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第二章 魔法の世界
決意の騎士
しおりを挟むマーク・ロジャーは水平線の彼方を見つめた。
色欲の魔女がいるというフィアラ大陸は、遥か海の向こうだった。
さて、どうやって海を越えようか……。
マークは唸った。視野を越えた転移には、魔法陣などの目印が必要だった。浮遊魔法で向かうには遠い。船はないかと〈ドワーフ〉の国を訪ねてみたが、長旅に耐え得るようなまともな船は一隻もなかった。
北西にはサマルディアという〈ヒト〉の国があるらしい。そこならばフィアラ大陸へ向かう方法が何か見つかるかもしれない。だが歩けば一月以上かかるという。マークは確証も無しに、そこまで向かう気にはなれなかった。
アンナ・ジャコフスカヤ、君の方から私の元へ来たまえ。
マークはまだ見ぬ魔女への欲望に、イライラと金色の髪を掻きむしった。
ふと、上空で小鳥が旋回しているのが目に入った。その小鳥は急降下すると、マークの元に降り立つ。
「お前、ここで何してる?」
小鳥はド・ゴルド帝国へ偵察に向かう途中のアニエル・ゲインだった。
アニエルは杖をマークに向ける。
「フィアラ大陸へ向かう方法を探しているのです」
マークはニコリと微笑んだ。背が高く筋肉質のマークだったが、微笑むと目尻に皺が寄って愛嬌があった。
「フィ、フィアラ大陸だと? お前、正気か?」
「はい、どうしても行かねばならない用事がありまして」
「……危険だぞ? フィアラ大陸の奴らは〈ヒト〉に容赦が無い。そもそも、魔女は大陸全体に呪いをかけている。安易に近づくことすら出来んのだ」
「ですが、交易などはどうしているのです? さすがに何処も自給自足という訳ではないでしょう」
「交易? 何を言ってるんだお前は。他の種族と交易などする訳がないだろう?」
「では、〈ドワーフ〉や〈エルフ〉などは? 彼らはフィアラ大陸と交易があるはずです」
「奴らは空間魔法でフィアラと繋がっている。……お前、何だ。何故、そこまでフィアラ大陸に行きたがる?」
アニエルは警戒して目をスッと細めた。眉を顰めたマークは明後日の方向を向く。
「そもそも、何故こんなところを〈ヒト〉が歩いている。ここは既にド・ゴルド帝国領域内だぞ。……お前、まさか世界同盟の者か?」
「その魔法陣は何処にある?」
「なん……ごっ」
アニエルは見えない何かに首を締められた。そのまま宙に持ち上げられる。
意識が遠のいた。
「君は偵察者か何かだろう? 魔法陣のありかを知っているなら答えなさい」
「……ド・ゴルド、南方、岩の洞窟、です」
喉の潰れかけたアニエルの掠れた声。
マークは、そのままアニエルの首を折った。
傀儡魔法は意識のない相手にしか使えない。その為、死ぬまで意識を失わない〈ドワーフ〉相手には使えなかった。〈ドワーフ〉は睡眠中ですら意識があったのだ。
また、あの怪物共と戦うのは面倒だ。
マークはアニエルを真似て小鳥に変身する。このまま海を越えようかと少し悩んだが、南方に向けて飛び立った。
アリシア・ローズは目に見えるほどに痩せこけていた。
あれ以来、学園には行っていない。一言も喋る事なく、薄暗い部屋の隅でじっと膝を抱えていた。
クラインは、そんなアリシアの姿に涙を流した。彼はただひたすら、アリシアが昔のように元気な子に戻ってくれる事を祈っている。
雲に隠れた月。どんよりとした夜の闇が澱ませる城の空気。
地下で呪いの研究に没頭していたアステカ・トナティウスは使用人に来訪者の知らせを受ける。城の玄関へと向かったアステカは、来訪者の顔を見ると慌てて膝を付いた。
「ク、クラウディウス様!」
アステカは、中肉中背の男を見上げた。
肩まで届く黒髪に栗色の瞳。柔和な顔つきをした男は、一見すると何処にでもいるような優男である。
彼はエスカランテ王国の四騎士の一人であった。
クラウディウス・プリニウスは、そう畏まらないでくださいと苦笑する。
「本日はどのようなご用件で?」
「あなたのお父上に話してあったのですが……。アステカさん、お聞きになってはいませんか?」
「い、いえ……」
何故、そんな大事な話を黙っていたのか。
アステカは父であるトルテカ・トナティウスを恨んだ。息子と同じ学者肌のトルテカは魔法政官の一人であり、ここの城主だった。
「そうですか。実は私、アリシアに用があって来たのです」
「アリシアにですか?」
アステカは、アリシアが四騎士の一人に推薦されているという噂を思い出した。
「はい、少しお話をさせて貰いたく。実はアステカさんにも聞いて貰いたい話なのです。アリシアの元へ案内してもらってもよろしいですか?」
アステカは躊躇った。
もしも推薦の話ならば、今は難しいだろう。そもそも彼女は、普通に会話が出来るような状態ではない。
「クラウディウス様、その事なのですが……」
「大丈夫です、彼女の状態は私もよく分かっています。それを踏まえたうえで、これから私がする話は、彼女を救うことになるかもしれません」
「……分かりました。でしたは、こちらへお上がりください」
アステカは戸惑いながらも、クラウディウスをアリシアの元へ案内することにした。
真鍮の手摺りは使用人の手で輝く黄土色に磨かれている。朱色のカーペットにはシミ一つ見当たらない。二人は壁に沿った螺旋状の階段を上がった。
「アリシア、入りますよ」
部屋の扉は空いていた。
アステカがそっと中を覗くと、ベットの前で大柄の老人が項垂れていた。静かに部屋に足を踏み入れる二人。
「やあアリシア、久しぶりだね」
クラウディウスは、ベットの上で壁に寄りかかるアリシアに声をかけた。無反応のアリシア。黒い髪は柳の枝のように乱れている。
「クラウディウスか……?」
「先生、お久しぶりです」
クラウディウスは慇懃に頭を下げた。クラインは、かつての弟子であるクラウディウスの訪問に驚いた顔をしたが、またすぐに暗い表情に戻った。
「久しぶりだな、クラウディウス。魔女の件で忙しく動き回っていると聞いているが、今日はそれか?」
「今日は、アリシアとお話がしたくて来たのです。それに、先生にも聞きたい事があります」
「なんだ?」
クラウディウスは咳払いをした。切れ長の目に知的な光が宿る。
「先生は、憤怒の魔女に出会われたのですよね?」
「ああ」
「そして、戦われた」
「そうだ」
「実際に接触してみて、どういったご印象をお持ちになられましたか?」
「どういう意味だ?」
クラインは当惑したように眉を顰めた。魔女は魔女であり、邪悪な存在だということは皆が知っている。
「魔女は男だったという話ですが、彼はどうでしたか?」
「質問の意味が分からん。男であろうと魔女は魔女だ。邪悪であったよ」
「魔女が邪悪だったというのは、強力な魔力に対してですか? それとも性格に対してですか?」
「性格だと? あれは人外だ、性格など知らん」
クラインは戦場での魔女を思い返す。ただただ、邪悪な化け物だったという印象しかなかった。
「アステカさんはどうです? 貴方は学院でも憤怒の魔女と遭遇している」
何かに興味を持ったかのように顔を上げるアリシア。クラインはニコリと微笑みかけた。
「魔女は子供の姿になっておりました。恐らく我々を欺く為でしょうが、私はそれにまんまと騙されてしまった」
あそこで殺していれば事態は好転していたかも知れない。
アステカは悔しそうに拳を握りしめた。
「ほお、それはいったい何を欺く為なのでしょうね? 我々を欺いて学院に侵入し、魔女は何を考えていたのでしょうか?」
「それは……魔女の心中など私には計り知れず……」
「ただ邪悪なだけの化け物が、学院に潜入してお勉強などするでしょうか?」
「さっきから何が言いたいのだ、クラウディウス」
クラインはかつての弟子を睨みつけた。
クラウディウスは昔を思い出して少し動揺するも、すぐに気を取り直した。
「私は、憤怒の魔女をこちら側に引き込みたいと考えています」
クラインは呆気に取られて、ポカンと口を開けた。そしてすぐに、怒りで顔が赤黒く染まる。
「愚か者め……! 戯けた事を抜かすな! 魔女は迅速に処理して、この混乱を早く収めねばならぬのだ!」
「それは、どうやって?」
「早急に始末する! クラウディウス、貴様なら簡単に出来るであろう!」
「出来ません。あちらにはアリス・アスターシナが付いています」
「……誰だ、其奴は?」
「〈エルフ〉の大魔導師です。かつての四聖剣の一振り」
「な、なんだと!?」
四聖剣とは、勇者アノンと共に七人の魔女を撃退したといわれる伝説の四人であった。
クラインは絶句した。アステカも驚いて目を見開く。
「そもそも、今さら憤怒を始末したところで、事態の収集はつきません。強欲と怠惰が既に世に解き放たれているのです」
「し、しかし、憤怒をこちらに引き入れるなど不可能です。彼は我々の仲間を殺している。……そもそも、我々のことを敵だと認識しているはずです」
アステカは動揺しながらも、否定した。
「戦場での死は、仕方のない事だと私は考えています。私や先生とて戦場で他人の命を奪ってきた。それと、彼は我々を敵だと認識しているかもしれませんが、私は彼が話の通じぬ相手だとは思いません」
「戯けた事を! 奴がどれほどの〈ヒト〉を殺したと思っておる」
「学院での死人は出ていません。憤怒の魔女は子供を殺さなかった」
「……だからどうした? 奴は魔女だ」
「魔女だから何だと言うんです?」
クラインとクラウディウスは睨み合った。アステカは肩を縮こめる。
しばらく睨み合うと、クラウディウスはため息をついて、アリシアの方に向き直った。
「アリシア、彼の学院での印象はどうでしたか?」
「待て! その子はもう巻き込むな!」
クラインは立ち上がった。クラウディウスも立ち上がって、背の高いクラインを睨みあげる。
「先生、貴方は今、世界がどういう状態にあるのか分かっていないようだ。憤怒と強欲に加えて、神の力を持つという怠惰の魔女が失踪した。怠惰の魔女は魔力を通さない魔封石の牢獄から音も無く消えたんだ。しかも二度も。つまり奴には通常の縛りというものが効かない。これがどういう事か分かりますか?」
「我々で対処すれば良い! アリシアをこれ以上巻き込むことは許さん!」
「アリシアの力は必ず必要になる。そして、アリシアは憤怒の魔女と親しい間柄にあったと聞く。過保護もいい加減にして下さい!」
「ふ、二人とも落ち着いてください」
アステカは元師弟の険悪なムードに狼狽した。いつ乱闘が始まってもいいように身構える。
「ねぇ、ナツキはどうなるの?」
アリシアが小さな声を出した。三人はぴたりと動きを止めて、アリシアの方を向く。
「ナツキとは、ナツキ・アスターシナの事だね?」
クラウディウスは妹弟子に優しく微笑みかけた。
「ナツキ? ナツキとは誰の事ですか?」
アステカはナツキとやらに感謝した。二人の喧嘩が収まったようで、ほっと胸を撫で下ろす。
「ナツキ・アスターシナは、憤怒の魔女の学院での名前です」
「ええっ!?」
「まぁ、恐らく偽名でしょうが。……アリシア、君はナツキくんをどうしたいんだい?」
「謝りたい!」
アリシアはベットの上で身を乗り出した。
ああ、哀れなアリシア。
クラインは目に涙を滲ませた。
「……謝るとは? アリシアはナツキくんに何かしたのですか?」
「ナツキは、私たちが森の民を殺した事を怒ってた。泣いてた。どうして殺したのかって。ナツキは色んな言葉が喋れたから、色んな種族の人たちと仲が良かったんだと思うの」
「……そうですか。アリシアは、謝れば彼が許してくれると思いますか?」
「許されたいなんて思ってない! もう何もかも遅いかもしれないけど、とにかく謝りたいの!」
「……ふむ、さすがは我が妹弟子だ。では、謝りに行きましょうか」
クラウディウスはニッと笑った。アリシアも涙目で頷く。
「ちょ、ちょっと待ってください! 本当に憤怒の魔女を〈ヒト〉に引き入れるおつもりですか?」
アステカは尚も戸惑っていた。
「常に呪いが発動している強欲や怠惰をこちらに引き入れるのは、恐らく不可能です。まだ人の心が残っている憤怒の魔女が、一番可能性がある」
「ですが、この一連の魔女の失踪は黒幕がいるのでしょう? アリス・アスターシナという四聖剣の一人だった〈エルフ〉が」
「アリスが黒幕だという言い方は、少し違う気がします。もしも彼女が本当の黒幕であれば、とっくに全ての魔女が解き放たれているはずです」
「では、一連の魔女の失踪は誰の仕業で?」
「分かりません、初めは色欲の魔女ではないかと疑いましたが、どうにもしっくりと来ない。そもそも特定の黒幕などはおらず、不運が重なった天災だとも考えられます。……ともかく今我々がすべき事は、これ以上の魔女の失踪を防ぐ事と、憤怒の魔女を迅速にこちらに引き込む事です」
「……それで、ナツキは何処にいるの?」
アリシアは兄弟子を見つめた。憤怒の魔女は、アリスと共に何処かへ消えてしまったままだった。
「恐らく、呼べば来るでしょう」
クラウディウスは微笑んだ。
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