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【第一部:王位継承者】第九章

それぞれの理由

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 やめて……やめて。もうほうっておいてくれ。私は何もしない、ここを去るから……頼むから、ほうっておいてくれ……。

 襲い掛かる何十人もの輩。金の亡者だ。金のためだけに、嬉々として彼を追う。逃げ場のない街。さながら猫の手の内で踊らされる鼠のような、行き止まりしかない迷路。襲い来る狂気を振り払いながら、彼は走り続けた――あてもなく。

 生きて、帰れるだろうか。……帰る? どこに? 帰る家もない。私は名もない人間として、名もない人間たちに殺されるのだ。嫌だ……ほうっておいてくれ! お願いだ――!





 ジュベールはゆっくりと目を開けた。意識を手放す直前、悪夢の中にいた自分に差し伸べられた温かい腕が幻だったのを知ることに恐れを抱いているかのように。
 しかし、目の前にいるのは、確かに彼だった。

「……気がついたか」

 彼が、口を開く。耳を疑いつつ、ジュベールは呟いた。

「……エルシャ……?」

 エルシャはにっこりと笑った。

「エルシャなのか……本当に……?」

 エルシャがジュベールの額を軽く小突く。

「疑い深いやつだな。俺だよ」

 そのとき初めて、ジュベールはエルシャの手をきつく握り締めていることに気づき、あわてて放した。

「す、すまない」
「いや……ずいぶんうなされていたから、無理やり起こそうかとも思ったんだが」

 ジュベールは身を起こした。その瞳は本来の輝きを取り戻し、頭はすばやく回転を始める。そして、はっとしたようにエルシャを見つめた。

「おまえ……宮殿で、神託を受けて部屋に閉じこもっていたんじゃ……」

 エルシャがいぶかしげな顔をする。

「誰だ、そんなことをいったのは。俺はもう二ヶ月近く前からずっと宮殿には戻っていないぞ。……あ、ひょっとして、リキュスのやつが気を利かせた……つもり、なのか。あいつならやりかねんからな、俺が出て行ったのに気づいてうまく騒ぎにならないようにしたんだな」
「そう……だったのか……」
「それより、おまえは?」

 エルシャが尋ねた。ジュベールは決まり悪そうにしている。

「ああ……母上に、嫌気が差してね。啖呵きって、出てきてしまった。それでこの町に入ったら……」

 エルシャは無言でうなずいた。

 血のつながった親族でさえも、王位のためなら殺すことをいとわない、冷徹な人間。あいつしか、いまい。

「帰るつもりはないのか」
「……ああ。悔しいけれど、あそこにい続ける限り、私は母上のいいなりにしかなれない……。自分を殺して生き続けるくらいなら、もう母上の顔は二度と見ないと、心に決めたんだ」

 そう話すジュベールの目に、決意に入り混じって僅かな畏れの色が宿っているのを、エルシャは見逃さなかった。

 そうだ……あの伯母も、ジュベールを王にするためなら殺人すら犯すだろう。

「しかし、この町から出ることができても、あいつはしつこくおまえを追うだろう。それでも?」

 ジュベールは目を伏せた。しかし、断固としていった。

「それでも、宮殿よりはましだ。私に宮殿へ戻る気がないことがわかれば、あいつも手を引くだろう」

 エルシャは深くため息をついた。

「そうか……本当は宮殿でおとなしくしていてほしいが……しようがないな。おまえの決めたことだ、決心は固いんだろう」

「エルシャは」
 ジュベールがいった。
「どうして、こんなところに?」

 エルシャは頭の後ろに腕を組んで伸びをした。

「そうだなあ。堅苦しい生活が嫌になったってのと……さるお方からの、依頼ってところかな」

 さるお方――エルシャがそんないい方をする相手は、一人しかいない。

「でも、まさか……そんなこと何百年も――」

 ジュベールが絶句していると、エルシャが微笑んだ。

「お、おまえなかなか鋭いな。ところが、そうなんだ。当の俺自身も驚いたけどな」
「その、神が……直々に、おまえに……何を依頼したっていうんだ――」

 まだ驚きを隠せないジュベールの問いかけが終わらないうちに、扉が開いて三人が姿を現した。

「気がついたんですね。これ、お水です」

 ナイシェがジュベールの前にコップを差し出した。

「あ、ありがとう。えーと……」
「ナイシェです」

 ナイシェが微笑んだ。エルシャが進み出た。

「紹介するよ。こちら、トモロスで知り合った姉妹、ディオネとナイシェ。それからこれが……」

 そこまでいい、はっとして口をつぐんだ。フェランの顔にも焦りが見える。気づかれる前に紹介をと思ったとき、ジュベールが先に口を開いた。

「君……どこかで……」
「あの、僕は、エルシャの友人でフェ――」
「ああ! 君か!」

 フェランの言葉はジュベールの声にかき消されてしまった。

「フェリラだ! 君、エルシャの侍女のフェリラだろう。そうか、髪を結んでいたからわからなかった。ここら辺は危険だから男の格好をしていたんだね」

 フェランはみるみると青ざめ、何かいおうと口を開くももっともらしい言い訳はなにも出てこなかった。するとナイシェがフェランを上から下まで眺め回した。

「フェランって……女の子だったの!?」

 今度は真っ赤になってフェランが否定する。

「いや、あの、れっきとした男で、その、これには深い訳があって……」

 そこで、笑いをかみ殺しながらだんまりを決めているエルシャのほうへ振り返った。

「エルシャ! 笑ってないで、何とかいってください! こうなったのもすべてあなたのせいなんですから!」

 エルシャは憤るフェランを制しながらひとつ咳払いをすると、話し始めた。

「ああ、そうだな、悪い悪い……。こいつは正真正銘の男なんだが……。実はね、俺が初めてこいつに会ったときに……あれはおまえが五歳くらいのときかな。あんまりかわいいものだから女の子と間違えて家族に紹介してしまったんだ。しばらくしてから男だと気づいたんだけどね。おまえは記憶を失っていたし、家柄もわからない子供だったから、あの場で男だとばれたら、せいぜい庭掃除や馬小屋あたりに配属されていたんだろうな。だが、俺が気づいたときには……なんていうか、情が移ったとでもいうのか、こいつがあまりに寂しそうな目をしているもんだから、どうにかしてそばに置いておきたくてね……女なら、俺が希望すれば俺付きの侍女になるだろうと思って、女でいるよう説得したんだよ」

「そういうわけで、これからはフェランとお呼びいただければ助かります……ジュベール様……」

 うなだれながら、フェランは何とかそれだけ伝えた。
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