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第二章 魔法の世界

魔女の願い

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「私たち魔術師は魔法を扱えます。ですが、その魔法を操るためには呪文が必要です」
 上級魔術師アイシャ・フローレンスは勿体ぶるように言葉を止めると、広い教卓に両手をついた。ぴたりと身体に張り付いた黒い上下に、彼女のグラマーなラインが強調されている。
「では、何故、呪文が必要となるのか、分かる方は発言なさい?」
 アイシャは胸を突き出すように腰を折って、生徒たちを上目遣いに見つめた。長テーブルに座る女生徒たちは、ケッとあさっての方を向く。
「呪文を唱えることで、精霊を行使することが出来るからです!」
 教卓に一番近いテーブルに座ったギース・クリケットは、全身のバネを使って跳躍するように立ち上がった。出遅れた男子生徒たちは、悔しそうに席につく。春人も、ちっと舌打ちをして、席に腰を下ろした。
「正解。偉いわね、ギース・クリケット」
「はい! 当然であります!」
 今度は、長テーブルに腰掛けるギース以外の男子生徒が、ケッとあさっての方を向いた。
「私たちの周りには目に見えない精霊たちがいます。私たち魔術師が呪文を唱えるのは、その精霊たちを行使するためです。……ねぇ、貴方たち? その呪文には定型文ってあるのかしら?」
「ありません!」
 コイツ、怪物か? 
 またも出遅れた春人は、ギースのピンと張る背筋を呆然と見つめた。
「正解。ギースには後でご褒美をあげないとね」
 野次が飛び交う。鼻の下を伸ばすギース。その跳躍力を封じる為に、両隣に座る小柄なオリバーと、金髪で顎の長いアントワーヌがギースの広い肩を掴んだ。
「ギースの言う通り、呪文には、実は定型文がありません。魔法を操るのに大事なことは、精霊に伝わるように自身の霊気を呪文に込めて話すこと、ただ、それだけです。では、これから浮遊魔法の初歩を行います。各自、先ほど配られた羊皮紙以外は仕舞いなさい」
 浮遊魔法の初歩か……。
 春人は嫌な記憶を思い出して、心を落ち着かせようと首に下げた十字架のネックレスを握った。
 学院に編入する前に、もしも感情が爆発しそうになったらどうすればいいのかとアリスに尋ねた。すると、アリスは「祈ればいい」と答える。何にだよと聞くと「何にでもいい」と言うアリス。
 今まで宗教に何の興味もなかった春人は、何にどう祈ればいいか分からなかった。仕方なく、十字架を作ってもらい「南無阿弥陀仏」と祈る事にしたのだった。
「ナツキ、何してるの?」
 隣に座るアリシアが不思議そうに春人を見つめる。
「……あー、浮遊魔法だよ?」
 ナツキって名前なれねーな。
 春人は苦笑した。
「ちゃんと声に出さないとダメだよ」
「分かってるって…… "浮かべ"」
 羊皮紙は僅かに、端をピラピラと動かした。
 ダメだこりゃ、めんどくせー。
 春人は頭を掻いた。
 近接浮遊魔法は魔術の初歩の初歩らしい。これが出来ない落第者は、もはや魔術を習う資格がないとされた。
 春人たち四年生が習う科目に五大元素魔法がある。
 五大元素魔法は、空間魔法などの物理に影響を及ぼすような複雑な魔法ではなく、火などの元素を発生させる単純な魔法だった。
 その中でも、火や水、雷の発生は難しく中級魔法と呼ばれ、風や土は、初級魔法と呼ばれた。何故なら風や土は、その場にあるものを動かせばいいからである。この動かす魔法が移動魔法、さらに移動魔法の初歩が浮遊魔法だという。
 十歳の入学生が習う魔法である。
 生徒の大半は、浮遊魔法など朝飯前だと言わんばかりに紙をピラピラ浮かせて遊んでいた。中には浮遊魔法など阿呆らしいと羊皮紙に落書きしている生徒もいる。隣の天才少女は、やる必要のない浮遊魔法の初歩を律儀にこなしていた。
 あーあ、俺は昔から落第生だ。
 別に授業や成績などはどうでも良かった。だが、他人が当たり前に出来ることが出来ないというのは腹ただしい。
 天才さんも侮蔑の目をしてるんだろうな。
 勝手に腹が立った春人は、隣に座るアリシアを睨み付ける。だが、予想に反して、アリシアはポカンと口を開けたまま目を丸めていた。
「え? ナツキさ、今のって何語?」
「……あ? ルーク語とかいう奴だよ」
「ル、ルーク語って! それ〈エルフ〉の古代語だよ!? 私でも分からないよ!」
「へぇ、天才でも分からない事ってあるんだな。まぁ、まだ子供だし、しょうがねーか?」
「ナツキも子供だよ! ねぇ、なんでそんな難しい言葉使うの?」
「これ以外だと、全く反応しねーんだよ。……浮かべ」
 今度は普通に〈ヒト〉の言葉で命令する。だが、羊皮紙は微動だにもしない。
 阿呆らしいと、春人は羊皮紙を指で弾いた。それをアイシャは遠距離浮遊魔法で受け止める。
「こら! ナツキ・アスターシナ! 私の授業は真面目に受けなさい」
「これはこれは、申し訳ありません。麗しき貴方にどうしてもかまって貰いたく、子供のように、はしゃいでしまいました」
 春人はエメシスと呼ばれる〈ヒト〉の古代語で答えた。アイシャが得意とする言語である。
「ふふ、それなら構わないわ」
 アイシャは上機嫌に笑う。
 この世界に来た当初の春人には、言語の違いなど、全く分からなかった。だが徐々に各言語の違いが分かってくる。この学園に来て、文字を学び始めてからはそれが顕著に現れた。
 それにしても、馬鹿ばっかだなここは。
 目を細めて笑う春人。
 上級魔術師のアイシャ・フローレンスは自己顕示欲が高い。それはすぐに分かった。
 編入当時、春人はこの女から相当嫌われていた。恐らく春人が田舎の孤児院出身という設定だったからだろう。授業中にも露骨に虐められた。だが、春人はそれをほくそ笑んだ。嫌いであろうと好きであろうと、詐欺師だった春人に興味を持って話しかけてきた時点で、カモがネギを背負ってやって来たに等しい。
 春人は森の民の虐殺に関わった全ての〈ヒト〉を皆殺しにする事を目的に、学園での生活を我慢している。
 特に、リーリを殺した四角い顎の髭面。アイツだけは許さねぇ……。
 怒りに狂いそうになった春人は、十字架を握った。
 落ち着け、先ずは情報を集めが先だ。
 アイシャの様な馬鹿は一番扱いやすい。適当に褒めて、自尊心をくすぐってやればコロリと大人しくなる。情報を得るには持ってこいの女だ。
 それにしても、いい女だな。
 春人はアイシャの豊満な肢体を舐めるように見て、クックと笑う。
 ニヤけ顔の春人に、アリシアは侮蔑の表情を浮かべた。
 
 部屋に誰かいる。
 色欲の魔女アンナ・ジャコフスカヤは空間圧縮魔法の準備をした。
 側近でさえ夜間は、アンナの寝室のある城の最上階には出入り禁止だった。
 まさか〈ヒト〉では……? 
 アンナは腹の底から湧いてくる恐怖を抑えようと堪えた。
 東方のフィアラ大陸。かつての大戦で多くの種族を率いて〈ヒト〉を敗北寸前にまで追いやった、ルーア連邦共和国の魔女。私が〈ヒト〉ごときを恐れるなどあり得ない。
 アンナは胸を押さえて深呼吸をした。
「誰だ!」
 空間を圧縮しながら部屋の扉を蹴りあけたアンナは「あっ」と声をあげる。
 淡い水色の天蓋。桃色の壁。純白の豪奢なベットの上に腰掛ける中年の女性。
「お、お前は、怠惰の魔女オリビア・ミラー……?」
 間違いなかった。その顔と佇まいに面影があった。彼女は二十二年前に、一晩だけこの部屋を訪れていた。
 随分と老けたな。アンナは圧縮を止めて、オリビアに近づく。
 かつての艶やかな栗色の髪は薄くなり、頬には皺が寄っていた。腕や足は痩せこけている。
 アンナは聞きたいことが山ほどあった。
 怠惰の呪いを受けながらも動く意志のあるお前が、何故わざわざ牢獄に戻った。また牢獄を抜けてここに来たのは何故だ。今、世界はどうなっている……。
 だが、最も聞きたかった事は、この世界とは別にあった。
 それは彼女が二十二年前にここへ来た理由。呪いに逆らってまでユートリア大陸から脱出した理由。全てを見通す千里眼の瞳を呪いの代償に得た理由だった。
「……ねぇ、あなたの息子は元気なの?」
「ええ、もうすぐあの子に子供ができるの」
 オリビアは、ここでは無い何処かを見つめる、遠い目をした。
 二十二年前にオリビアがこの部屋を訪れたのは、手の届かない彼方で一歳を迎える愛する我が子の誕生日を見守るためであった。
 だったら牢獄で見守ればいい。 
 アンナは、言えなかった。
 既に何百年と生きているアンナは、幾人もの怠惰の魔女と出会ってきた。
 アンナにとって、怠惰の魔女が自らの意思で動いていることが驚異だった。
 いったいどれ程の意志を秘めているのか。アンナは興味を持った。
 そして何より、その時の彼女の姿はかつての自分と重なった。
 髪が乱れ、頬と目は青く腫れていた。血と体液で汚れ、あざだらけの素肌を晒すオリビアは、明らかに、牢獄で乱暴を受けていた。
「静かに、祝いたいの」折れた歯の間から漏れる彼女のささやかな願いを、黙って叶えてあげたアンナ。
「……そう、じゃあオリビアは、これからおばあちゃんになるわけね」
「ええ、少しの間だけ」
 オリビアは無表情で呟いた。
 どれほど嬉しくても悲しくても、彼女の感情は怠惰の呪いに阻害される。
 アンナは寂しそうに微笑んだ。
 

 
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