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第一章 七つの呪い
聖域と呼ばれる森
しおりを挟む西方と北方、二つの太陽が遥か上空から大地を見下ろす。激しい陽光は幾重にも交差して地上を暖めた。
春人は眩しそうに腕を掲げると辺りを見渡した。
森の中だった。樹木の幹は家かと思える程に太く立派だが、背は高くない。巨大な根は大地を隆起させ、木々の合間に広がる空からは日光が容赦無く降り注いだ。
ネズミほどの大きさの馬のような奇妙な生き物が春人の足元を通り過ぎる。三原色に彩る花々が辺りに咲き乱れ、水の湧き出る壺型の石の周囲を青い光沢を放つ小鳥が蜂の様に飛び回っていた。
俺は夢でも見ているのだろうか……。
目を凝らすと、木々の切れ間から泉が見えた。春人は呆然と周囲に目を凝らしながらそちらに向かっていった。
この場所に春人を送った雪のような少女の姿は無い。
あれも夢だったのだろうか。
春人は頬をつねってみた。痛い。
二つの太陽を見上げた春人は、止めどなく流れる汗を拭った。日本の夏とそれほど変わりない気温と湿度。変な夢だと、春人は首を傾げる。
泉に近づくと爽やかな冷気を肌に感じた。水の流れる細やかな音色が耳に心地良く響く。
それにしても、夢にしては意識がはっきりし過ぎているな……。
泉に辿り着くと、手を水面に浸す。透き通る冷水。底に沈む大木や小魚が宙に浮かんでいるかのような透明度。春人は水を掬って顔を洗った。
顔を冷やした春人は、小山のような木の根に腰掛けると、ぼーっと泉の向こうを眺めた。何処までも森は続いているようだった。
ここは地球じゃない。
春人は確かに自分が死んだことを思い返す。
ここが、あの世とやらなのかも知れない。だが身体があって暑さや冷たさを感じるのだから、別の世と考えるべきだろうか。別の世。別の世界。異世界。
あの少女は、俺が争いの続く世界に行くことになると言っていた。ここが、そうなのだろうか?
何処からか、何かが囀るような高い音が響き渡る。泉はゆらゆらと水面を揺らし、日光がシャンデリアのように鮮やかに反射した。
どうにも、争いとは無縁の世界の様だ。
惚けたように春人は水面の揺らめきを眺め続けた。気が付けば周囲に影が差している。
まずいぞ。
春人は慌てて立ち上がった。
こんな訳の分からない場所で無防備に夜を迎えるなんてどうかしてる。
春人は焦ったように周囲を見渡す。太陽は南に沈むもの一つだけとなり、夕焼けが森を紅く染めていた。
ああ、腹も減ってきた。いや、とにかく何処か身を隠せるようなところを探さないと。
春人は泉の周囲を回ろうと一歩踏み出した。
突如、右足に激痛が走る。
「ぐあっ」
春人は倒れ込んだ。慌てて右足を見ると、ふくらはぎを細い棒のようなものが貫いていた。
「あっ……ぐっ……」
痛みとショックで言葉を失った春人は、体を折り曲げたまま膝を掴んで呻くことしか出来ない。
ふと、背後に気配を感じた。春人は苦痛で顔を歪めながら、必死に後ろを振り向く。すると、夕日に紅く染まった、髪の長い女が此方を見下ろしているのが目に入った。歳は若そうだが、尖った耳と宝石の様な赤い瞳で人間ではない事が分かる。
「あ、あの……」
春人は絞り出すように声を出した。
先端を紐で縛った銀髪の女。麻を薄く編み込んだような簡素な服装から伸びる白い手足。こんな状況ながらも、春人の視線は女の白い太ももに下がってしまう。だがすぐに、女の左手に握られた弓が視界に入り、さっと春人の顔から血の気が引いた。
「〈ヒト〉がこの聖域で何をしている」
「えっ……?」
「何をしていると聞いているのだ」
女はゆっくりと、蔑むような口調で春人に問いかけた。
「あの、いえ……、僕にも、何が何だか、分からなくて……」
春人は玉のような汗を流しながら切れ切れに言葉を繋いだ。
「どのようにしてここに入った」
「あの、それは……」
返答を間違えれば殺されるかも知れない。
春人は痛みに耐えながら、どうすればこの場を乗り切れるかを必死に考えた。ありのまま、起こったことを話すのは馬鹿げている。だが嘘をつくには情報が足りない。
「あの、すいません……。ここは、いったい何処、なのでしょうか……?」
状況が何も分からない春人は、逆にこちらから質問を投げかける事で、この場を打開することに望みをかけた。
「何だと? 貴様、ふざけているのか! ここは我々、森の民以外は近づいてはならぬ聖域だ! どのようにしてここに入ったのかと聞いているのだ!」
森の民だという女は、背負った矢筒から短い矢を一本取り出すと、こちらに向けた。
「す、すいません……! ですが、本当に、分からないのです……。気づいたら、この場にいて……。僕は、どうしたらいいのか、分からず、水辺で、呆然と、していたのです」
「気づいたらこの場にいただと? そんな事があるものか! さあ、早くここに来た目的を言え!」
女はキッと口を結ぶと、弦を強く引いた。弓がくの字にへし曲がり、キリキリと弾くような音が聞こえてくる。
「ほ、本当なんです……! 僕にも、何が、何だか、分からないんです……。そ、そうだ、あ、あなたは、何か知りませんか……?」
「ふざけるな! 私が貴様の事など知るはずなかろう。訳の分からぬ事を申すな!」
「僕にも、訳が、分からないのです……。突然、気づいたら、このような、神聖な森の、中に、いて」
「……貴様は突然、ここに現れたと言うのか? そんな事あるはずが無かろう」
「ほ、本当なんです……。」
女は困惑したように眉を顰めた。だが弓を引く手は緩めない。
やはりこの女は俺を殺す気は無いようだ。
春人は苦痛で顔を歪めながらも、ほっと息を吐いた。殺す気ならば初めから胸か頭を狙うだろうし、律儀に質問などして来ないだろう。
「た、助けて、下さい……。僕を、この場所から、連れ出して、下さい……。それに、このままでは、神聖な森を、僕の、血で、汚してしまいます」
春人は哀れな弱者が甘えるような声色で女に懇願した。演技とは思えない声と表情。困惑した女は白い眉をひそめて肩の力を抜くと静かに弓を下ろした。
「汚してしまうなどと……。貴様、本当に〈ヒト〉か? ここに来る前に何をしていたのだ?」
「いえ……、ほ、本当に……、わ、分からなくて……」
春人はあの少女の話をしようかと悩んだが辞めた。
余計なことは言わない方がいいだろう。それよりも、体が凍えるように寒くなってきた。……まさか、毒が塗ってあったのか?
春人は苦痛に顔を歪めながら、ふくらはぎに刺さった矢を見つめる。ズボンの上からでもわかるくらいに腫れ上がっており、絶え間ない激痛が骨を伝って全身を襲った。
「た、助けて下さい……」
薄れゆく意識の中で、春人はそっと体に触れる女の温もりを感じた。
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