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【第三部:とらわれの舞姫】第五章
雪解け
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まだ中にいるか定かではなかったが、とりあえずカイルの書斎の扉を叩く。しばらくの静寂のあと、諦めて引き返そうとすると、中からカイルの低い声が聞こえた。
「……入れ」
ナイシェは大きく息を吸い込んで扉を開けた。カイルが、机の縁に寄り掛かるようにして腕を組んでいた。床をじっと見つめたまま、振り返らない。ナイシェは緊張しながらそっと扉を閉めた。その音で顔を上げたカイルは、部屋の端に立っているのがナイシェと知って、ため息まじりに呟いた。
「……君か」
そのため息の意味がわからず、ナイシェは不安で口を開けなかった。彼は、まだ怒っているのだろうか。そんな思いがこみ上げる。しばしの沈黙。やっとのことで勇気を奮いたたせ、カイルに話しかけようとしたときだった。先に言葉を発したのは、カイルだった。
「さっきは、すまなかったな。怒鳴ったりして……」
カイルが謝るのは、これで二度目だった。今までずっと反抗していたにも関わらず、ナイシェには、ほかの誰よりもカイルに謝られるのが一番つらかった。
「いつもこうなんだ……。何か思いどおりにならないと、すぐ怒る。悪い癖だな」
自嘲気味にいうカイルに、ナイシェはあわてて口を挟んだ。
「いえ、怒らせたのは私のほうだわ。ごめんなさい、私、とてもひどいいい方をしてしまったから……」
「いや……そういわれても仕方のないことをしてきたのは、僕だ」
いつになく内省的なカイルに、ナイシェは何といえばいいのかわからなかった。かすかに眉をひそめて不安げにたたずむナイシェに、カイルがゆっくりと歩み寄る。その口元には、悲しそうな笑み。
「どうしてだろうな……。今まで、手に入らないものはなかったのに。手に入れたものはすべて、大してほしかったわけではなかった。なのに、生まれて初めて心の底から願ったものは、けして手にすることができないんだな……」
そんなカイルを見て、ナイシェの口が言葉を発した。けしていうまいと思っていたのに、なぜか氷が溶けるように自然と浮き出てきた言葉。
「私……踊っても、いいわ」
カイルがびっくりしたように目を開く。驚いたのは、ナイシェも同じだった。自分の口からこんな言葉が出るなんて、到底信じられない。
「……本当に、踊ってくれるのか?」
「……ええ」
うつむきがちにナイシェは答えた。そして、いい訳のように付け足す。
「だって、あなたってときどき……すごく素敵に、笑うんだもの。もしまたあんなふうな表情を見られるのなら……踊っても、いいかなって……」
そして口をつぐむ。そのまま恥ずかしそうにうつむいたままのナイシェをしばらく呆然と見つめたあと、カイルは突然その胸にナイシェを抱きしめた。
「ありがとう……ありがとう、ナイシェ。心から感謝するよ。僕は果報者だ、世界一の舞姫の踊りを、二度も目の前で見られるのだからな」
それを聞いて、ナイシェはささやかな喜びがこみあげてくるのを感じた。
こんなに喜んでくれる人のために踊れるのなら、それは私にとっても喜びだ。
なぜだか、とてもうれしくて仕方がなかった。カイルとわかり合えたこと、明日彼のために踊ること、すべてがうれしかった。この屋敷に連れてこられたときは、どうしてこんな気持ちになれると想像できただろう。いや、できなくて当然だった。あの、人を見下したような笑みを浮かべ、実際そのような態度で接する伯爵を前に、こんなすがすがしい気持ちでいられるはずがなかったのだ。しかし、今は違う。ナイシェはそう断言できた。伯爵は、変わったのだ――そして、ナイシェ自身も。
「……入れ」
ナイシェは大きく息を吸い込んで扉を開けた。カイルが、机の縁に寄り掛かるようにして腕を組んでいた。床をじっと見つめたまま、振り返らない。ナイシェは緊張しながらそっと扉を閉めた。その音で顔を上げたカイルは、部屋の端に立っているのがナイシェと知って、ため息まじりに呟いた。
「……君か」
そのため息の意味がわからず、ナイシェは不安で口を開けなかった。彼は、まだ怒っているのだろうか。そんな思いがこみ上げる。しばしの沈黙。やっとのことで勇気を奮いたたせ、カイルに話しかけようとしたときだった。先に言葉を発したのは、カイルだった。
「さっきは、すまなかったな。怒鳴ったりして……」
カイルが謝るのは、これで二度目だった。今までずっと反抗していたにも関わらず、ナイシェには、ほかの誰よりもカイルに謝られるのが一番つらかった。
「いつもこうなんだ……。何か思いどおりにならないと、すぐ怒る。悪い癖だな」
自嘲気味にいうカイルに、ナイシェはあわてて口を挟んだ。
「いえ、怒らせたのは私のほうだわ。ごめんなさい、私、とてもひどいいい方をしてしまったから……」
「いや……そういわれても仕方のないことをしてきたのは、僕だ」
いつになく内省的なカイルに、ナイシェは何といえばいいのかわからなかった。かすかに眉をひそめて不安げにたたずむナイシェに、カイルがゆっくりと歩み寄る。その口元には、悲しそうな笑み。
「どうしてだろうな……。今まで、手に入らないものはなかったのに。手に入れたものはすべて、大してほしかったわけではなかった。なのに、生まれて初めて心の底から願ったものは、けして手にすることができないんだな……」
そんなカイルを見て、ナイシェの口が言葉を発した。けしていうまいと思っていたのに、なぜか氷が溶けるように自然と浮き出てきた言葉。
「私……踊っても、いいわ」
カイルがびっくりしたように目を開く。驚いたのは、ナイシェも同じだった。自分の口からこんな言葉が出るなんて、到底信じられない。
「……本当に、踊ってくれるのか?」
「……ええ」
うつむきがちにナイシェは答えた。そして、いい訳のように付け足す。
「だって、あなたってときどき……すごく素敵に、笑うんだもの。もしまたあんなふうな表情を見られるのなら……踊っても、いいかなって……」
そして口をつぐむ。そのまま恥ずかしそうにうつむいたままのナイシェをしばらく呆然と見つめたあと、カイルは突然その胸にナイシェを抱きしめた。
「ありがとう……ありがとう、ナイシェ。心から感謝するよ。僕は果報者だ、世界一の舞姫の踊りを、二度も目の前で見られるのだからな」
それを聞いて、ナイシェはささやかな喜びがこみあげてくるのを感じた。
こんなに喜んでくれる人のために踊れるのなら、それは私にとっても喜びだ。
なぜだか、とてもうれしくて仕方がなかった。カイルとわかり合えたこと、明日彼のために踊ること、すべてがうれしかった。この屋敷に連れてこられたときは、どうしてこんな気持ちになれると想像できただろう。いや、できなくて当然だった。あの、人を見下したような笑みを浮かべ、実際そのような態度で接する伯爵を前に、こんなすがすがしい気持ちでいられるはずがなかったのだ。しかし、今は違う。ナイシェはそう断言できた。伯爵は、変わったのだ――そして、ナイシェ自身も。
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