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【第五部:聖なる村】第一章

ティルセロの歌

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 しんと静まり返った路地裏で勝手口の様子を見張っていると、しばらくして、小さな手荷物と楽器の入った袋を手に、コクトーが出てきた。

「突然申し訳ないが、君がコクトーだね」

 エルシャが近づくと、コクトーは怪訝な目つきで三人を見やった。

「……何の用だ?」

 低く抑揚のない声でそう答える。足は止めたものの、その表情には警戒心が満ちていた。少しでも話を聞いてもらおうと、今度はディオネが前に出た。

「あたしたち、怪しいもんじゃないのよ。ただちょっとだけ、話が聞きたくて。ティルセロ・ファリアスって、あなたの仕事仲間だったでしょ?」

 ディオネの意に反して、ティルセロの名はさらにコクトーを警戒させたようだった。コクトーは眉間にしわを寄せて踵を返した。

「ティルセロの話なら、アルマニア宮殿から来た奴らにも充分話した! 俺はティルセロとは一緒に仕事をしていただけで、他は何も知らないんだ! 君たちが何者かは知らないが、俺には関わらないでくれ」

 宮殿の役人が聴取した内容については、エルシャも書類に目を通していた。コクトーはティルセロと四年前から組んでおり、この酒場で働き出したのは二年ほど前からだという話だ。四年の付き合いなのに何も知らないわけはない。殺人事件の巻きぞいが嫌で語ろうとしないのか、少なくとももっと聞き出せることはあるはずだ。

「コクトー、聞いてくれ。俺たちが信用できないのは当然だ。できれば、俺たちが何者で、なぜ君にこんなことを尋ねているのか、説明させてくれないか」

 しかし、コクトーはエルシャの訴えにはまるで耳を貸さず、背を向けて歩き出した。

「そんなことには興味ない。悪いが、俺は何の役にも立てないから帰ってくれ」

 まさに取り付く島もないといった様子で、コクトーは酒場をあとにした。暗闇に紛れて消えていったコクトーの残影を、三人は言葉もなく見つめるしかなかった。






 こっぴどくふられても、ティルセロ・ファリアスが神の民へ近づく手がかりかもしれない以上、コクトーに協力してもらうしかなかった。三人はコクトーから情報が得られるまで、何度でも酒場へ足を運ぶつもりだった。
 次の日の夜も、三人は同じ時間に酒場のカウンターに座った。

「あらあんたたち、また来てくれたの?」

 昨夜と同じ女が明るく飲み物を差し出す。

「さてはあれね、あたしがいったとおり、コクトーの音楽に惚れ込んじゃったのかしら?」

 おどける女にフェランがうなずく。

「すばらしい演奏でしたよ。あんなに人気もあるのに、本人には欲がないというのが、もったいない気もします」
「まったくだよねえ。町の連中はもっとずっと彼の音楽を聴いていたいんだけどね、何でも近いうちに実家の仕事を継ぐとかで、音楽で生計を立てる気はないらしいんだよ。あの才能が埋もれてしまうと思うとね、もったいないねえ」
「実家の仕事?」
「詳しくは知らないけど。彼、この町の住人じゃないんだよ。出稼ぎに来てるというか」

 そう話しているうちにも、奥の壇上にはいつものようにコクトーが現れて演奏を開始していた。昨夜とは違う曲目のようだ。ほかの酒場とは違い、コクトーの演奏が始まると客のほとんどは話すのをやめ静かに聞き入っている。確かに、飲み屋の背景として埋もれてしまうにはあまりある魅力が彼にはあった。
 昨夜のように二、三曲演奏したところで、客の声が上がった。

「コクトー、例のやつやってくれよー。やっぱりあれが最高なんだよ」

 コクトーが困ったように笑う。客の歓声は毎晩のことなのだろうか、カウンターの女が客をたしなめるようにいう。

「もう勘弁してあげてよ、彼だって辛いんだからさ。ティルセロとの思い出の曲になっちゃったんだから」

 しかし、酒も入り気が大きくなっている客たちには効かなかった。

「俺たちもよう、ティルセロが恋しいさ! だからこそ、この歌をなくしちゃいけないんだよ。姉ちゃんもわかるだろ? あの歌は史上最高なんだ!」

 最後のほうは呂律が回らなくなっており、酒場の女は諦めたように肩をすくめた。そのうち、誰からともなくコクトーの名を呼ぶ掛け声が湧き上がり、客たちは手拍子をしながら口々にコクトーの名を叫んだ。その騒ぎに、さすがのコクトーも昨夜のように無言で退散することはできなくなったようだ。弱々しい声で一言だけ、こう応えた。

「……俺は、歌はうまくないんだ」

 しかし客は構わなかった。

「それでもいい! 聞かせてくれ」
「あの歌を忘れたくないんだよ」

 さらに湧き上がる拍手に、コクトーは居心地悪そうに何度か椅子に座り直したあと、ゆっくりと楽器を構えた。客たちが徐々に静かになっていく。

「……本当に、歌えないんだ。俺は伴奏専門だから……」

 呟くようにそういうと、コクトーはひとつ控えめな咳ばらいをして、まだためらいある手つきで弦を鳴らし始めた。音程を確かめるようにいつくかと音を出したあと、今度は滑らかな手つきで流れるように音色を奏で始めた。いつの間にか、酒場は水を打ったように静まり返っていた。
 流れ始めた音楽は、エルシャたちが初めて聞くものだった。コクトーの指の持つしなやかさ、繊細さ、そして力強さが巧みに生かされた、やさしい音色だった。ゆっくりと木々の間をそよぐ風のような旋律に乗せて、やがてコクトーがぎこちない歌声で歌い始めた。それはアルム語ではない言葉で、確かに不安定な歌声だったが、なぜか自然と心に入り込んでくる不思議な曲だった。いつの間にか、エルシャも目を閉じて聞き入っていた。しかし、その心地よさもつかの間だった。コクトーは触りの部分だけ歌うと、すぐ手を止めて立ち上がった。

「ここまでしか覚えていないんだ。すまない」

 突然無理やり夢から醒まされた客たちは口々に不平をいい出したが、今度こそコクトーはうつむいたまま足早にその場を去ってしまった。あっという間の出来事に、エルシャたちは言葉を失ってその後ろ姿を見送るしかなかった。しばらくして、酒場の女が独り言のように呟いた。

「……まったく、せっかくあの歌が聞けると思ったのにね、お客も怒っちゃったじゃないか」

 その言葉に我に返ったエルシャだったが、隣のディオネがエルシャの腕を掴んで耳打ちした次の言葉に、更に驚かされることになった。ディオネは顔を近づけ、小さな声で、しかしはっきりといった。

「今の歌、古語とやらじゃない。あれはナリューン語だよ!」
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