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【第三部:とらわれの舞姫】第五章

決死の脱出

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 その晩の食事はろくに喉を通らなかった。そんな様子から、自分の考えていることをカイルに気取られはしないかと、気が気でなかった。しかしその夜の伯爵は安里は打って変わって上機嫌で、ナイシェは昨夜と同様に食事のあと自室に引きこもることができた。
 部屋に戻るなり、窓を開けて月を見る。

 まだだ。夜中まではまだ時間がある。いつものように何もすることがなく退屈しているように見せなければ。

 今すぐにでも窓から飛び出したい衝動を堪えて、ナイシェは静かに窓を閉めた。そのまま寝台のへりに腰を下ろすと、昼間庭を歩きながら練った計画を、もう一度確かめるように思い起こす。
 敷地の外へ出られるもんや扉には、必ず二人以上の見張りがついていて、彼らの目を盗むのは無理だから、夜中彼らが建物の周りを回る間隔をしっかりつかんで、その合間に窓から出、木を伝って塀まで行く。音をたてないように飛び降りたら、あとはひたすら走る――。
 しかし、考えれば考えるほど、息の詰まるような不安感は増すばかりだ。

 こんな簡単な方法で、本当に逃げられるの……?

 が、ナイシェはそんな気持ちを振り払うかのように首を振った。

 塀の外まで出れさえすれば、大丈夫。いざとなったらパテキアの力を使えばいい。





 夜も更け、人々がへ静まるまでの間、ナイシェは部屋の明かりを消して布団をかぶっていた。いつものように寝巻に着替え、寝たふりを始めてからもう三時間くらい経っただろうか。部屋が暗いため時計は見えないが、もう一晩中こうして身動きせずうずくまっている気がするから、実際はそれくらいだろう。耳を澄ましても、何も聞こえない。みな、いつものように寝入っているのだ。風の音も聞こえない。これは、部屋を出るときには好都合だ――窓を開けても、カーテンが揺れて守衛に気づかれることがないから。
 ナイシェは、それからさらに一時間ほど待った。周りは不気味なほど静まり返っている――まるで、彼女の周りのすべてが、息をひそめて監視しているかのようだ。
 少しでも動いたら、途端に扉の外で待ち構えていた数人の見張りが飛んで入ってくるに違いない。そんな恐怖にも似た不安を何とか抑え込んで、ナイシェはそっと上半身を起こした。かすかに布団の擦れる音がする。震える足をそっと床に下ろすと、ナイシェは枕の下に忍ばせておいた靴下を履いた。音がするから、靴は履けない――逃げる間に足の裏を傷つけるのは、覚悟の上だ。

 身支度を整えると、ナイシェはカーテンの隙間からそっと外の様子を覗いた。ランプを持った男が下を歩いている。彼はゆっくりと歩きながらナイシェの視界の左端へと消えていった。固唾をのんで、その様子を見守る。男がいなくなりしばらくすると、別の男が右のほうから姿を現した。

 ――大丈夫、次の見回りが来るまでの間に、何とかこの窓から抜け出して塀までたどり着ける。失敗さえしなければ、間に合うはず。

 念のためナイシェは、もう二人の見張りの男をやり過ごすと、その見回りの間隔がどれも同じであることを確かめ、最後のひとりが視界から消えたあとに素早く、しかし慎重に窓を開いた。小さな音がしたが、誰もやってくる気配はなかった。

 ……さあ、行くわよ。

 ナイシェは窓の桟に足をかけた。冷たい夜の空気が肌に触れる。ナイシェはそこからやや離れたところにある高い木を見据えた。

 思い出して――サルトナの町で踊った月の踊りを。あのときみたいに、音をたてずに飛び移るのよ。

 全身に神経の糸を張り巡らして、ナイシェは跳んだ。風を感じながら、近づく木の枝に向かって手を伸ばす。落下の勢いを膝で吸収しながら、彼女は一本の枝に音もなく降り立った。周りの枝をつかんで、体を安定させる。

 そう、この調子であと二つ気を伝われば、森はすぐそこよ。

 ナイシェは高鳴る心臓の音を懸命に沈めて、次の木へと飛び移った。そしてもうひとつ。スカーライン邸を取り囲む塀が、すぐ目の前に迫った。まだ見回りの姿はない。すべて順調だ。もう一度跳びさえすれば、脱出できたも同然だ。
 ナイシェは緊張と不安の中から沸き上がる喜びを感じながら、塀に飛び移った。真っ暗闇の中、足に確かなレンガの感触。

 ここまで来れば、あとは地面に飛び降りて――

 そう思ったときだった。ナイシェの下から、かすかな人の声がした。

 見つかった――!?
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