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【第四部:神の記憶】第三章
葛藤
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「ナリューン語だって!?」
エルシャは思わず声を荒げた。ディオネがうなずく。
「ラミっていうのは、ナリューン語で愛のことなのよ」
「つまり、ラミの母親はナリューン語を習得しているということか?」
ラミが来たとき、彼女の名前の意味を知らないのはエルシャだけだった。ほかの三人は、ごく自然に話題にしていたのに。その謎が、今解けた。ナリューン語は、サラマ・アンギュースがかけらを体に埋め込むと同時に習得する言語である。つまり、ナリューン語を理解できるということは、その人物が神の民であるということを示すのだ。
「ラミの母親が、サラマ・アンギュースなのか?」
そのとき、黙って聞いていたフェランが口を挟んだ。
「ちょっと待ってよ。じゃあ、ラミが愛を表すって知ってる僕も、サラマ・アンギュースってこと?」
三人は思わず口をつぐんでフェランを見つめた。その反応に、フェランが声を大きくする。
「どうして今まで隠してたんだよ! 僕はそんなの気にしないっていっただろう? 自分が神の民だと知ったからって、僕は嫌になんかならないよ。ディオネだってナイシェだって、君たちが神の民だと聞いたとき、僕の態度がどこか変わったか?」
「そ……そんなことが心配で黙ってたんじゃないのよ」
ディオネが弁解する。フェランにはかけらの継承の仕方や人々が神の民を嫌う理由も伝えたが、確かにまったく気にしていないようだった。偏見に満ちた噂に触れる前に、真実を告げられたのがよかったのかもしれない。しかし、それでも三人はフェランが予見の民であることをあえて話そうとはしなかった。ヘッセ医師のいうように、彼の記憶を封じ込めているのが幼いころの母親の死だとするならば、彼が神の民であることを安易に伝えるべきではないと考えたからだ。
「じゃあ、どうして話してくれなかったのさ」
フェランが詰め寄る。答えられないディオネの代わりに、エルシャが口を開いた。
「フェラン、おまえが記憶をなくしたのは、おまえがサラマ・アンギュースだということと関係があるかもしれないんだ。おまえは無意識のうちにそのことを否定したがっていたのかもしれない。だから、迂闊にはいえなかった」
フェランには、エルシャのいいたいことがわからなかった。
「でも、僕はもう知ってしまったよ。それとも何か、まだ隠していることがあるのかい?」
エルシャはしばらくの間考えた。フェランは今、自分自身のことを知りたがっている。これは、記憶を取り戻すのにはいい条件かもしれない。しかし、隠し事をされたくないだけの、童心に戻ったような今のフェランに、母親の死について話したら、かえって事態は悪化しないだろうか。
「教えてよ! 僕の過去には何かあるの?」
フェランの鋭い目つきを見て、エルシャは彼の熱意に賭けることにした。
「フェラン、おまえの母親は、予見の民シレノスだった。イルマの村で、二人で暮らしていたんだ」
エルシャは、ずっと前にフェランの口から聞いたことを、そのまま語り始めた。イルマが襲撃されたこと、そしてフェランの母親が瀕死の状態で見つかったこと。フェランはただ黙って耳を傾けていた。
「彼女は、帰ってきた息子を見て、かけらを託そうとした。それで、お前の右手首を切り、自分の腹を切り開いてかけらを取り出したんだ」
握りしめられたフェランの両手が、小刻みに震え出した。エルシャは続けた。
「かけらを手首に埋めたあと、彼女は、『神の民は根絶やしにされる。逃げなさい』といって息絶えたそうだ」
そのとき、フェランが両耳を手で塞いだ。
「やめて……それ以上、話さないで……!」
エルシャは、焦点の合わないフェランの瞳を覗き込んで彼の両肩を掴んだ。
「しっかりしろ。おまえが知りたいといったんだ。現実を見ろ」
フェランが無言で首を横に振る。全身に冷や汗をかき、呼吸が速くなっていた。
「フェラン、おまえが記憶を失ったのは母親の死のせいなのか? 五歳のときは無理でも、今なら受け入れられるだろう」
「や……やめ……」
フェランはエルシャから顔を背けて懸命にあらがったが、その力は弱く、エルシャの腕が耳を塞ごうとするフェランの手首を押さえつけた。
「やめて、エルシャ! こんなに苦しがってるわ!」
ナイシェが二人を引き離そうとしたが、エルシャは構わず叫んだ。
「フェラン、聞こえるか!? おまえは自分がシレノスであることを受け入れるといった。それは、母親の死も受け入れるということだ。もうその準備はできているはずだ。聞くんだ、フェラン!」
逃れようともがくフェランの体が止まった。何か遠くのものを見つめているような目で、エルシャに掴まれたまま体をこわばらせている。瞳には再び強い意志の力が宿り、直後、そこに不安の色が混ざる。
「フェラン、おまえは一度過去を受け入れたんだ。もう一度、できるはずだ!」
フェランの瞳に映る不安の色がみるみる強くなり、恐怖に変わった。途端に、こわばっていた体がカタカタと震え出す。
「フェラン――!」
苦悶に顔を歪めたあと、フェランはビクンと体を一度だけ揺らしてエルシャの腕の中へ倒れこんだ。激しく汗をかき、体は脱力している。フェランは気を失っていた。
あのときと似ている。
エルシャは思った。
あのときと状況は違うが、フェランは一度、何者かが封じ込めた過去を負の力に逆らって取り戻したのだ。今回も――自分で封じ込めた記憶であっても、きっと乗り越えてくれるに違いない。
しかし、その一方で不安がよぎる。
フェランは、五歳の時から十八歳の今まで、ずっと母親の死のことは忘れたまま育ってきたのだ。十八になって思い出したとき、母の死に対する耐性が五歳当時のままだったとしても、何の不思議もないのではないか。だからこそ、過去の悪夢でうなされたり、頭を打った衝撃で記憶をなくしたのではないか。彼の強さを信じて追い込んでしまったが、彼の身に何かあれば、それはすべて自分の責任だ。
「大丈夫、きっとうまく行くよ」
ディオネがエルシャの背を叩いた。エルシャは腕の中のフェランをそっと抱え上げると、寝台へと寝かせた。
エルシャは思わず声を荒げた。ディオネがうなずく。
「ラミっていうのは、ナリューン語で愛のことなのよ」
「つまり、ラミの母親はナリューン語を習得しているということか?」
ラミが来たとき、彼女の名前の意味を知らないのはエルシャだけだった。ほかの三人は、ごく自然に話題にしていたのに。その謎が、今解けた。ナリューン語は、サラマ・アンギュースがかけらを体に埋め込むと同時に習得する言語である。つまり、ナリューン語を理解できるということは、その人物が神の民であるということを示すのだ。
「ラミの母親が、サラマ・アンギュースなのか?」
そのとき、黙って聞いていたフェランが口を挟んだ。
「ちょっと待ってよ。じゃあ、ラミが愛を表すって知ってる僕も、サラマ・アンギュースってこと?」
三人は思わず口をつぐんでフェランを見つめた。その反応に、フェランが声を大きくする。
「どうして今まで隠してたんだよ! 僕はそんなの気にしないっていっただろう? 自分が神の民だと知ったからって、僕は嫌になんかならないよ。ディオネだってナイシェだって、君たちが神の民だと聞いたとき、僕の態度がどこか変わったか?」
「そ……そんなことが心配で黙ってたんじゃないのよ」
ディオネが弁解する。フェランにはかけらの継承の仕方や人々が神の民を嫌う理由も伝えたが、確かにまったく気にしていないようだった。偏見に満ちた噂に触れる前に、真実を告げられたのがよかったのかもしれない。しかし、それでも三人はフェランが予見の民であることをあえて話そうとはしなかった。ヘッセ医師のいうように、彼の記憶を封じ込めているのが幼いころの母親の死だとするならば、彼が神の民であることを安易に伝えるべきではないと考えたからだ。
「じゃあ、どうして話してくれなかったのさ」
フェランが詰め寄る。答えられないディオネの代わりに、エルシャが口を開いた。
「フェラン、おまえが記憶をなくしたのは、おまえがサラマ・アンギュースだということと関係があるかもしれないんだ。おまえは無意識のうちにそのことを否定したがっていたのかもしれない。だから、迂闊にはいえなかった」
フェランには、エルシャのいいたいことがわからなかった。
「でも、僕はもう知ってしまったよ。それとも何か、まだ隠していることがあるのかい?」
エルシャはしばらくの間考えた。フェランは今、自分自身のことを知りたがっている。これは、記憶を取り戻すのにはいい条件かもしれない。しかし、隠し事をされたくないだけの、童心に戻ったような今のフェランに、母親の死について話したら、かえって事態は悪化しないだろうか。
「教えてよ! 僕の過去には何かあるの?」
フェランの鋭い目つきを見て、エルシャは彼の熱意に賭けることにした。
「フェラン、おまえの母親は、予見の民シレノスだった。イルマの村で、二人で暮らしていたんだ」
エルシャは、ずっと前にフェランの口から聞いたことを、そのまま語り始めた。イルマが襲撃されたこと、そしてフェランの母親が瀕死の状態で見つかったこと。フェランはただ黙って耳を傾けていた。
「彼女は、帰ってきた息子を見て、かけらを託そうとした。それで、お前の右手首を切り、自分の腹を切り開いてかけらを取り出したんだ」
握りしめられたフェランの両手が、小刻みに震え出した。エルシャは続けた。
「かけらを手首に埋めたあと、彼女は、『神の民は根絶やしにされる。逃げなさい』といって息絶えたそうだ」
そのとき、フェランが両耳を手で塞いだ。
「やめて……それ以上、話さないで……!」
エルシャは、焦点の合わないフェランの瞳を覗き込んで彼の両肩を掴んだ。
「しっかりしろ。おまえが知りたいといったんだ。現実を見ろ」
フェランが無言で首を横に振る。全身に冷や汗をかき、呼吸が速くなっていた。
「フェラン、おまえが記憶を失ったのは母親の死のせいなのか? 五歳のときは無理でも、今なら受け入れられるだろう」
「や……やめ……」
フェランはエルシャから顔を背けて懸命にあらがったが、その力は弱く、エルシャの腕が耳を塞ごうとするフェランの手首を押さえつけた。
「やめて、エルシャ! こんなに苦しがってるわ!」
ナイシェが二人を引き離そうとしたが、エルシャは構わず叫んだ。
「フェラン、聞こえるか!? おまえは自分がシレノスであることを受け入れるといった。それは、母親の死も受け入れるということだ。もうその準備はできているはずだ。聞くんだ、フェラン!」
逃れようともがくフェランの体が止まった。何か遠くのものを見つめているような目で、エルシャに掴まれたまま体をこわばらせている。瞳には再び強い意志の力が宿り、直後、そこに不安の色が混ざる。
「フェラン、おまえは一度過去を受け入れたんだ。もう一度、できるはずだ!」
フェランの瞳に映る不安の色がみるみる強くなり、恐怖に変わった。途端に、こわばっていた体がカタカタと震え出す。
「フェラン――!」
苦悶に顔を歪めたあと、フェランはビクンと体を一度だけ揺らしてエルシャの腕の中へ倒れこんだ。激しく汗をかき、体は脱力している。フェランは気を失っていた。
あのときと似ている。
エルシャは思った。
あのときと状況は違うが、フェランは一度、何者かが封じ込めた過去を負の力に逆らって取り戻したのだ。今回も――自分で封じ込めた記憶であっても、きっと乗り越えてくれるに違いない。
しかし、その一方で不安がよぎる。
フェランは、五歳の時から十八歳の今まで、ずっと母親の死のことは忘れたまま育ってきたのだ。十八になって思い出したとき、母の死に対する耐性が五歳当時のままだったとしても、何の不思議もないのではないか。だからこそ、過去の悪夢でうなされたり、頭を打った衝撃で記憶をなくしたのではないか。彼の強さを信じて追い込んでしまったが、彼の身に何かあれば、それはすべて自分の責任だ。
「大丈夫、きっとうまく行くよ」
ディオネがエルシャの背を叩いた。エルシャは腕の中のフェランをそっと抱え上げると、寝台へと寝かせた。
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