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【第五部:聖なる村】序章

拷問

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 そこは、じめじめとした空気がゆっくりと流れる、石畳の部屋だった。いや、部屋ではないのかもしれない。彼はもう数週間以上その場所から動いておらず、もはやひとつの小さな部屋なのか、どこか遠い場所の人知れない洞窟の奥なのかすらわからなくなっていた。
 彼は自分の前に人の気配を感じたが、重たい瞼を持ち上げようとすると右目に沁みるような痛みが走り、目を開けることができなかった。

「……どうしてもいわないのか?」

 前に座っている男の声だ。問われても、彼は口を開かなかった。疲れ切っていて、口を開く気にもならなかった。

「強情になっても意味がないぞ。いえば解放してやるといっているんだ。なぜいわずにいられるんだ?」

 半ば苛立ちも混ざったようなその問いかけに、彼も自問した。

 そうだ、なぜいわない? いったところで僕には何の損もないじゃないか。両瞼はひどく腫れていて、後ろ手に縛られた両腕の先はもう感覚がない。体のあちこちが痛み、傷口は時折流れ込む汗に悲鳴を上げる。ここまでされて、なぜ僕は何もいわないんだ?

 しかし、意を決して口を開こうとするそのたびに、彼の脳裏にひとりの女性が浮かび、彼は思いとどまるのだ。そもそもなぜ自分がこんな状況に置かれているのか、彼らの聞き出したいことがどれほど重要なのかさえ、彼にはわからなかった。それでも、彼が口を開くことは、その女性への裏切りになるような気がしてならなかった。

「……自分の命を捨ててまで守るべきものなのか、よく考えるんだな」

 男はそういい残して去っていった。再びその空間に静寂が訪れ、彼は終わることのない苦しみにいっそ発狂してしまいたいとすら思うのだった。
 
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