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【第二部:天と地の狭間】第六章

赦し

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「……ジュノレ?」

 やっとのことでエルシャがそれだけ絞り出したとき、当のジュノレは浮かれ顔のナイシェとは反対に怒ったような顔をしてそっぽを向いた。

「だからドレスは嫌だといったんだ! いつもの服でいいって」

「あら、ドレスのほうがずっと素敵よ! ジュノレ、こんなにきれいなんだから。ほら、エルシャだって、きれいすぎて何もいえないみたい」

 ナイシェが嬉しそうにいう。しかし生まれて初めて女性らしい姿に変身したジュノレは、居心地が悪いらしくすぐに広間の端へと引っ込んでしまった。やっとのことで人目を逃れて足を止めたところにばったりテュリスと居合わせ、ジュノレは再び固まってしまった。テュリスはまじまじとジュノレを見つめると、小さく笑った。

「……おまえ、本当に女だったんだな。そっちのほうが全然似合うぞ」

 それを聞いて、ジュノレが苦笑いする。

「……おまえも一緒にサラマ・エステまで行ってくれたんだろう? ――ありがとう、感謝するよ」

 テュリスは肩をすくめた。

「俺は薬草を取りに行ったんじゃない。礼なんてお角違いだね。……第一、俺はおまえを殺そうとした男だぞ」

 ジュノレは首を横に振った。

「これでも、おまえの性格はわかっているつもりだからね」

 目的を達するためならば、何でもする人間――たとえ親族殺しであっても。しかし、この男は限りなく自分の欲望に素直だ。必要とあらば、その矛先は同じ強さで己自身にも向けられることだろう。その一環した強さを、ジュノレは認めていた。

「それはそれは光栄だ」

 テュリスはにやりと笑うとジュノレの肩を軽く叩いた。

「さあ、こんなところに隠れていないで、そろそろおまえのお目覚めを待ち望んでいたやつらに顔を見せてやれよ」

 するとジュノレはうつむいていった。

「見せる顔など……」
「それは彼らが決めることだろう」

 テュリスはそういってジュノレを広間の群衆のほうへ押しやった。彼らはたちまち近づいてくる女性の気品と美しさに目を奪われ、それがジュノレであると気づくと我先に駆け寄った。あっという間に人だかりができ、彼らは口々に話しかけた。

「ジュノレ様! ジュノレ様ですね! ずっとお待ちしておりました」
「おめでとうございます、ジュノレ様! お元気になられて、本当にうれしゅうございます」

 心の底から喜びを表す彼らに、ジュノレは胸の詰まる思いがした。

「みな……なぜそんなに、やさしくなれるのだ? 私はずっとあなた方をだまし続けてきて……今すぐ糾弾され、追放されても当然なのに、なぜ……」

 すると、ひとりの従者が進み出た。

「それは、みんな本当のジュノレ様を知っているからですよ」

 台所で働いているまだ若い少女だ。彼女は頬を紅潮させて懸命に話した。

「ジュノレ様のことを好きだった子、いっぱいいたんです。だから、ジュノレ様は女性だって知って、がっかりした子もたくさんいました。でも誰も、ジュノレ様を嫌いになったり恨んだりはしませんでした。だって、ジュノレ様はジュノレ様……台所に肉を運ぶのを手伝ってくれたり、気軽に話しかけてくれたりする、そんなちょっとしたときに見えるお姿が本当のジュノレ様だって、みんなわかっていましたから」

 少女の言葉に、ジュノレは何もいえなかった。

 このたちは、そんなところまで見ていてくれたのか。私が何も気づかず母上のいいなりになっていた間も――

「……ありがとう」

 ジュノレの心を満たしていた自責と呵責とが、ゆっくりとそそがれていく。そのときジュノレは初めて気づいた。宮殿中の者を欺き続けてきたこの胸がつぶれるほどの後ろめたさは、自分自身でも愛する人間でもなく、宮殿の住人によってのみ取り除かれ得るものだったということを。

「お礼をいうのは、私のほうですわ」

 背後で、女性の声がした。張りのある、澄んだ声。

「エルミーヌ……!」

 その懐かしい姿を認めると、ジュノレは衝動的にエルミーヌの細い体を抱きしめた。

「ジュノレ様……?」

 ほんのりと頬を紅潮させてとまどうエルミーヌに、胸の内を伝えようとジュノレは懸命に言葉を探した。

「エルミーヌ……あなたには伝えたいことがたくさんある。本当に……すまなかった。けれど、あなたがいなければ、今の私は存在しなかった。君は気づいていないだろうね……君の何気ない言葉が、どれだけ私の背中を押し、正しい道へと向かわせてくれたか。心から感謝するよ、ありがとう」

 エルミーヌは自分を抱きしめるジュノレの背中にそっと手を触れた。

「ジュノレ様……私こそ、ジュノレ様に深く感謝しております。私も……あなたがいらっしゃらなければ、今の私ではありませんでした」

 ジュノレが不思議そうにエルミーヌの穏やかな瞳を見つめる。エルミーヌは恥ずかしそうに頬を赤らめた。

「今だからいえますけど……私、ジュノレ様のこと、お慕いしておりましたのよ」

 ジュノレは目を丸くした。

「私を……?」

 エルミーヌはくすくす笑いながらうなずいた。

「それでジュノレ様が宮殿から姿を消したあと、寂しくて……やけになって、結婚いたしましたの」
「結婚!? あんなに嫌がっていたのに……」
「ええ。でも、今ではとても幸せですの。心の底から愛することができ、そして愛してくれる夫と巡りあえて。……これもジュノレ様のおかげですわ」

 ジュノレは不思議でならなかった。やけになって結婚した相手と愛し合うなど、簡単には想像がつかない。しかし、エルミーヌのやさしい微笑みが、すべて真実であることを物語っている。

「……本当におめでとう。素晴らしい方を見つけたんだね」

 するとエルミーヌの背後からひとりの男性が姿を現した。柔らかな茶髪を上品に結んだ彼は、その気品にふさわしい優雅さで丁寧にお辞儀をした。

「ジュノレ様、ご快復おめでとうございます。これでアルマニア宮殿にも輝きが戻りました」
「マニュエル公爵か、元気そうで何よりだ」

 するとエルミーヌがいった。

「今、ちょうどあなたの話をしていたところですのよ」

 それを聞いてジュノレは再び目を丸くした。

「あなたの話って……マニュエル公が!?」

 開いた口がふさがらないジュノレを見て恥ずかしそうに微笑みながら、エルミーヌは改めていった。

「紹介いたしますわ。夫のエドール・マニュエルです」

 エドールが状況を察して苦笑する。

「妻からお聞きになったのですか? ……いや、お恥ずかしい限りですが、私もまさかこの結婚がこんなにうまく行くとは思っていませんでした」

 マニュエル公の噂はいくつも聞いていた。恋多き男ゆえに、結婚などまだ縁遠いだろうと思っていたが、まさかよりによってエルミーヌと結婚など、想像すらできない。しかし、マニュエル公の表情を見て、ジュノレは気づいた。そこに浮かぶ笑みは昔より温かく、そして柔らかい。エルミーヌを見つめる瞳が、慈愛に満ちている。彼もまた、変わったのだ。

 ジュノレは、喜びがこみあげてくるのを感じた。

「二人とも、幸せになるのだよ」

 二人の背中を軽く叩くと、満面の笑みで祝福の言葉を述べた。
 楽団が再び演奏を始めた。群衆から歓喜の声が上がり、軽快な音楽に合わせて人々が踊りだす。その熱気は冷めることを知らず、音楽は鳴りやむことがなかった。
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