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【第三部:とらわれの舞姫】第五章

失敗②

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「あ……あの」
 喉からかすれた声が出る。
「ミゼッタが、男の人にお金の入った木の箱を渡すのを見つけたんです」

 何とか短くそれだけいうと、ナイシェはすがるようにカイルのこわばった顔を、そしてシルフィールの心配そうな顔を見つめた。カイルが黙っていると、今度はミゼッタがいった。

「違います、カイル様。私はカイル様にお仕えする身です、けっしてそんなことはいたしません。このが、金貨を持って逃げようとするのを私が見つけたんです」

 カイルは射るような視線をナイシェへ向けた。

「そうなのか、ナイシェ?」

 ナイシェは必死で首を横に振った。ここで、カイルにまで誤解されるわけにはいかない。

「私じゃありません! 本当よ、信じてください……!」

 すると、間髪入れずにミゼッタが口を挟んだ。

「嘘でないなら、どうしてこんな時間にあそこにいたの?」
「それは――」

 思わず言葉に詰まる。ミゼッタが勝ち誇ったような顔をした。

「ほらごらんなさい! カイル様、この娘は屋敷ここを逃げ出そうとしてたんです。それを、私が捕まえたんです!」

 カイルは意を決したようにナイシェのほうへ振り向くと、両脇に立っていた二人の男にいった。

「ナイシェを部屋へ連れていけ。一歩も出すな」
「かしこまりました」

 二人は素早くナイシェの腕をとらえた。ナイシェは焦っていた。カイルは完全にミゼッタを信用してしまっている。

「ま……待ってください! 確かに私、逃げようとしていました。でも、それと金貨のことは別です! 逃げる途中でミゼッタと男の人を見つけて、それで――」

「それで?」
 ナイシェの言葉をさえぎって、カイルが冷たくいった。
「自分が見つかることも考えずに、止めに入ったというのか?」

 明らかに、信じていない。ナイシェはあまりのことに気が遠くなりそうだった。もう、何をいっても無駄だ。そんな思いを、頭のどこか遠くのほうで感じる。カイルの合図で、ナイシェは腕を引かれて歩き出した。すると、こらえきれずにシルフィールが訴えた。

「カイル様! 判断が性急すぎるのではないですか? もっとよく二人のいい分をきかなければ、本当のことはわかりません」

 しかしカイルはそんなシルフィールに一瞥をくれただけだった。

「彼女は逃げようとしていた。それだけで、充分だろう?」

 そして、屋敷の中へ消えていくナイシェの姿を見ながら、浅くため息をついた。

「見損なったね」
 小さくそう呟くと、彼はひとり立っているミゼッタのほうへ目をやった。
「よくやったな。褒美をやろう」

 ミゼッタは深々と頭を下げた。





「カイル様、これからナイシェ様をどうなさるおつもりですか」

 カイルの自室に戻るなり、シルフィールが訴えるようにそういった。が、カイルは服を着替えながら無表情に答えた。

「どうする? ふん、そうだな、まあ食べ物くらいは与えてやるさ」

 その冷たいいい方に、シルフィールが必死に食い下がる。

「カイル様は、ナイシェ様のお言葉をお聞きにはならなかったのですか? なぜミゼッタのいうことを信じ、ナイシェ様には耳を傾けないのですか」
「おまえはナイシェのほうを信じているのか?」

 馬鹿にしたようにカイルがいう。

「いえ、ただ私はもっと双方に公平な目を向けるべきだと……」
「ナイシェは逃げようとしていたんだぞ。それがすべてを物語っているではないか」
「では、ミゼッタはなぜあんな時間にあんなところにいたのですか? 彼女のほうだって、不審な点があります」
屋敷ここに仕えているミゼッタが、そんなことをするわけがない」
「ナイシェ様もです。あの方は善意にあふれた方です。たとえ逃げ出すことはあっても、金目のものまで持っていくようなことはありません」

 するとカイルは皮肉気に笑った。

「よく知っているんだな、ナイシェのことを」
「本当にご存じなのは、あなたのほうではないのですか? 踊りには性格が出るのだなとおっしゃっていたではありませんか」

 カイルは苛立ち紛れに机を強く叩いた。

「うるさい! とにかくナイシェにはそれなりの対応を考えるつもりだ。ミゼッタに詳しい話を聞いてな。これ以上おまえいにいうことはない。部屋に戻れ。おやすみ」

 追い出されるようにカイルの部屋を出ると、シルフィールは深くため息をついた。自分だって、ミゼッタを疑っているわけではない――ただ、ナイシェがしたなどとは信じられないだけなのだ。
 なすすべもなく、シルフィールは重い足取りで寝室へと戻ったのだった。
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