71 / 371
【第二部:天と地の狭間】第一章
十三年前の事件
しおりを挟む
この村では最年長らしい老人宅の粗末な寝台の上で、フェランは高熱にうなされていた。原因が原因なだけに、治るかどうかもわからない病気を、懸命に看病する。
「……あとはこの子の精神力を信じるしかないわね」
ディオネが濡れた布を洗いながら呟く。全身に汗をかきながら、フェランは荒い息に胸を上下させていた。そんな彼の様子を、横に腰かけた老人が見守る。
「あの……」
ナイシェが老人に話しかけた。
「さっき、アルセーイ、っていいましたよね」
老人は小さく笑った。
「ああ、いや……ちょっと、昔この村にいた坊やに面影がそっくりで……でも、人違いじゃ。この方は、あなた方の連れじゃろう?」
するとエルシャが口を開いた。
「この少年は、十三年前に野原に倒れているところを見つけたんです。そのときには、すでに記憶がなくて……。だから、彼がどこの誰なのか、わからないんです。その、アルセーイという人物は……?」
老人が話し出した。
「今から二十年くらい前じゃろうか……あの頃はまだ、緑も豊かで海も近く、小さいながらも住み心地のいい村でのう。そんなこの村に、二人の夫婦がきおったのじゃ。物静かな男と、とても気立てのよさそうな娘での。男のほうは旅をする画家で、いろんな町を転々としている間に娘さんと知り合って結婚したそうじゃ。だがその結婚を家族に認めてもらえず、この村に住むようになった。ところが、男のほうがしばらくして病で死んでしまってのう。娘さんは、そのときおなかの中にいた男の子をひとりで育てたのじゃ。その息子が、アルセーイといってのう。とてもかわいくて明るくて、申し分なしの子供じゃった。それが……そう、ちょうど十三年前じゃ。突然、馬に乗った男どもがやってきて、手あたり次第家を焼き払い、目に入る村人らを皆殺しにしていったのじゃ……。訳がわからんかった。やつらの目的も何も、な。それで、村の者はほとんど死んでしまった。アルセーイの母親もな。生き残ったのは、このわしと、町や海へ出ていた者数人。それに、森で遊んでおったセーイと、仲のよかったもうひとりの子供じゃ。しかしセーイは無残に殺された母親を見て辛かったのか、村から姿を消して、それきり戻らんかった。あのときセーイは、まだ幼かったしのう、村も大変な状態じゃったから、あまり気にしてもいられんでな……。もうこの世にはおらんじゃろうと、諦めておったんじゃが……」
語り終わった老人は、再び寝台で眠っているフェランに目を移した。
「アルセーイも、生きておればこの青年くらいの年になるのう……」
「あの……」
ディオネが口を開いた。
「その、アルセーイと仲がよかった子供って、ひょっとして……ゼムズ、とかいいません?」
途端に老人は驚いた顔になった。
「ゼムズを知っておるのか!?」
「やっぱり!」
ディオネがぱっと顔を輝かせ、老人の肩を掴んだ。
「彼、ここに来てない!? あたしたち、ゼムズを探しにきたのよ!」
「お……おお、一か月ほど前に、傷だらけになって戻ってきおったぞ。それで、アルセーイが来たら連れて来いといっておったが……ではあれは、あいつのたわごとではなかったとうことか。まさか、この青年が本当に……?」
「ゼムズは今どこにいますか!?」
老人は外を指さした。
「そこを曲がったところにある家じゃ。この子は任せて、行ってきなさい」
そこは、蒸し暑くて薄暗い家だった。扉が開け放たれている。
「ゼムズ! いるの?」
反応はない。
「いないのかしら。やっと居場所がわかったのに……」
「それに、ゼムズもフェランのことを思い出したようなのにな」
エルシャがいう。おそらくゼムズも、フェランがアルセーイと同一人物だと気づいたに違いない。
ナイシェはゼムズを探して寝室らしき小部屋に入り、ふと壁にかかった一枚の絵を見つけた。美しく繊細な線と色彩の、やや大きめの絵だ。そこには、三人の人物が描かれていた。ひとりの少年と、その両親らしき男女。みな肩を組んで、幸せそうに微笑んでいる。
「……」
ナイシェは口を結んだまま、しばらくその絵に見入っていた。美しかったからではなく、その少年に、よく知った男性の面影を見つけたからだ。そばかすの目立つ、いたずらっぽい目をしたその少年に――。
「これ……」
いつのまにか隣に立ち、同じく絵を見つめるディオネが呟いた。
「――うん……」
ナイシェはただ一言、そう答えた。
そう――これは、ゼムズだ。ゼムズの子供のころの……。
胸が苦しくなった。
こんな幸せそうな家族から、どうやって十三年前の惨事を想像できるというのか――身を切られる想いで、死んでいく母親の体からかけらを取り出した、あの悲劇を。
そのときだった。
ことん。
入口のほうでかすかに物音がした。
「……あとはこの子の精神力を信じるしかないわね」
ディオネが濡れた布を洗いながら呟く。全身に汗をかきながら、フェランは荒い息に胸を上下させていた。そんな彼の様子を、横に腰かけた老人が見守る。
「あの……」
ナイシェが老人に話しかけた。
「さっき、アルセーイ、っていいましたよね」
老人は小さく笑った。
「ああ、いや……ちょっと、昔この村にいた坊やに面影がそっくりで……でも、人違いじゃ。この方は、あなた方の連れじゃろう?」
するとエルシャが口を開いた。
「この少年は、十三年前に野原に倒れているところを見つけたんです。そのときには、すでに記憶がなくて……。だから、彼がどこの誰なのか、わからないんです。その、アルセーイという人物は……?」
老人が話し出した。
「今から二十年くらい前じゃろうか……あの頃はまだ、緑も豊かで海も近く、小さいながらも住み心地のいい村でのう。そんなこの村に、二人の夫婦がきおったのじゃ。物静かな男と、とても気立てのよさそうな娘での。男のほうは旅をする画家で、いろんな町を転々としている間に娘さんと知り合って結婚したそうじゃ。だがその結婚を家族に認めてもらえず、この村に住むようになった。ところが、男のほうがしばらくして病で死んでしまってのう。娘さんは、そのときおなかの中にいた男の子をひとりで育てたのじゃ。その息子が、アルセーイといってのう。とてもかわいくて明るくて、申し分なしの子供じゃった。それが……そう、ちょうど十三年前じゃ。突然、馬に乗った男どもがやってきて、手あたり次第家を焼き払い、目に入る村人らを皆殺しにしていったのじゃ……。訳がわからんかった。やつらの目的も何も、な。それで、村の者はほとんど死んでしまった。アルセーイの母親もな。生き残ったのは、このわしと、町や海へ出ていた者数人。それに、森で遊んでおったセーイと、仲のよかったもうひとりの子供じゃ。しかしセーイは無残に殺された母親を見て辛かったのか、村から姿を消して、それきり戻らんかった。あのときセーイは、まだ幼かったしのう、村も大変な状態じゃったから、あまり気にしてもいられんでな……。もうこの世にはおらんじゃろうと、諦めておったんじゃが……」
語り終わった老人は、再び寝台で眠っているフェランに目を移した。
「アルセーイも、生きておればこの青年くらいの年になるのう……」
「あの……」
ディオネが口を開いた。
「その、アルセーイと仲がよかった子供って、ひょっとして……ゼムズ、とかいいません?」
途端に老人は驚いた顔になった。
「ゼムズを知っておるのか!?」
「やっぱり!」
ディオネがぱっと顔を輝かせ、老人の肩を掴んだ。
「彼、ここに来てない!? あたしたち、ゼムズを探しにきたのよ!」
「お……おお、一か月ほど前に、傷だらけになって戻ってきおったぞ。それで、アルセーイが来たら連れて来いといっておったが……ではあれは、あいつのたわごとではなかったとうことか。まさか、この青年が本当に……?」
「ゼムズは今どこにいますか!?」
老人は外を指さした。
「そこを曲がったところにある家じゃ。この子は任せて、行ってきなさい」
そこは、蒸し暑くて薄暗い家だった。扉が開け放たれている。
「ゼムズ! いるの?」
反応はない。
「いないのかしら。やっと居場所がわかったのに……」
「それに、ゼムズもフェランのことを思い出したようなのにな」
エルシャがいう。おそらくゼムズも、フェランがアルセーイと同一人物だと気づいたに違いない。
ナイシェはゼムズを探して寝室らしき小部屋に入り、ふと壁にかかった一枚の絵を見つけた。美しく繊細な線と色彩の、やや大きめの絵だ。そこには、三人の人物が描かれていた。ひとりの少年と、その両親らしき男女。みな肩を組んで、幸せそうに微笑んでいる。
「……」
ナイシェは口を結んだまま、しばらくその絵に見入っていた。美しかったからではなく、その少年に、よく知った男性の面影を見つけたからだ。そばかすの目立つ、いたずらっぽい目をしたその少年に――。
「これ……」
いつのまにか隣に立ち、同じく絵を見つめるディオネが呟いた。
「――うん……」
ナイシェはただ一言、そう答えた。
そう――これは、ゼムズだ。ゼムズの子供のころの……。
胸が苦しくなった。
こんな幸せそうな家族から、どうやって十三年前の惨事を想像できるというのか――身を切られる想いで、死んでいく母親の体からかけらを取り出した、あの悲劇を。
そのときだった。
ことん。
入口のほうでかすかに物音がした。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
41
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる