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【第四部:神の記憶】第六章
リキュスの秘密
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その日の朝は、久々に快い寝ざめを迎えた。薄いレースカーテンを通して軟らかい日差しを送り込む朝陽を、リキュスは寝台の上からしばらく眺めていた。幼少時代の夢を見るのは数年ぶりだった。それも、母親が死んだ日の夢を見るのは。覚めているときでも、思い出すことはまずないのに……いや、だからこそ夢に見るのだろうか。
リキュスはゆっくりと身を起こした。穏やかな気持ちだった。母親の温かさを思い出したからかもしれない。リキュスは我知らずため息を漏らした。
母ナキアは、誰よりも温かくまっすぐな人間だった――宮殿には、そぐわないほどに。父アルクスの出張先で二人は知り合い、アルクスは、ナキアが一庶民の娘であるにも関わらず、彼女を心から愛した。宮殿には、すでに妻であるリニアと五歳になる息子のエルシャがいたが、アルクスはためらうナキアを説得して宮殿へと招いたのだった。リニアは、夫が町から連れ帰った女性を拒むほど度量の狭い妻ではなく、突然の環境の変化に戸惑うナキアをやさしく導いたほどだった。しかし、周囲の見方は違った。宮殿の者のほとんどは、ナキアがアルクスをたぶらかしまんまと宮中に入り込んだのだと話していた。やがてアルクスとナキアの間に息子のリキュスが生まれ、リキュスは両親からはもちろん、リニアと義兄であるエルシャからも実の家族のように扱われた。実際に、リニアとエルシャはこう考えていた――自分が愛する人の大切な人ならば、それは自分にとっても同じ、と。アルクスは、惜しみない愛をナキアにもリニアにも同じように注いだ。不思議なことに、ひとりの男性が二人の女性を同時に愛せるということを、彼はその行動で示していた。リキュス自身も、漠然とそれを理解していた。その気持ちは、母ナキアの死後も、そしてリニアの死後も、まったく揺るぐことはなかった。
自分が今、国王でいられるほどの支持を得られたのは、ひとえにリニアとエルシャのおかげだった。二人は、常に宮殿中の者から尊敬と敬意の目で見られていた。母の死後、二人が自分により愛情深く接してくれたおかげで、自分に対する人々のまなざしが徐々に変わっていったのだ。
着替えを終えたころ、扉を叩く音がした。外から侍女の声が告げる。
「おはようございます、国王陛下。たった今、テュリス様、エルシャ様が宮殿のほうへお戻りになりました」
「兄上が?」
「はい。一時的な滞在と聞いておりますが、同伴の方に病人がいらっしゃるとのことで、ただ今部屋をご用意しております」
「そうか。では、医師の手配もするように」
「かしこまりました」
侍女が去ったあと、カーテンを開いて暖かい朝陽を招き入れる。そのとき、突然胸に激しい痛みを覚えた。思わず膝をつき、窓辺に手をかける。動機がどんどん速くなる。リキュスは目を見開いて懸命に深呼吸をした。目を閉じれば、次に開けたとき同じ場所にいるかどうか不安でたまらなかった。しばらくして、動悸も痛みも治まってくると、リキュスあ大きくため息をついてゆっくりと立ち上がった。
発作はひどくなるばかりだった。何度かは気を失い、気づいたときは違う場所にいた。幸い、人前で倒れたことはないが、それでもこの体のことが他人に知られるのは時間の問題だと思った。
……何に代えても、隠し通さなければ。
リキュスは大きく息をついて、部屋を出た。
アルマニア宮殿に到着したときには、メリナは憔悴しきっていた。朝食をとる元気もなく、客室へ着くとすぐ医師の診察を受けた。しかし医師の見立ては極度の疲労であり、いくつかの薬と休眠以外に治す方法はないというものだった。
「そんなことだろうと思ったわ」
メリナはそう自嘲した。結局、朝食の間はフェランがついていることとなった。ラミは母親のもとを離れたがらなかったが、ナイシェが説得して連れ出した。
「あの娘も、うすうす気づいてるのかしら」
娘が出ていったあと、メリナはいった。フェランは何も答えない。
「……あんたには迷惑をかけるね。……ここなんでしょう?」
フェランは今度も何もいわなかったが、代わりにわずかにうなずいた。メリナはそれを見てため息をつく。
「……約束、忘れないでね。あんたには酷なことだと思うけど……」
フェランは首を振った。
「いえ……それが、あなたの望みなら」
そして、懐から小さな紙袋を取り出した。
「頼まれたものです」
中には、手のひらほどの大きさの小さな布と革の紐、そして針と糸が入っていた。メリナは満足そうにうなずいた。
「ちょうどいいわ、ありがとう」
フェランは息苦しさを覚えた。小さく首を振ると、フェランはメリナの白い手を握った。
「……すみません」
メリナが笑う。
「どうして謝るの。あたしは感謝してるのよ。あんたのおかげで、後悔しなくて済むんだから。いってくれたあんたの勇気に、感謝してる」
そしてメリナは、やさしくフェランを抱擁した。
リキュスはゆっくりと身を起こした。穏やかな気持ちだった。母親の温かさを思い出したからかもしれない。リキュスは我知らずため息を漏らした。
母ナキアは、誰よりも温かくまっすぐな人間だった――宮殿には、そぐわないほどに。父アルクスの出張先で二人は知り合い、アルクスは、ナキアが一庶民の娘であるにも関わらず、彼女を心から愛した。宮殿には、すでに妻であるリニアと五歳になる息子のエルシャがいたが、アルクスはためらうナキアを説得して宮殿へと招いたのだった。リニアは、夫が町から連れ帰った女性を拒むほど度量の狭い妻ではなく、突然の環境の変化に戸惑うナキアをやさしく導いたほどだった。しかし、周囲の見方は違った。宮殿の者のほとんどは、ナキアがアルクスをたぶらかしまんまと宮中に入り込んだのだと話していた。やがてアルクスとナキアの間に息子のリキュスが生まれ、リキュスは両親からはもちろん、リニアと義兄であるエルシャからも実の家族のように扱われた。実際に、リニアとエルシャはこう考えていた――自分が愛する人の大切な人ならば、それは自分にとっても同じ、と。アルクスは、惜しみない愛をナキアにもリニアにも同じように注いだ。不思議なことに、ひとりの男性が二人の女性を同時に愛せるということを、彼はその行動で示していた。リキュス自身も、漠然とそれを理解していた。その気持ちは、母ナキアの死後も、そしてリニアの死後も、まったく揺るぐことはなかった。
自分が今、国王でいられるほどの支持を得られたのは、ひとえにリニアとエルシャのおかげだった。二人は、常に宮殿中の者から尊敬と敬意の目で見られていた。母の死後、二人が自分により愛情深く接してくれたおかげで、自分に対する人々のまなざしが徐々に変わっていったのだ。
着替えを終えたころ、扉を叩く音がした。外から侍女の声が告げる。
「おはようございます、国王陛下。たった今、テュリス様、エルシャ様が宮殿のほうへお戻りになりました」
「兄上が?」
「はい。一時的な滞在と聞いておりますが、同伴の方に病人がいらっしゃるとのことで、ただ今部屋をご用意しております」
「そうか。では、医師の手配もするように」
「かしこまりました」
侍女が去ったあと、カーテンを開いて暖かい朝陽を招き入れる。そのとき、突然胸に激しい痛みを覚えた。思わず膝をつき、窓辺に手をかける。動機がどんどん速くなる。リキュスは目を見開いて懸命に深呼吸をした。目を閉じれば、次に開けたとき同じ場所にいるかどうか不安でたまらなかった。しばらくして、動悸も痛みも治まってくると、リキュスあ大きくため息をついてゆっくりと立ち上がった。
発作はひどくなるばかりだった。何度かは気を失い、気づいたときは違う場所にいた。幸い、人前で倒れたことはないが、それでもこの体のことが他人に知られるのは時間の問題だと思った。
……何に代えても、隠し通さなければ。
リキュスは大きく息をついて、部屋を出た。
アルマニア宮殿に到着したときには、メリナは憔悴しきっていた。朝食をとる元気もなく、客室へ着くとすぐ医師の診察を受けた。しかし医師の見立ては極度の疲労であり、いくつかの薬と休眠以外に治す方法はないというものだった。
「そんなことだろうと思ったわ」
メリナはそう自嘲した。結局、朝食の間はフェランがついていることとなった。ラミは母親のもとを離れたがらなかったが、ナイシェが説得して連れ出した。
「あの娘も、うすうす気づいてるのかしら」
娘が出ていったあと、メリナはいった。フェランは何も答えない。
「……あんたには迷惑をかけるね。……ここなんでしょう?」
フェランは今度も何もいわなかったが、代わりにわずかにうなずいた。メリナはそれを見てため息をつく。
「……約束、忘れないでね。あんたには酷なことだと思うけど……」
フェランは首を振った。
「いえ……それが、あなたの望みなら」
そして、懐から小さな紙袋を取り出した。
「頼まれたものです」
中には、手のひらほどの大きさの小さな布と革の紐、そして針と糸が入っていた。メリナは満足そうにうなずいた。
「ちょうどいいわ、ありがとう」
フェランは息苦しさを覚えた。小さく首を振ると、フェランはメリナの白い手を握った。
「……すみません」
メリナが笑う。
「どうして謝るの。あたしは感謝してるのよ。あんたのおかげで、後悔しなくて済むんだから。いってくれたあんたの勇気に、感謝してる」
そしてメリナは、やさしくフェランを抱擁した。
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