開ける小男。ピットが勢いよく中に飛び込むと、マークはやれやれと首を振ってその後に続いた。
扉の向こうは広いドーム型の空間だった。地面も天井も純白の滑らかな石で覆われている。
中央には長テーブルが置かれていた。白い大理石のテーブル。分厚い書物の束。書物を読み耽る黒い髪の男。
「先生! マーク様を連れて来ました!」
ピットが叫んだ。甲高い声が空間を木霊する。
スッと男が椅子から立ち上がった。
中肉中背。肩まで無造作に伸びる黒髪。顔を上げた男の表情は柔和だった。世界同盟のリーダーは何処にでも居るような優男であった。
「やあ、マークくん、こんにちは」
「ええ、こんにちは」
「両腕は残念だったね。回復魔法では無くなった腕は生やせないんだよ」
「問題ありません。ところで、あなたは一体どなたです?」
背の高いマークは上から見下ろすようにして、黒髪の優男を見つめた。
「おっとこれは失礼、自己紹介がまだだったようだね。私の名前はクラウディウス・プリニウス。まぁ、気軽に先生と呼んでくれたまえ」
クラウディウスは微笑んだ。
「そうですか。それで、いったい私に何の御用でしょう? 私は忙しいのですが」
マークは胡散臭そうにクラウディウスを睨んだ。
クラウディウスは、うほんと咳払いをする。切れ長の目に浮かぶ人懐っこい笑み。
「マークくん、君は世界が欲しくないかね?」
加地春人は自分の胸に刺さる紫色の腕を呆然と眺めた。
ショックで息が止まる。痛みは無く、強い圧迫感だけが春人の呼吸を止めていた。
そのままエメリヒは、憤怒の魔女の心臓を握り潰した。
大量の血を吐いた春人は膝から崩れ落ちた。飛び散る鮮血。障壁の内側が赤く染まる。
アリシアの絶叫で放心していたソフィアは我に返った。陽光に煌めく赤い障壁。紫色の男の赤い瞳。
真紅のルビーに瞳を染めたソフィアが短剣を片手に地面を踏み締める。だが、"赤壁"のバルザックの方が速かった。その丸太のような大剣は既に背の高い〈ヴァンパイア〉の頭蓋から股までを真っ二つに切り落としていた。
「死ね」
大剣を振り下ろしたバルザックは、怒りの形相で真っ二つになったエメリヒの横腹を蹴り上げる。
グニャリと曲がる〈ヴァンパイア〉の体。衝撃で空を舞った血飛沫が雨のように木々に降り注ぐ。だが、蹴り飛ばされたはずのエメリヒの体は空に無い。
バルザックは咄嗟に身をかがめた。エメリヒの鋭い爪が宙を切り裂く。
「〈ヴァンパイア〉め」
バルザックは体捻って大剣を後ろに回した。予備動作無しに後ろに下がってそれを躱したエメリヒは、圧縮した大爆撃魔法を放つ。バルザックの巨体は木々の向こうに吹き飛んでいった。
アリス・アスターシナか。
エメリヒは、しまったと振り返った。既に障壁の中の四人は亜空間に消えていた。
「落ち着け、まだ生きている」
アリスは、泣き叫びながら回復魔法を唱えるアリシアを押しのけた。春人の心臓は完全に潰されており、脳も死にかかっている。回復魔法で治癒が間に合う状態ではなかった。
アリスは人体創造魔法を発動した。それは、魂さえ無事ならば完全な死者をも蘇生出来る大魔導師アリス・アスターシナ独自の魔法だった。
春人の破壊された臓器が元通りに創造されていく。
ガハッと血を吐くと、春人は息を吹き返した。
そっと、その頭を撫でたアリスは、バタリと亜空間の流動する固体に倒れた。酷く乱れた呼吸。汗に濡れた白い肌。ソフィアは慌ててアリスの側に寄った。
人体創造魔法には多量の魔力を必要とした。異世界を創造する亜空間魔法との併用は、アリスの魔力を致死量にまで消耗させる。更に、春人の魂は憤怒に汚されているのである。アリスの弱った身体を憤怒の呪いが蝕み、意識は切れ切れとなった。
エメリヒ・フローレス・カラヴァッジョが亜空間に入り込んだ事にも、すぐには気がつかなかった。
そもそも警戒すらしていなかったのだ。隔離された亜空間に入り込むには特定の媒体が必要であり、それを警戒した事は今まで無かった。
「血か……」
アリスは薄れかかった意識で中で呟いた。憤怒の呪いが、地上の血液を媒体に空間を繋げていたのだ。
エメリヒは無言で爪を光らせる。
アリスは銀色の瞳で、エメリヒの紅い瞳を見返した。僅かに頬を緩める〈エルフ〉の少女。
‘’氷の王‘’アリス・アスターシナは、かつての仲間の手によって、静かにこの世を去った。
ソフィアは真紅の瞳に涙を光らせてエメリヒに飛びかかった。その首をエメリヒが切り裂くと、白い首から大量の血が噴き出す。
春人は何も出来なかった。彼には、その光景を眺め続ける事しか出来なかった。
スッと意識が彼方へ飛んでいく。何処からか聞こえて来る誰かの雄叫び。ぐわりと歪む視界。ドス黒く染まっていく両眼。春人の黒く揺れる両眼から足先まで青黒い光を放つ。
スッと立ち上がった春人は右腕を上げた。静かにアリスの亡き骸を見下ろすエメリヒ。その紫色の身体に、春人は圧縮魔法を放つ。強欲の魔女の圧縮を超える圧倒的な力。エメリヒの身体は捻り砕け潰れ落ちた。滴る血の雫。
春人は丸い肉の塊となったエメリヒを大灼熱魔法で細胞まで焼き尽くした。焦げた灰が亜空間に散らばる。だが、灰はすぐに一箇所に集まると〈ヴァンパイア〉の姿に戻った。
春人はそこに青黒い大衝撃魔法を飛ばす。エメリヒはゆったりとして動作でそれを避けると、高速で春人の背後に回った。
エメリヒは再び魔女の心臓を貫こうと春人の背中に腕を伸ばした。だが、何故か手首から先が無い。ザンッと両眼を走る衝撃。突然視力を奪われたエメリヒは唸った。
手裏剣でエメリヒの両眼を潰した〈ゴブリン〉のガベル・フォートルマンは、三日月刀を素早く鞘に収めた。ガベルは亜空間転移するエメリヒの背中にこっそりと張り付いて来ていたのだ。
ガラムピシャの猛毒を塗ってある三日月刀の刃は、既にエメリヒの腕と春人の首筋を切り裂いている。
〈オーガ〉ですら即死の量だが、憤怒の魔女ならば大丈夫であろう。
ガベルは動きの止まった春人を引っ掴むと、アリシアの元に投げた。
〈ヴァンパイア〉の再生は無制限では無かった。最古の〈ヴァンパイア〉エメリヒ・フローレス・カラヴァッジョのそれは不死身に近い。だが灰からの完全再生の後であった為、全身を回る猛毒に再生が鈍った。
「おい、来たはいいが戻れん! お嬢ちゃん、早く何とかせい!」
呆然とへたり込んでいたアリシアは、ガベルに強く頬を叩かれてハッとする。
「でも、飛べない!」
アリシアは意識の無い春人を抱きしめて泣いた。亜空間は隔離されており、通常の転移魔法では移動出来なかった。
「では何故、奴は来れた! 考えろ! 貴様は最上級魔術師であろう!」
「無理よ!」
エメリヒはゆっくりと手裏剣を引き抜いた。両眼に開いた穴が少しづつ修復していく。ガベルはすぐさま手裏剣を投げた。だが、エメリヒは見えているかのようにそれを避ける。
「坊主が殺されるぞ! 貴様の役目は坊主を守ることであろう!」
エメリヒは再生した紅い瞳を三人に向けた。だが毒は僅かに体内に残っているようで、腕の再生は終わっていない。
ガベルはスッと三日月刀を抜いた。ギラリと鋭い刃が光る。
アリシアは恐怖と悲しみの渦の中、必死に考えた。
師匠であるクラインの優しい顔が浮かぶ。
クライン師匠、助けて……。
アリシアは必死に願った。するとクラインの怒った顔が浮かぶ。
アリシア、お前の目で呪いの痕跡を見るのだ!
アリシアはハッと目を見開いた。
空間透視魔法と時空回帰魔法を併用する。赤黒い呪いの残穢が、流動する地面から春人の身体に流れていた。
アリシアは春人の首筋に口を当てる。
ごめんね。
歯を立てると、赤い液体がスーッと流れた。血の中を渦巻く呪いが残穢に呼応して広がる。アリシアは転移魔法の門を残穢に繋げた。
魔力では無く、呪いを媒体とする空間転移は初めてだった。それは期せずして亜空間魔法に近いものとなった。
「ガベルさん!」
アリシアは叫んだ。エメリヒが動くのと同時だった。
ガベルは手裏剣をエメリヒの顔に投げる。エメリヒは予備動作無しに避けると、鋭い爪をガベルの腹に突き立てた。
ガベルは紙一重でそれを避けながら、三日月刀をスッと横に流した。エメリヒは後ろ下がる。そして高速でガベルの横に回った。
〈ヴァンパイア〉の速度は全ての種族の頂点に立つ。だがイェル族の若頭ガベル・フォートルマン・イェル・ドゥルフの動体視力は〈ヴァンパイア〉の最高速度に反応した。
エメリヒの爪がガベルの首を切り裂く刹那、彼はエメリヒの腕に飛びついた。
首が半分裂ける。血飛沫が舞う。だがガベルの三日月刀は、エメリヒの脇腹に刺さっていた。
「行け!」
ガベルは叫んだ。
エメリヒは猛毒で動きが鈍りながらも、ガベルにとどめを刺した。そして憤怒の魔女に大爆撃魔法を放つ。
春人を抱きしめたアリシアは、泣き叫びながら呪いの残穢に飛び込んだ。
サマルディア王国は壊滅の一歩手前にまで追い込まれていた。
国境の壁は破られ、村々は焼き尽くされた。既に王都が戦場となっている。
エヴァンゲレス・マチルダは、サマルディア王国の王子イヴァン・サイードの小さな身体を左手で抱いて転移魔法を唱えた。キルランカ大陸からユートリア大陸への海を挟んだ転移魔法だった。
軍刑法典では許可の無い大陸間の移動は禁止されている。だが、緊急事態にも関わらず許可が下りなかった。エヴァンゲレスは独断で、王族を安全なユートリア大陸に転移させたのだった。
サマルディア王国の中心に立つクィルフ城に戻ると、バルコニーに移った。
王都の荘厳な街並みは火の海となっている。
最上級魔術師の援軍は誰一人としてやって来なかった。エヴァンゲレスは左手をギュッと握りしめる。右腕の肘から先は無い。
屈強な〈ドワーフ〉数人が、城を守る兵士の一人をなぶり殺していた。
エヴァンゲレスはバルコニーから地上に飛び降りる。
強い風が周囲を流れた。
‘’風神ラドラ‘’の加護を受けたエヴァンゲレスは、吹き荒れる風の中を駆けた。浅黒い身体を鞭のようにしならせると、風の刃を纏った左腕で〈ドワーフ〉顔面に風穴を開ける。身体を回すようにして腕を引き抜くと、風刃魔法で残りの〈ドワーフ〉の胴体を真っ二つに切り裂いた。
黒豹の雄叫びが燃え盛る王都を駆け巡る。
キルランカ大陸最後の〈ヒト〉の王国。
サマルディアは終焉を迎えた。
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