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【第二部:天と地の狭間】第一章

両親の思い出

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 この村では最年長らしい老人――名はアルゴというらしい――の家に戻ると、彼は熱くなったあて布を再び洗ってフェランの額にのせようとしているところだった。

「おお、ゼムズか……。アルセーイが、帰ってきたぞ」

 ゼムズは無言でうなずき、そっとフェランの枕元に近づいた。透きとおるような白い肌を今はあかに染めて、少年は苦しそうに息をしていた。ときどき小さな呻き声を発する。

「ずっとこの調子じゃよ、熱も引かない」
「引いたときは、すべてを思い出したときか死んだときだな」

 テュリスが冷めた口調でいう。

「死なないわ……フェランは、そんな弱い人じゃないもの」

 ナイシェが、いいきかせるようにいったときだった。

「う……っ」

 フェランが喘ぎながら首を振った。全身汗にまみれ、先ほどよりも苦しそうに寝返りを打つ。

「フェラン!? しっかりして!」
 落ちた布を拾い上げ、ナイシェははっとした。あわてて彼の額に手を当てる。
「熱があがってるわ!」

 フェランの体は燃えるように熱かった。すぐに取り換えた冷たい布もあっという間にぬるくなり、役に立たない。そうしている間にも、フェランはますます苦しそうに首を振る。肩や胸を小刻みに揺らして小さな呼吸を繰り返すフェランの唇がかすかに震え、わずかな言葉が漏れた。

「……さん……母さん……!」

「思い出そうとしてる!」

 ディオネが声高に叫ぶ。

「母さん……母さん……いかないで――!」

 首を激しく左右に振りながら、フェランは叫んだ。その手が何かを求めるように宙へ差し伸べられる。

「フェラン! しっかり!」

 ナイシェが手に触れると、フェランは彼女の手をきつく握りしめた。

「いかないで……お母さん……嫌だ、お母さん――!」

 びくんと体をのけぞらせ大声を出すと、突然力が抜けたようにフェランはどさりと横になった。手はすでにナイシェを放し、かすかに眉をひそめたまま動かない。
 みな、息を呑んでその様子を見つめた。

「……どうしちゃったの……?」

 ナイシェが震える声でおそるおそる尋ねる。エルシャがそっとフェランの手首に触れた。

「……生きてはいるが……」
 そして口元に手をかざす。
「呼吸がずいぶん穏やかになったぞ」
 次に額に手を当てる。熱がみるみる引いていくのがわかった。

「きっと……すべてを思い出して、目覚めるに違いない」

 期待を込めてエルシャがいう。それまで身動きひとつせずに様子を見守っていたゼムズが、安堵のため息をついた。

「そうか……助かるか」
 そして改めて、今はもう屈託のない表情で眠っているフェランを覗きこんだ。
「あのチビが、こんなにきれいになっちまうなんてなあ。ルインで会ったとき、どおりでわからなかったわけだ」

 するとアルゴ老人がうなずいていった。

「この子は、昔から天使のようにかわいい子じゃった」

 ゼムズは懐かしい瞳で幼馴染の温かい頬に手をあてた。

「ん……」

 小さく呟いて、少年がゆっくりと体を動かす。ゼムズはそっと語りかけた。

「セーイ……」

 呼びかけに応えるかのように、彼は目を開けた。澄んだ緑の瞳が姿を現す。

「――おはよう」

 ゼムズがそういった。あどけない瞳でゼムズを見つめている少年の唇が無意識に動き、言葉を発した。

「……ゼムズ兄さん……」

 自分の声ではっとしたように、少年はあたりを見回した。そして今度ははっきりとした意識の中で、言葉を紡いだ。

「あの……僕は、いったい……」
「村の入口で倒れたのじゃ。覚えとるか?」

 老人が歩み寄る。

「アルゴおじいさん……!」
 少年は老人の姿を見て嬉しそうにいった。
「はい……覚えています。それに、忘れていたことも思い出しました。僕がこの村の人間で、……アルセーイだということも……」

 しばらくの沈黙のあと、ためらいがちにナイシェがその名を口にする。

「……アルセーイ」

 呼ばれて、ナイシェのほうを振り返る。心配そうに見つめるナイシェを見て、彼は優しく微笑んだ。

「……ナイシェにそう呼ばれると、なんだか妙な感じですね……。今までどおり、フェラン、と。僕はアルセーイですが、エルシャに名づけられ、フェランとして生きてきた時間も、本物ですから……」

 フェランは寝台からゆっくりと起き上がった。

「ここは……おじいさんの?」
「そう、わしの家じゃ」

 不意に、フェランがうつむいた。

「……僕の家は……あのまま、ですよね……」

 その声は、かすかに震えている。
 あのまま――屋根も壁も破壊され、残っているのは少しの家具と燃えかすだけ。生まれる前に亡くなった父との思いでどころか、母との短い思い出すら、家とともに燃え尽きてしまった。

「セーイ」

 アルゴの声に、フェランは顔をあげた。

「おまえが戻ってきたら、必ず渡そうと思っていたものがあるのじゃ」
 そういって、老人は小さな机の上に伏せてあったものを取り上げた。
「これじゃ」

 それは、一枚の絵だった。ひとりの女性の肖像画。かなり古く、色褪せて埃にまみれていたが、とてもやさしい筆の動きで描かれた絵だった。柔らかそうな栗色の髪を胸元まで垂らし、口元に微笑を浮かべている女性。その女性を取り巻く空気は穏やかで暖かく、彼女の右手はわずかに膨らんだおなかへやさしく添えられている。

「これは……」

 フェランはかすれた声を漏らし、その絵を食い入るように見つめていた――自分と同じ茶の髪と緑の瞳を持つ、その女性を。

「……お母さん」

 彼はそういった。いった途端、熱い涙が頬を濡らした。

「お母さん……!」

 震える手でそっと額を裏返すと、右下に、小さく、しかしはっきりと、刻まれていた。

『愛する妻セイラ、そしてまだ見ぬ我が子へ――エドニク』

「……お父さん……!」

 両腕にしっかりと母の肖像を抱きしめ、フェランは嗚咽を漏らした。それは初めて見る、父の存在の証だった。父と母は確かに存在し、自分の記憶に父の姿はなくても、父の記憶には確かに自分が刻まれていた――。
 十三年間、両親の記憶もないままに生きてきた。今やっと、記憶の中に母が蘇り、そして両親に愛された証を見つけた。
 十三年越しの涙は、とどまることを知らず、静かに流れ続けた。





 陽も落ち、影が長くなるとともに下りてくる静寂の中、彼らは老人アルゴの家で小さな食卓を囲んでいた。

「――というわけで、また行かなくちゃいけないんです」

 フェランがアルゴに告げる。ゼムズを探すためにイルマここまで来たといえども、本来の目的を忘れたわけではない。

「そうか……寂しくなるのう。せめてひとりだけでも残ってくれれば……」

 アルゴが肩を落とすと、ゼムズが口を挟んだ。

「それがよぉ、そうなりそうなんだな」

 みなゼムズを注視する。ゼムズはきまり悪そうに右腕をまくった。そこには包帯が巻かれている。

「まだあのときの傷が完全には治ってないんだ。筋力が戻らなくてな……剣が、持てねえ」
 そしてエルシャのほうを向く。
「一緒に行きたいのはやまやまなんだけどよ、足手まといになるわけにいは行かねえからな……」

 エルシャは笑ってゼムズの肩を叩いた。

「これは元から俺の問題なんだ。おまえはゆっくり休んでいろ。その傷だって、もとはといえば俺の勝手な行動が原因だからな……」

 ゼムズは大声で笑った。

「がはは、おまえの愛する女のためなら、けがのひとつや二つ! それより、サラマ・エステだろ? 絶対、生きて帰ってくるんだぞ。見事お姫様を救い出したら、俺にも紹介してくれよな」

 エルシャは固い握手で約束を交わしたのだった。
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