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【第四部:神の記憶】第三章
あたしと遊ばない?
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宿の二階の窓から、エルシャは食料を抱えて帰ってくるナイシェとフェランを黙って見ていた。二人とも、何の心配事もないかのような笑顔だ。それがかえってエルシャの心に影を落とす。
「ただいま。エルシャ、起きてたのね。すぐ朝ごはんを作るわ」
ナイシェは食料を流しの横に置くと、野菜を洗い始めた。その隣で、フェランが流しを覗き込んでいる。
「まずこうやって洗うの。一番外の葉っぱは、傷んでるから捨ててね」
フェランが熱心にナイシェの手元を見つめ、同じようにやろうとする。
「そう。中のほうは、こうやって小さめにちぎってね」
フェランは白く細い指を不器用に動かして葉をちぎり、皿の上に載せ始めた。
エルシャは二人をじっと見ていたが、フェランが野菜を盛り合わせ始めたころ、ナイシェに声をかけた。
「ナイシェ、ちょっといいか」
部屋の外へ連れ出し、人気のない廊下の片隅で話し出す。
「フェランのことで、ちょっと気になるんだが……」
そしてヘッセ医師の忠告をナイシェに告げる。ナイシェは真剣な顔で聞いていたが、エルシャが話し終わって彼女の反応をうかがうように口をつぐむと、いぶかし気にいった。
「つまり、フェランにあまりやさしくするなってこと?」
「いや、そうはいっていない。ただ……フェランのあの笑顔を見ていると、とても楽しそうだから、少し心配になってね」
その言葉に、ナイシェは怒りを感じた。
「今のフェランに楽しむ権利はないってこと? あなたのいっていることはわかるわ。でも、だからって今の彼だって尊重すべきよ」
「だが、記憶を取り戻させたいのなら少しは犠牲を払わなければいけない。辛いだろうが、今のフェランにあまりいい思いはさせないことだ」
「今のフェランだってフェランには変わりないわ! 記憶はなくても、フェラン自身が今こうしてここにいるのに、どうして否定しようとするの?」
思わず声を荒げたナイシェは、自分が今朝フェランにいわれたのとまったく同じことをエルシャに訴えている自分に驚いた。エルシャはびっくりしたようにしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。
「ナイシェ、君のいうとおりだ。しかし……このままだと、フェランの記憶が一生戻らない可能性がある。そのことだけ、覚えておいてくれ」
その日の午後、フェランはあまり遠くへは行かないという約束で宿に面した通りをぶらぶらしていた。ほかの三人は病人扱いするけれど、フェランは自身はいたって健康だと思っていた。だから、一週間近くも同じ町に釘づけにされているよりはハーレルとやらを探しに出かけたほうがいいのだが、そうもいかず、仕方なしに今朝買い物で通った道を歩いていた。
今朝は見かけなかった服屋や小物屋がところどころにあったが、その中にフェランの気を引くものはなく、何の目的もなく通りを離れて細い路地に入る。そこに、自分を見上げて立っている小さな少女を見つけた。深い緑色の目をいっぱいに開いて、何もいわずにフェランの顔をじっと見つめている。フェランも思わずしばらくの間少女を見つめ返していたが、奇妙でこそあれ何も悪気のようなものは感じなかったので、そっと右手を差し出して笑った。
「やあ」
すると少女はその手を握り返して初めてにっこりと笑った。
「お兄ちゃん、あたしと遊ばない?」
フェランは不思議に思いながら、少女の栗色の巻き毛をした頭にぽんと手を置いた。
「君、ひとりなの? 友達は?」
聞いてか聞かずか、少女は笑顔のまま話を続ける。
「ママはいつもこうして遊ぶ友達を見つけるのよ。ママは今お休み中で、あたしひとりだから、お兄ちゃん、一緒に遊ぼうよ」
フェランは少しだけ頭を悩ませ、すぐに理解した。つまり、母親は夜の仕事をしているということだ。
少女の小さな手と大きな瞳を見ながら、フェランが決心をするのにそう時間はかからなかった。彼は握っていた手を右から左に変えて、少女と一緒に歩き始めた。
「ただいま。エルシャ、起きてたのね。すぐ朝ごはんを作るわ」
ナイシェは食料を流しの横に置くと、野菜を洗い始めた。その隣で、フェランが流しを覗き込んでいる。
「まずこうやって洗うの。一番外の葉っぱは、傷んでるから捨ててね」
フェランが熱心にナイシェの手元を見つめ、同じようにやろうとする。
「そう。中のほうは、こうやって小さめにちぎってね」
フェランは白く細い指を不器用に動かして葉をちぎり、皿の上に載せ始めた。
エルシャは二人をじっと見ていたが、フェランが野菜を盛り合わせ始めたころ、ナイシェに声をかけた。
「ナイシェ、ちょっといいか」
部屋の外へ連れ出し、人気のない廊下の片隅で話し出す。
「フェランのことで、ちょっと気になるんだが……」
そしてヘッセ医師の忠告をナイシェに告げる。ナイシェは真剣な顔で聞いていたが、エルシャが話し終わって彼女の反応をうかがうように口をつぐむと、いぶかし気にいった。
「つまり、フェランにあまりやさしくするなってこと?」
「いや、そうはいっていない。ただ……フェランのあの笑顔を見ていると、とても楽しそうだから、少し心配になってね」
その言葉に、ナイシェは怒りを感じた。
「今のフェランに楽しむ権利はないってこと? あなたのいっていることはわかるわ。でも、だからって今の彼だって尊重すべきよ」
「だが、記憶を取り戻させたいのなら少しは犠牲を払わなければいけない。辛いだろうが、今のフェランにあまりいい思いはさせないことだ」
「今のフェランだってフェランには変わりないわ! 記憶はなくても、フェラン自身が今こうしてここにいるのに、どうして否定しようとするの?」
思わず声を荒げたナイシェは、自分が今朝フェランにいわれたのとまったく同じことをエルシャに訴えている自分に驚いた。エルシャはびっくりしたようにしばらく黙っていたが、やがて小さく息をついた。
「ナイシェ、君のいうとおりだ。しかし……このままだと、フェランの記憶が一生戻らない可能性がある。そのことだけ、覚えておいてくれ」
その日の午後、フェランはあまり遠くへは行かないという約束で宿に面した通りをぶらぶらしていた。ほかの三人は病人扱いするけれど、フェランは自身はいたって健康だと思っていた。だから、一週間近くも同じ町に釘づけにされているよりはハーレルとやらを探しに出かけたほうがいいのだが、そうもいかず、仕方なしに今朝買い物で通った道を歩いていた。
今朝は見かけなかった服屋や小物屋がところどころにあったが、その中にフェランの気を引くものはなく、何の目的もなく通りを離れて細い路地に入る。そこに、自分を見上げて立っている小さな少女を見つけた。深い緑色の目をいっぱいに開いて、何もいわずにフェランの顔をじっと見つめている。フェランも思わずしばらくの間少女を見つめ返していたが、奇妙でこそあれ何も悪気のようなものは感じなかったので、そっと右手を差し出して笑った。
「やあ」
すると少女はその手を握り返して初めてにっこりと笑った。
「お兄ちゃん、あたしと遊ばない?」
フェランは不思議に思いながら、少女の栗色の巻き毛をした頭にぽんと手を置いた。
「君、ひとりなの? 友達は?」
聞いてか聞かずか、少女は笑顔のまま話を続ける。
「ママはいつもこうして遊ぶ友達を見つけるのよ。ママは今お休み中で、あたしひとりだから、お兄ちゃん、一緒に遊ぼうよ」
フェランは少しだけ頭を悩ませ、すぐに理解した。つまり、母親は夜の仕事をしているということだ。
少女の小さな手と大きな瞳を見ながら、フェランが決心をするのにそう時間はかからなかった。彼は握っていた手を右から左に変えて、少女と一緒に歩き始めた。
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