上 下
232 / 371
【第五部:聖なる村】第六章

奇襲

しおりを挟む
 しまった!

 腰の剣に手を伸ばしながらすぐさま部屋に戻ったエルシャが見たのは、暗闇の中に浮かぶ男の影が、寝ているハルに向かっていく姿だった。破られた窓から差し込む月光に照らされて、その右手に短い刃物が握られているのがわかる。大きな物音で目を覚ましたラミが、ゆっくりと頭をもたげた。

「やめろ!」

 エルシャが剣を抜くのと、エルシャに気づいた男がすぐそばのラミに素早く腕をかけて引き寄せるのは、ほぼ同時だった。

「動くな! 動いたら子供が死ぬぞ」

 男は短剣を持った右手をラミの首に絡ませ、じりじりとハルの寝台へ近づいていく。ラミは暗闇の中、何が起きているのかもわからず引きずられるままに男の懐に引き寄せられた。

「エルシャ……? エルシャ、どこ……?」

 呻くようなか細い声が漏れる。男の腕が首を締めつけ、苦しそうな息遣いだ。エルシャは努めて落ち着いた声でいった。

「ラミ、俺はここにいる。大丈夫だ、そのまま動かずじっとしていろ。大丈夫だ」
「エルシャ……苦しい……」

 泣き出しそうな声だ。男は刃をラミの首に当てているが、ラミからは見えない。男はエルシャの動きが止まったのを確認してからいった。

「剣を置け」

 エルシャは抜いた大剣をゆっくり床へ置いた。

「動くなよ……」

 男は起きる気配のないハルの横に立つと、右腕でラミを押さえたまま、左手を静かにハルの首元へ伸ばした。暗がりで、その手が喉元を押さえ込み、ハルはやや苦し気にわずかに身をよじらせた。その瞬間、エルシャは全身の血が沸騰したかのような灼熱感に襲われた。

「……きさま、何を……」

 エルシャが声を絞り出す。熱く汗ばんだ手のひらが痺れたのように感覚を失っていく。

「動くな。こんな死にぞこないより、可愛い女の子のほうが大事だろう?」
「エルシャ……怖いよぅ……」

 ラミのすすり泣く声が聞こえる。エルシャは震える両手を握りしめた。

 なんてことだ……奴らは、かけらを持っているハルを、殺しに来たんだ……。どうすれば……いったいどうすれば――!

 心臓が早鐘を打つ。二人を同時に救うことはできない。それどころか、二人とも失う可能性がある。現に今目の前で、ハルの命が奪われようとしている。抗うかのようにわずかに蠢いていたハルの四肢が徐々に力を失い、やがて動かなくなったそのとき、階下から大きな物音と叫び声がした。

「エルシャ!! 大丈夫!?」

 窓の割れる音で異変に気づいた二軒先のディオネたちが駆けつけたのだ。その騒ぎで一瞬目を逸らしナイフを持つ手の緩んだ男に向かって、エルシャは考えるより先に飛び出していた。無我夢中で、体当たりのごとくラミへと手を伸ばす。その小さな体に覆いかぶさるように腕を回した。ほぼ同時に、背中の左側に何かの衝撃を感じたが、エルシャはとにかくラミを抱きかかえたままその勢いで男に体をぶつけていった。三人はもつれながらその場に転倒し、エルシャは短剣らしきものが床に転がる音を聞いた。

「ラミ! 大丈夫か!?」

 腕の中のラミの顔を確認する。ラミは顔中を涙で濡らしながら、引きつった顔で小さく首を縦に振った。エルシャの下敷きになるような形で倒れた男は、素早く体勢を立て直すと床に落ちた短剣を拾った。そしてハルに向き直った瞬間、寝室の扉から勢いよくディオネたちが入ってきた。

「エルシャ!? ラミもいるの!?」

 暗がりで状況がすぐには把握できない。男はディオネを一瞥すると、ためらいなくハルから身を引き侵入してきた窓から飛び降りるようにして逃げていった。

「誰!?」

 エルシャだと思っていた人影が侵入者だったと気づき、ディオネも慌てて窓際へ駆け寄る。男は裏の路地に転がり落ち、立ち上がろうとするところだった。

「あいつ、逃がさない!」

 足場を見つけて窓から追いかけようとするディオネを、ナイシェが大声で制した。

「姉さん!! エルシャが……!!」

 振り返ると、床に座り込んで大声で泣くラミの横に、エルシャがうつ伏せで倒れていた。エルシャはぴくりとも動かず、横たわった床には、暗闇でもわかる染みのようなものが広がっていた。

「エルシャ……!?」

 駆け寄りその体に触れると、生温かいぬるりとしたものがディオネの手を汚した。色がわからなくても、それが血であることは臭いでわかった。床を見ると、染みは明らかにその範囲を増していく。

「エルシャ! しっかりして!」

 ナイシェが叫びながら傷口を探す。フェランはエルシャの首に指を当てた。脈はあるが、ひどく弱い。口元は浅く速い呼吸を繰り返している。

「だめよ、全然止まらない!」

 何とか腰の傷口らしき場所を両手で押さえるが、血はその手を覆うように溢れてきた。

「医者を! あの医者を呼んで――」

 ディオネの言葉に、フェランが即答した。

「だめです、この出血では間に合いません……!」
「じゃあどうすればいいの!? 白魔術を使える人はいないし、怪我を治せる力もない!」

 ナイシェが泣き叫ぶ。フェランは必死に考えた。白魔術は使えなくても、これだけサラマ・アンギュースがいれば、何かできることがあるはずだ。
 はっとして、フェランはエルシャの首元に見えたペンダントを引きちぎった。

「かけらを……神のかけらを、埋めれば……!」

 ペンダントを開き、中から小さなかけらを取り出す。以前コクトーに連れられて訪れた山小屋で、彼の祖父から譲り受けた、記憶のかけらだ。

「かけらを埋めれば、神の力が働いて傷が塞がる。そうでしょう!?」

 フェランが急いで傷口をまさぐる。

「でも、かけらは人を選ぶって……それに、そのかけらを埋めた人間はみんな、記憶の重みに耐えかねて気がふれてしまうって……!」

 ナイシェがうろたえたが、ディオネが遮るように叫んだ。

「じゃあほかに手はある!? やらないと、エルシャは死ぬんだよ!」

 ナイシェがびくんと体を震わせる。

「悩んでる暇はないんだ。エルシャを信じて、かけらを埋めよう! エルシャなら、かけらにも選ばれるし、神の記憶にも耐えられる!」

 ナイシェは泣きながらうなずき、傷口を探した。腰の左側に、刃物で刺されたようなくぼみを探り当てる。フェランがその傷口深くにかけらを押し込んだ。どくどくと溢れる血で、三人の手が赤黒く染まる。かけらを入れると、その上から布で力いっぱい押さえ込んだ。皆無我夢中で、エルシャの背中を押さえていた。出血が多すぎて、血が出続けているのかどうか、まったくわからなかった。ただ、止まれという一心で押さえ続けていた。

 気がつくと、空が白んでいた。ディオネの代わりに男を追っていたルイが戻ってきた。

「ダメだ……男は見失ってしまった……。エルシャは、どうなんだ?」

 ルイの声で、三人は我に返った。昇りかけた太陽の光で、次第に心室が明るくなってくる。さっきまで黒と灰色しかなかった世界は、赤黒い血だまりに横たわるエルシャの姿と、それを取り囲むフェランたちの真っ赤に染まった腕や服の、生々しい対比に変わった。
 ルイは一瞬言葉を失った。

「彼は……生きているのか……?」

 フェランがはっとして傷口から手を放し、再びエルシャの首に当てた。弱々しい脈を感じる。口元に顔を近づけると、わずかながら息をしているのが感じ取れた。恐る恐る傷口の血を拭うと、綺麗に塞がった線状の傷跡が現れた。出血は、止まっていた。

「……塞がった……」

 ナイシェが呟く。

 エルシャは、かけらに選ばれたのだ。神のめいを受け、サラマ・アンギュースを探す神官が、選ばれるべくして、神のかけらに選ばれたのだ――。
しおりを挟む

処理中です...