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【第四部:神の記憶】第三章

タラ・ム・テール

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「記憶……いったい何を記憶するの?」

 ナイシェの問いに、メリナは話し出した。

「クラマネのかけらを埋めると、神の……神自身の記憶の一部が、自分の記憶になるの。あたしは七年前から、1万年も昔のあの戦いの記憶とともに生きている」
「あの戦い……?」

 メリナがうなずいた。

「想像を絶する戦いよ。天も地も引き裂かれ、まばゆい光と無のような暗闇がぶつかり合い……とても、言葉ではいい表わせない。あの夢を見るたびに、あたしは恐怖で目を覚ますの。あれは……神と悪魔の、世界の運命を賭けた戦いだった」
「神と悪魔が……!?」

 みな異口同音にいう。神と悪魔が、対極にある存在だということは知っていた。しかし、そのふたつの存在が互いに交わった記録など、どこにもない。それは、神自身の記憶――クラマネのかけらにのみ記された、二者が太古の昔に互いの存命を賭けて戦った歴史だったのだ。

「つまり……あなたは、神と1万年前の出来事を共有しているということ?」
「それ以上よ。あたしは、この地にまだ緑がなかった日を知っている。人間が生まれる前のことも、悪魔が誕生した日のこともね。あたしは、二十憶年分の記憶を持っている。その最後の記憶が、タラ・ム・テール――あの戦いだったの」
「『すべてを意味する戦い』……?」

 メリナのいったナリューン語の意味を、アルム語に直してフェランが尋ねた。

「そう。あの戦いは、まさにすべてを意味していた。悪魔が勝てばこの世の終わり、神が勝てばこの世の復興。人間たちのすべては、あの戦いにかかっていた」
「それで今あたしたちがいるということは、神が勝ったということなのね?」

 ディオネの言葉を、メリナが否定する。

「それは違うの。あたしにもわからないけれど、あの戦いでは、どちらが勝ったわけでもなかった。それ以外の何かが起こったの。たぶんその何かのせいで、今、神はサラマ・アンギュースを集めようとしているんだわ。悪魔が、あれから1万年経った今、何かを企んでいるのかもしれない」

 メリナはそこで息をついた。彼女が知っていることは、それで全部だった。みな、しばらくの時間をかけて、彼女がこれまで語ったことを理解しようとした。理解するのは簡単だったが、完全に受け入れるにはもっとの多くの時間が必要だった。

「あたしの持つ神の記憶はまだ不完全よ。きっとあたし以外にも、クラマネがいるはず。そいつを探し出せば、きっと事の成り行きがすべて明らかになるわ」

 メリナの言葉に、エルシャが問うた。

「つまり、君もついてきてくれるということだね?」

 メリナが返答に窮する。

「あたしは……ただ、こののことが……」
「あたしなら聞いてたよ、ママ」

 メリナを遮って、今まで母親の膝の上でおとなしくしていたラミが初めて口を開いた。

「あたしは、ママがしたいようにしてほしい。ママさえいれば、あたしはそれでいいよ。何があっても、ママがいれば怖くない。ママが一番いいと思うように、してほしい」

 メリナはラミの頬に手を当てた。

「あんたはわかってない。今までの生活とは、まったく違うのよ。毎日遊べるわけでもないし、ずっと同じ町に住むこともできない。命の危険だって、あるかもしれない。それでもいいっていうの?」

 ラミは黙ってうなずいた。メリナはしばらくラミの瞳を見つめてから、意を決したように顔を上げた。

「わかった。行くわ」

 メリナは、その言葉の重さを、おそらくその場にいる誰よりも理解していた。エルシャたちが目の前に現れる前、突然増え始めた夢は、神からの何らかの意思表示であろうと彼女は思った。しかし、増えた夢は確かに彼女を苦しめていた。人間の心は、せいぜい百年分の記憶を許容する力しか持っていない。二十憶年もの、それも神の記憶は、醒めているときですら圧倒的な重みで彼女の心を押しつぶそうとする。ラミが母親を必要とするのと同じように、彼女もまた、心の安らぎとして娘を必要としていた。しかし、十二年前の自分の母親の死にざまを思うと、ラミがどれだけ自分を守ってくれ、そして自分がどれだけラミを守れるのか、メリナには自信が持てなかった。
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