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【第一部:王位継承者】第十四章
エルミーヌとエドール~神官を志した理由
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小鳥のさえずりと木の葉の揺れる音が耳に心地よい。そんな庭で、エルミーヌは草の上に腰をおろし読書をしていた。不意に、白く大きな手が現れて、彼女の両目をふさいだ。彼女はその温かい手に触れながらくすくすと笑った。
「まあ……エドールったら」
エドールは手を放すと微笑した。
「やはりわかってしまったか」
そういって隣に腰を下ろす。
「何の本?」
「他愛もない恋愛小説ですわ」
それを聞いてエドールが複雑な顔をする。エルミーヌはあわてて首を横に振った。
「いえ別に、意味はないのよ。本当に」
エドールは心配そうな顔をしていた。それもそのはずだ。あの日――緊急招集された貴族総会で、思いもよらないジュノレの告白がなされたとき、エド-ルはエルミーヌのすぐ隣にいた。エルミーヌは、身動きひとつせずに聞いていた。話が終わっても立ち尽くしたまま動く気配のない彼女がいよいよ心配になり、エドールは彼女の肩に手をかけそっと顔を覗き込んだのだ。彼女は、泣いていた。声もなく、静かにまぶたを閉じたまま、その両目からは二筋の涙が音もなく零れ落ちていた。何か思うより先に、エドールは彼女の体を胸に抱いていた。そのとき初めて、彼女の体が震え、顔をうずめたまま彼女は、嗚咽を漏らしたのだ――。
「本当に大丈夫です、私――自分でも、驚くくらいに」
エルミーヌが微笑んだ。
「もちろん、ジュノレ様が女性だと知ったときの衝撃は、言葉ではいい表わせないくらいでした。でも、あれから数日経って、今は……不思議なくらい、心が落ち着いているの。本当は私、ジュノレ様のことをそれほど好きではなかったんだわ、きっと。……いえ、もしかすると……」
エルミーヌはエドールの澄んだ瞳を見つめた。
「あなたの胸の中で――涙と一緒に、洗い流してしまったのかもしれない」
エドールの大きな手が、そっと彼女の頬に触れる。エルミーヌはほんのりと頬を赤らめ、少しだけうつむいた。それを見たエドールが、ためらいがちに手を引っこめた。
「ごめん、つい……」
「……いえ……」
エルミーヌは小さな声でそう呟いた。不自然な沈黙が流れる。彼女は静かに本を閉じると、少しだけエドールのほうへ寄り添った。柔らかい絹のドレスが、エドールの肩へかすかに触れる。エドールは、すぐ横の芝の上に置かれたエルミーヌの白い手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。優しく握ると、それに応えるように、エルミーヌの細い指が折りたたまれて自分の指に重なった。
エルシャは宮殿の南にある大きな湖のほとりを歩いていた。目的地は、しばらく歩いたところにある魔術訓練研究所だ。真っ白な壁で覆われた大きな建物だが、周りに茂る木々のせいか、こじんまりとした印象が強い。
ふと、昔の思い出がよみがえる。自分がこの場所で修業をしていたころの記憶だ。
それはエルシャが十三歳のときだった。乗馬の練習のため、彼は馬屋に来ていた。本来ならば父アルクスが一緒のはずだったが、急な用事で急遽母のリニアが同行することとなった。エルシャが騎乗しようとしたとき、突然馬が暴れだして、倒れたリニアの胸を前足で踏んだのだ。おつきの者がすぐに人を呼びに行ったが、医師たちが到着したときにはすでに遅く、リニアは息をしていなかった。彼女は若いエルシャの目の前で、その命を失った。そのとき、エルシャは思ったのだ――自分に白魔術が使えていれば、母を救うことができたかもしれない、と。病を治すことはできなくとも、人間の再生能力を極限まで高める白魔術ならば、たいていの怪我は治すことができる。
母を助けられなかった罪悪感から逃れるかのように、エルシャは白魔術師を目指した。しかし、魔術師を目指しその訓練を受けるのは、簡単なことではなかった。魔術とはその特性上、使い方によっては己や他人、さらには国までをも滅ぼす可能性がある危険なものだ。三大魔術の習得は、厳格な調査と適性検査を合格した者しか許されなかった。そして、当時のエルシャは、この条件を満たさなかった――本人の問題ではなく、状況の問題だった。近しい親族が死去して一年未満の者は、その精神の不安定性を懸念され、魔術の習得は禁じられていたのだ。
エルシャは、その一年を待つのではなく、修業過程に白魔術習得が義務付けられている神官の道を選んだ。正直にいえば、神などという存在はあまり好きではなかった――母の死があったから。しかし、神官の位が上がり、白魔術を極めるにつれて、彼の中で何かが変わっていった。神というものを表面上でしか知らない者は、人を殺してはいけないとか、心に悪を持ってはいけないとか、そんなことをいう。しかし、目に見えない神を信仰し己を鍛錬するというのは、浅はかな人間の考える神の枠からは逸脱した境地だった。そのことを、エルシャは、十年以上かけて学んだのだ。
葉の間から漏れる陽の光が、何者かを照らし出した。エルシャは目を細めた。
「……兄上?」
耳慣れた声に、エルシャの顔がほころぶ。
「リキュスか……いや、今は国王陛下だな」
リキュスは苦笑した。
「やめてください、兄上まで」
エルシャもつられて微笑んだ。
「そうだな。……リキュス、こんなところで何を?」
「そうですね……突然の環境の変化に適応できずに、人目につかない場所へ逃げ出したのを兄上に見つかった……といったところでしょうか」
エルシャは声をあげて笑った。
「それは申し訳なかったな。……やはり、国王というのは重荷か?」
「正直にいうと、自分が国王になるなんて、まったく想定していませんでしたからね……。継承順も四位でしたし、何より正統な王族の血筋ではありませんから」
「だが、貴族たちはそれを知ったうえでおまえの即位を承認したんだ。血筋など、いつまでも気にしなくていい」
リキュスは難しそうに微笑んだ。
「ありがたいお言葉ですが、そうは思っていない方々も実際には多いのが現実です――特に、王族の中にはね」
「さらに重荷を課すようだが……ジュノレのいうとおり、おまえには国を率いる適性があると思う。おまえは常に冷静で、物事を俯瞰で捉えることができる。善悪の判断がつき、それを適切に使い分けることができる。そうだろう?」
リキュスは含み笑いをした。
「適切に使い分ける、ですか……。確かに、そうかもしれませんね。国王は、ただ正しいだけでは務まらないでしょうから」
エルシャは楽しそうに弟の肩を叩いた。
「そのとおり。おまえは実に頼もしい国王だよ」
「……兄上は、気になさらないのですか?」
リキュスが尋ねた。
「何を?」
リキュスがいいづらそうに口を開く。
「兄上は……王位継承順ではジュノレ様に次ぐ三位でした。お人柄も申し分ない。確かに、継承順など形だけで、実際は国王の遺志を継ぐことが多いとはいえ……」
エルシャはまったく意にも介していないようだった。
「悪いが、俺は自由気ままがいい。ジュノレも、それをわかっていておまえを推薦したんじゃないのか? それに、さっきもいったように、適性はおまえのほうがあると思っている。これは本心だよ、気にするな」
リキュスはほっとしたように微笑んだ。
「……兄上は、どちらへ?」
エルシャの表情が険しくなった。
「俺は、ジルバ殿のところへ……。ジュノレの容態が、手を尽くしてもまったく変わらないらしい。その件で、ね」
リキュスの顔も曇る。エルシャは弟を見つめていった。
「俺は、またしばらく宮殿を留守にすることになると思う。宮殿のことは、頼んだぞ」
リキュスは硬い表情でうなずいた。
「承知いたしました」
「まあ……エドールったら」
エドールは手を放すと微笑した。
「やはりわかってしまったか」
そういって隣に腰を下ろす。
「何の本?」
「他愛もない恋愛小説ですわ」
それを聞いてエドールが複雑な顔をする。エルミーヌはあわてて首を横に振った。
「いえ別に、意味はないのよ。本当に」
エドールは心配そうな顔をしていた。それもそのはずだ。あの日――緊急招集された貴族総会で、思いもよらないジュノレの告白がなされたとき、エド-ルはエルミーヌのすぐ隣にいた。エルミーヌは、身動きひとつせずに聞いていた。話が終わっても立ち尽くしたまま動く気配のない彼女がいよいよ心配になり、エドールは彼女の肩に手をかけそっと顔を覗き込んだのだ。彼女は、泣いていた。声もなく、静かにまぶたを閉じたまま、その両目からは二筋の涙が音もなく零れ落ちていた。何か思うより先に、エドールは彼女の体を胸に抱いていた。そのとき初めて、彼女の体が震え、顔をうずめたまま彼女は、嗚咽を漏らしたのだ――。
「本当に大丈夫です、私――自分でも、驚くくらいに」
エルミーヌが微笑んだ。
「もちろん、ジュノレ様が女性だと知ったときの衝撃は、言葉ではいい表わせないくらいでした。でも、あれから数日経って、今は……不思議なくらい、心が落ち着いているの。本当は私、ジュノレ様のことをそれほど好きではなかったんだわ、きっと。……いえ、もしかすると……」
エルミーヌはエドールの澄んだ瞳を見つめた。
「あなたの胸の中で――涙と一緒に、洗い流してしまったのかもしれない」
エドールの大きな手が、そっと彼女の頬に触れる。エルミーヌはほんのりと頬を赤らめ、少しだけうつむいた。それを見たエドールが、ためらいがちに手を引っこめた。
「ごめん、つい……」
「……いえ……」
エルミーヌは小さな声でそう呟いた。不自然な沈黙が流れる。彼女は静かに本を閉じると、少しだけエドールのほうへ寄り添った。柔らかい絹のドレスが、エドールの肩へかすかに触れる。エドールは、すぐ横の芝の上に置かれたエルミーヌの白い手に、ゆっくりと自分の手を重ねた。優しく握ると、それに応えるように、エルミーヌの細い指が折りたたまれて自分の指に重なった。
エルシャは宮殿の南にある大きな湖のほとりを歩いていた。目的地は、しばらく歩いたところにある魔術訓練研究所だ。真っ白な壁で覆われた大きな建物だが、周りに茂る木々のせいか、こじんまりとした印象が強い。
ふと、昔の思い出がよみがえる。自分がこの場所で修業をしていたころの記憶だ。
それはエルシャが十三歳のときだった。乗馬の練習のため、彼は馬屋に来ていた。本来ならば父アルクスが一緒のはずだったが、急な用事で急遽母のリニアが同行することとなった。エルシャが騎乗しようとしたとき、突然馬が暴れだして、倒れたリニアの胸を前足で踏んだのだ。おつきの者がすぐに人を呼びに行ったが、医師たちが到着したときにはすでに遅く、リニアは息をしていなかった。彼女は若いエルシャの目の前で、その命を失った。そのとき、エルシャは思ったのだ――自分に白魔術が使えていれば、母を救うことができたかもしれない、と。病を治すことはできなくとも、人間の再生能力を極限まで高める白魔術ならば、たいていの怪我は治すことができる。
母を助けられなかった罪悪感から逃れるかのように、エルシャは白魔術師を目指した。しかし、魔術師を目指しその訓練を受けるのは、簡単なことではなかった。魔術とはその特性上、使い方によっては己や他人、さらには国までをも滅ぼす可能性がある危険なものだ。三大魔術の習得は、厳格な調査と適性検査を合格した者しか許されなかった。そして、当時のエルシャは、この条件を満たさなかった――本人の問題ではなく、状況の問題だった。近しい親族が死去して一年未満の者は、その精神の不安定性を懸念され、魔術の習得は禁じられていたのだ。
エルシャは、その一年を待つのではなく、修業過程に白魔術習得が義務付けられている神官の道を選んだ。正直にいえば、神などという存在はあまり好きではなかった――母の死があったから。しかし、神官の位が上がり、白魔術を極めるにつれて、彼の中で何かが変わっていった。神というものを表面上でしか知らない者は、人を殺してはいけないとか、心に悪を持ってはいけないとか、そんなことをいう。しかし、目に見えない神を信仰し己を鍛錬するというのは、浅はかな人間の考える神の枠からは逸脱した境地だった。そのことを、エルシャは、十年以上かけて学んだのだ。
葉の間から漏れる陽の光が、何者かを照らし出した。エルシャは目を細めた。
「……兄上?」
耳慣れた声に、エルシャの顔がほころぶ。
「リキュスか……いや、今は国王陛下だな」
リキュスは苦笑した。
「やめてください、兄上まで」
エルシャもつられて微笑んだ。
「そうだな。……リキュス、こんなところで何を?」
「そうですね……突然の環境の変化に適応できずに、人目につかない場所へ逃げ出したのを兄上に見つかった……といったところでしょうか」
エルシャは声をあげて笑った。
「それは申し訳なかったな。……やはり、国王というのは重荷か?」
「正直にいうと、自分が国王になるなんて、まったく想定していませんでしたからね……。継承順も四位でしたし、何より正統な王族の血筋ではありませんから」
「だが、貴族たちはそれを知ったうえでおまえの即位を承認したんだ。血筋など、いつまでも気にしなくていい」
リキュスは難しそうに微笑んだ。
「ありがたいお言葉ですが、そうは思っていない方々も実際には多いのが現実です――特に、王族の中にはね」
「さらに重荷を課すようだが……ジュノレのいうとおり、おまえには国を率いる適性があると思う。おまえは常に冷静で、物事を俯瞰で捉えることができる。善悪の判断がつき、それを適切に使い分けることができる。そうだろう?」
リキュスは含み笑いをした。
「適切に使い分ける、ですか……。確かに、そうかもしれませんね。国王は、ただ正しいだけでは務まらないでしょうから」
エルシャは楽しそうに弟の肩を叩いた。
「そのとおり。おまえは実に頼もしい国王だよ」
「……兄上は、気になさらないのですか?」
リキュスが尋ねた。
「何を?」
リキュスがいいづらそうに口を開く。
「兄上は……王位継承順ではジュノレ様に次ぐ三位でした。お人柄も申し分ない。確かに、継承順など形だけで、実際は国王の遺志を継ぐことが多いとはいえ……」
エルシャはまったく意にも介していないようだった。
「悪いが、俺は自由気ままがいい。ジュノレも、それをわかっていておまえを推薦したんじゃないのか? それに、さっきもいったように、適性はおまえのほうがあると思っている。これは本心だよ、気にするな」
リキュスはほっとしたように微笑んだ。
「……兄上は、どちらへ?」
エルシャの表情が険しくなった。
「俺は、ジルバ殿のところへ……。ジュノレの容態が、手を尽くしてもまったく変わらないらしい。その件で、ね」
リキュスの顔も曇る。エルシャは弟を見つめていった。
「俺は、またしばらく宮殿を留守にすることになると思う。宮殿のことは、頼んだぞ」
リキュスは硬い表情でうなずいた。
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