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【第五部:聖なる村】第一章
歌の続き
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その日の夜も酒場へ駆り出されたディオネは、不満を隠せずにいた。
「だからってさあ、なんであたしまで三日続けて通いつめなきゃいけないわけ?」
「男っていうのは、同じ男よりも女のほうに油断するもんだ。それに、俺たちよりディオネのほうがこういう街での生き方は得意だろ? カウンターのお姉さんからも、もっとコクトーの話を聞き出してくれよ」
「それが聞き出せれば苦労はしないよ」
そこまでいって、ちらりと隣のフェランを見やる。フェランは氷だけになったグラスを片手でもてあそびながら、うつろな目で何やら鼻歌を歌っている。よく聞いてみると、昨日コクトーが演奏した例の歌のようだ。
「こいつも昨夜からずっとこの調子だし。あの曲にそんなにはまっちゃってさ、情報収集する気あんのかしら」
そんなディオネをたしなめつつ、エルシャは奥の舞台を指さした。
「まあそういわずに、今夜もコクトーの舞台が始まるぞ」
三日目ですっかり飽きてしまった様子のディオネを横目に、エルシャは今夜も小さな舞台で弦を鳴らすコクトーを見つめていた。
彼は、何かを隠している。ティルセロに関する、そしてサラマ・アンギュースに関する何かを。
彼の怯えたような苛立ったような態度は、いつかハーレルに出会ったときのそれと似ていた。何か恐ろしいことに巻き込まれるのではないかという恐怖と、それに対する自己防衛としての威嚇的な姿勢。ハーレルは結局完全には心を開かないまま姿を消してしまったが、今度こそ、コクトーが心を許すまで、エルシャはいくらでも食い下がるつもりだった。
いつものように数曲演奏したあと、コクトーは舞台の上で客の要望を察知して引き返せなくなっていた。
「昨夜は歌ってくれたじゃないか」
「覚えてないなら歌なしでもいいからさ、あの曲だけでも聞かせてくれ」
昨日弾いて今日弾かない理由はない。コクトーは渋々といった体で楽器を構え直した。しかし、困った顔でひとつふたつ咳ばらいをし、ふとあたりを見回してカウンターにエルシャたちの姿を見つけると、その表情は途端に険しくなった。
「……本当に、歌は無理だから、曲だけ……」
視線を落としたままそういうと、コクトーは指を動かし始めた。昨夜聞いた、あの曲だった。酒場が不思議なほど静まり返り、客は各々、目を閉じたり少しずつグラスを傾けたりしながらその曲に聞き入っている。先ほどまで口うるさかったディオネも、さすがに今はおとなしくしている。
昨夜のようにその曲は静かに滑り出し、昨夜と違って歌声を乗せないまま進んでいった。音色だけでも充分に美しいが、一度あの旋律を聞いてしまうと、歌なしでは何となく物足りなく感じる気もする。と、そのとき、エルシャの耳にか細い歌声が聞こえてきた。コクトーのものではない、弱々しい歌声。アルム語ではない言葉を紡ぎながら、コクトーの伴奏に乗せて昨夜の旋律を歌っている。声の主を振り返ると、それはフェランだった。左手に持ったグラスは微動だにさせず、目を閉じて呟くように歌っている。弱々しかった歌声は、徐々にしっかりしたよく通る声となっていき、やがて酒場の客がざわつき始めた。
「誰だ?」
「誰が歌っているんだ?」
その透き通った歌声は、やがてコクトーの耳にも届いたようだった。弦を弾く指の動きこそ変わらなかったが、驚きを隠せない表情で、誰が歌っているのかとあたりを見回している。その視線の先はやがてフェランの姿を捉えて止まったようだった。音楽は、気づかぬうちに、昨日の触りの部分を超えて演奏されていった。しかし不思議なことに、フェランの唇は淀むことなくその続きを紡ぎ出した。一度も聞いたことのないはずの歌を、滑らかに口ずさんでいた。
やがてコクトーの音楽が終わりを告げると同時にフェランの歌声も止まり、一呼吸の間があってから、酒場は大きな拍手と口笛に包まれた。
「ようよう兄ちゃん、あんたよく覚えてんなあ!」
「やっぱりいい歌だよ、ティルセロを思い出すなあ」
突然沸きあがった歓声で初めてフェランは我に返ったようだった。頬を薄く赤らめながら居心地悪そうにきょろきょろしている。すると、横で聞いていたディオネが肘でフェランを小突いた。
「ちょっとあんた! 歌えるのに黙ってたなんて水臭いんじゃないの?」
フェランは驚いたように首を振った。
「いえ、本当に昨日は思い出せなかったんです。今日は何だか、気がついたら歌えていて……」
しかし、いい終えないうちに店の女や客たちが次々に話しかけてきた。
「あんた見かけない顔だと思ってたけど、前にも来たことあったっけ?」
「あんな聞き慣れない言葉をよく覚えられるねえ」
すっかり右往左往しているフェランの腕を、エルシャがぐいと引っ張って席を立たせた。
「何年か前にどこか別の町で聞いたんだよな? さて、酒も回ってきたしそろそろ行くぞ」
エルシャは手早く会計を済ませると、まだ興奮冷めやらぬ酒場の人の間を縫って店を出た。
外へ出ると途端にあたりは静かになり、暗い闇と涼しい夜風が三人の落ち着かない心を鎮めていく。走ったわけでもないのに呼吸が乱れ、三人はとりあえず息を整えるため別の路地に入った。しばらくして始めに口を開いたのはエルシャだった。
「……俺の記憶が正しければ、昨夜聞いた以上のものを、おまえは歌っていたようだったが」
ディオネも付け足す。
「しかも、やたら難しい歌詞なのにすらすら歌ってた!」
そういわれたフェラン自身も戸惑っていた。
「自分でもよくわかりません……気がついたら口ずさんでいて。よく覚えていないのですが、たぶん、知っている歌なんだと思います。いつ聞いた曲かはわかりませんが、たぶん……」
しかし、今までコクトーやティルセロとまったく接点のなかったおまえが、なぜ二人の歌を知っているんだ?
エルシャがそう聞こうとしたとき。
「なぜ、おまえが歌えるんだ?」
背後で男の声がした。それは、先ほどまで酒場で演奏していたコクトーだった。
「だからってさあ、なんであたしまで三日続けて通いつめなきゃいけないわけ?」
「男っていうのは、同じ男よりも女のほうに油断するもんだ。それに、俺たちよりディオネのほうがこういう街での生き方は得意だろ? カウンターのお姉さんからも、もっとコクトーの話を聞き出してくれよ」
「それが聞き出せれば苦労はしないよ」
そこまでいって、ちらりと隣のフェランを見やる。フェランは氷だけになったグラスを片手でもてあそびながら、うつろな目で何やら鼻歌を歌っている。よく聞いてみると、昨日コクトーが演奏した例の歌のようだ。
「こいつも昨夜からずっとこの調子だし。あの曲にそんなにはまっちゃってさ、情報収集する気あんのかしら」
そんなディオネをたしなめつつ、エルシャは奥の舞台を指さした。
「まあそういわずに、今夜もコクトーの舞台が始まるぞ」
三日目ですっかり飽きてしまった様子のディオネを横目に、エルシャは今夜も小さな舞台で弦を鳴らすコクトーを見つめていた。
彼は、何かを隠している。ティルセロに関する、そしてサラマ・アンギュースに関する何かを。
彼の怯えたような苛立ったような態度は、いつかハーレルに出会ったときのそれと似ていた。何か恐ろしいことに巻き込まれるのではないかという恐怖と、それに対する自己防衛としての威嚇的な姿勢。ハーレルは結局完全には心を開かないまま姿を消してしまったが、今度こそ、コクトーが心を許すまで、エルシャはいくらでも食い下がるつもりだった。
いつものように数曲演奏したあと、コクトーは舞台の上で客の要望を察知して引き返せなくなっていた。
「昨夜は歌ってくれたじゃないか」
「覚えてないなら歌なしでもいいからさ、あの曲だけでも聞かせてくれ」
昨日弾いて今日弾かない理由はない。コクトーは渋々といった体で楽器を構え直した。しかし、困った顔でひとつふたつ咳ばらいをし、ふとあたりを見回してカウンターにエルシャたちの姿を見つけると、その表情は途端に険しくなった。
「……本当に、歌は無理だから、曲だけ……」
視線を落としたままそういうと、コクトーは指を動かし始めた。昨夜聞いた、あの曲だった。酒場が不思議なほど静まり返り、客は各々、目を閉じたり少しずつグラスを傾けたりしながらその曲に聞き入っている。先ほどまで口うるさかったディオネも、さすがに今はおとなしくしている。
昨夜のようにその曲は静かに滑り出し、昨夜と違って歌声を乗せないまま進んでいった。音色だけでも充分に美しいが、一度あの旋律を聞いてしまうと、歌なしでは何となく物足りなく感じる気もする。と、そのとき、エルシャの耳にか細い歌声が聞こえてきた。コクトーのものではない、弱々しい歌声。アルム語ではない言葉を紡ぎながら、コクトーの伴奏に乗せて昨夜の旋律を歌っている。声の主を振り返ると、それはフェランだった。左手に持ったグラスは微動だにさせず、目を閉じて呟くように歌っている。弱々しかった歌声は、徐々にしっかりしたよく通る声となっていき、やがて酒場の客がざわつき始めた。
「誰だ?」
「誰が歌っているんだ?」
その透き通った歌声は、やがてコクトーの耳にも届いたようだった。弦を弾く指の動きこそ変わらなかったが、驚きを隠せない表情で、誰が歌っているのかとあたりを見回している。その視線の先はやがてフェランの姿を捉えて止まったようだった。音楽は、気づかぬうちに、昨日の触りの部分を超えて演奏されていった。しかし不思議なことに、フェランの唇は淀むことなくその続きを紡ぎ出した。一度も聞いたことのないはずの歌を、滑らかに口ずさんでいた。
やがてコクトーの音楽が終わりを告げると同時にフェランの歌声も止まり、一呼吸の間があってから、酒場は大きな拍手と口笛に包まれた。
「ようよう兄ちゃん、あんたよく覚えてんなあ!」
「やっぱりいい歌だよ、ティルセロを思い出すなあ」
突然沸きあがった歓声で初めてフェランは我に返ったようだった。頬を薄く赤らめながら居心地悪そうにきょろきょろしている。すると、横で聞いていたディオネが肘でフェランを小突いた。
「ちょっとあんた! 歌えるのに黙ってたなんて水臭いんじゃないの?」
フェランは驚いたように首を振った。
「いえ、本当に昨日は思い出せなかったんです。今日は何だか、気がついたら歌えていて……」
しかし、いい終えないうちに店の女や客たちが次々に話しかけてきた。
「あんた見かけない顔だと思ってたけど、前にも来たことあったっけ?」
「あんな聞き慣れない言葉をよく覚えられるねえ」
すっかり右往左往しているフェランの腕を、エルシャがぐいと引っ張って席を立たせた。
「何年か前にどこか別の町で聞いたんだよな? さて、酒も回ってきたしそろそろ行くぞ」
エルシャは手早く会計を済ませると、まだ興奮冷めやらぬ酒場の人の間を縫って店を出た。
外へ出ると途端にあたりは静かになり、暗い闇と涼しい夜風が三人の落ち着かない心を鎮めていく。走ったわけでもないのに呼吸が乱れ、三人はとりあえず息を整えるため別の路地に入った。しばらくして始めに口を開いたのはエルシャだった。
「……俺の記憶が正しければ、昨夜聞いた以上のものを、おまえは歌っていたようだったが」
ディオネも付け足す。
「しかも、やたら難しい歌詞なのにすらすら歌ってた!」
そういわれたフェラン自身も戸惑っていた。
「自分でもよくわかりません……気がついたら口ずさんでいて。よく覚えていないのですが、たぶん、知っている歌なんだと思います。いつ聞いた曲かはわかりませんが、たぶん……」
しかし、今までコクトーやティルセロとまったく接点のなかったおまえが、なぜ二人の歌を知っているんだ?
エルシャがそう聞こうとしたとき。
「なぜ、おまえが歌えるんだ?」
背後で男の声がした。それは、先ほどまで酒場で演奏していたコクトーだった。
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