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【第一部:王位継承者】第八章
台所女たちのたわごと②
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底の抜けるような青空の下、イメルダは木箱に入った肉を厨房へと運んでいた。まだ己の使用人をほとんど持たないアルマニア宮殿の下級貴族――『貴族の見習い』とすらいわれる――の朝食は、みな同時刻同じ献立で給仕される。彼女の箱の中には八十人分の肉が入っていた。積み重なるそれのせいですぐ目の前も見えず、足元もおぼつかない。それでも毎朝歩き慣れている道、とイメルダは砂利道を颯爽と歩いていた。
「おはよう。毎朝大変ね。私もひとつくらい持っていいかしら」
不意に彼女の後ろで美しい女声がした。イメルダは首だけ捻じ曲げた。そして声の主を認めると、途端にあわてた。
「マ、マニュエル公爵夫人! お、おはようございます」
薄紫のドレスに身を包んで、彼女は立っていた。年のころは十七、八――しかしその顔はやせ細り、五、六歳は老けて見えた。夫人はにこりと微笑んだが、その笑みに昔の力強さはない。
「さあ、一番上の箱をちょうだいな。厨房まででしょう」
「そんな、滅相もございません! あの、とてもうれしいですけど、恐れながら、私のような者に、そのようなお言葉は……」
「まあ・・・・・・そうね、かえって迷惑がかかってしまうかもしれませんしね。でも、せめて厨房までお付き合いしてよろしいかしら」
「そんな……に、肉の臭いが染みついてしまいますわ」
「いいから、私には構わず歩いていらして」
あまり断るのも失礼だと思い、イメルダは仕方なく歩き出した。夫人は横を歩きながら話し始めた。
「私ね、昔から男の子に生まれていたらと思うのよ。もし男の子だったら、ズボンを履いて元気に走り回れるし、こういうときも手伝ってあげられるし」
イメルダはそれを聞いてふといつしか自分を助けてくれた男性を思い出した。
「どうかして?」
「あの……一ヶ月ちょっと前かしら、私、この道を、今のように食料運んでいまして、つまづいてしまいましたの。そのとき偶然ジュベール様がいらして…・・・いろいろと、お世話になりましたの」
「まあ……そう……ジュベール様に……」
夫人がふと遠くを見るような目つきで呟く。
「あの……?」
不思議そうに問うイメルダに、夫人は小さく微笑んだ。
「ごめんなさい、なんでもないのよ。……ジュベール様は、とても素敵な方よね。誤解を招きやすい性格だけれど」
「ええ、私も大好きなんです」
夫人はくすりと笑った。その笑みはどこかさびしげで、数ヶ月前の彼女とは似ても似つかない。
……きっと、つらい毎日を送っていらっしゃるんだわ。
イメルダは思った。
「あの、私、ここですので……」
イメルダが歩みを止めた。
「ああ、そうね。勝手についてきてしまってごめんなさい。お料理がんばって」
夫人はそう微笑むともと来た道を去っていった。
「あの! ありがとうございました!」
イメルダは木箱を抱えながらそう叫んだ。夫人が笑いながらいいのよ、という。そんな彼女に、イメルダは胸が苦しくなるのを感じた。耐え切れず、彼女は再び叫んだ。
「私、男の子になりたいっておっしゃるようなエルミーヌ様が大好きです! 何があっても、そういうエルミーヌ様のほうがいきいきとしてらして素敵だと思います!」
遠くのほうで夫人の声がかすかに聞こえた。
「ありがとう! そうしてみるわ!」
厨房は朝食の準備にてんてこ舞いだった。イメルダはきゅうりを刻みながらいった。
「さっきね、エルミーヌ様に会ったの」
途端に数人の台所女が高い声で叫ぶ。
「うそ! どうだった、ご様子は!」
「うん、それが前にも増してお痩せでおいででね、そんなに新婚生活が嫌なのかなって思っちゃった」
「だってまだ新婚ほやほやでしょ」
そのとき別の女が自慢げにいった。
「あら、知らないの。あの結婚、表向きだけなのよ」
「えー!? なにそれ!」
彼女は思わせぶりにひとつ咳払いをすると話し始めた。
「つまりね、エルミーヌ様とマニュエル公爵は好き合ってはいないってこと。どうやら二人とも、別に好きな人がいるらしいのよね」
「えー! それってば浮気じゃない!」
「だから! 二人ともさ、特に公爵なんてもうすぐ三十歳だから、そろそろ結婚しないとやばいじゃない? だから、浮気公認って条件つきでとりあえず結婚したの。だけど、公認といえどもやっぱりエルミーヌ様には負担になってるらしいわよ」
「だからあんなにお痩せになって……」
「それにしても、あんなに痩せるなんて変よ。ほかに理由があるんじゃないの」
すると、赤毛の女が野菜を洗いながらいった。
「それなんだけど……あたし、エルミーヌ様はきっとジュベール様を好きなんだと思うわ。ほら、ジュベール様って一か月以上前から全然お姿をお見かけしないじゃない。落胆しちゃったエルミーヌ様にあの縁談が来て、仕方なしに結婚しちゃったんだと思うわよ、あたしは」
「そういえば今朝ジュベール様の話したら、エルミーヌ様の様子が変わっちゃって」
イメルダがいう。
「やっぱり! きっとそうだわ!」
そのとき、奥から料理長がしかめ面で出てきた。
「おまえたち少しは口を閉じて仕事しろ!」
女たちはしぶしぶといった体でそれぞれの持ち場につくと、「もう、いっつもいいところで……」と文句をいい始めた。
「おはよう。毎朝大変ね。私もひとつくらい持っていいかしら」
不意に彼女の後ろで美しい女声がした。イメルダは首だけ捻じ曲げた。そして声の主を認めると、途端にあわてた。
「マ、マニュエル公爵夫人! お、おはようございます」
薄紫のドレスに身を包んで、彼女は立っていた。年のころは十七、八――しかしその顔はやせ細り、五、六歳は老けて見えた。夫人はにこりと微笑んだが、その笑みに昔の力強さはない。
「さあ、一番上の箱をちょうだいな。厨房まででしょう」
「そんな、滅相もございません! あの、とてもうれしいですけど、恐れながら、私のような者に、そのようなお言葉は……」
「まあ・・・・・・そうね、かえって迷惑がかかってしまうかもしれませんしね。でも、せめて厨房までお付き合いしてよろしいかしら」
「そんな……に、肉の臭いが染みついてしまいますわ」
「いいから、私には構わず歩いていらして」
あまり断るのも失礼だと思い、イメルダは仕方なく歩き出した。夫人は横を歩きながら話し始めた。
「私ね、昔から男の子に生まれていたらと思うのよ。もし男の子だったら、ズボンを履いて元気に走り回れるし、こういうときも手伝ってあげられるし」
イメルダはそれを聞いてふといつしか自分を助けてくれた男性を思い出した。
「どうかして?」
「あの……一ヶ月ちょっと前かしら、私、この道を、今のように食料運んでいまして、つまづいてしまいましたの。そのとき偶然ジュベール様がいらして…・・・いろいろと、お世話になりましたの」
「まあ……そう……ジュベール様に……」
夫人がふと遠くを見るような目つきで呟く。
「あの……?」
不思議そうに問うイメルダに、夫人は小さく微笑んだ。
「ごめんなさい、なんでもないのよ。……ジュベール様は、とても素敵な方よね。誤解を招きやすい性格だけれど」
「ええ、私も大好きなんです」
夫人はくすりと笑った。その笑みはどこかさびしげで、数ヶ月前の彼女とは似ても似つかない。
……きっと、つらい毎日を送っていらっしゃるんだわ。
イメルダは思った。
「あの、私、ここですので……」
イメルダが歩みを止めた。
「ああ、そうね。勝手についてきてしまってごめんなさい。お料理がんばって」
夫人はそう微笑むともと来た道を去っていった。
「あの! ありがとうございました!」
イメルダは木箱を抱えながらそう叫んだ。夫人が笑いながらいいのよ、という。そんな彼女に、イメルダは胸が苦しくなるのを感じた。耐え切れず、彼女は再び叫んだ。
「私、男の子になりたいっておっしゃるようなエルミーヌ様が大好きです! 何があっても、そういうエルミーヌ様のほうがいきいきとしてらして素敵だと思います!」
遠くのほうで夫人の声がかすかに聞こえた。
「ありがとう! そうしてみるわ!」
厨房は朝食の準備にてんてこ舞いだった。イメルダはきゅうりを刻みながらいった。
「さっきね、エルミーヌ様に会ったの」
途端に数人の台所女が高い声で叫ぶ。
「うそ! どうだった、ご様子は!」
「うん、それが前にも増してお痩せでおいででね、そんなに新婚生活が嫌なのかなって思っちゃった」
「だってまだ新婚ほやほやでしょ」
そのとき別の女が自慢げにいった。
「あら、知らないの。あの結婚、表向きだけなのよ」
「えー!? なにそれ!」
彼女は思わせぶりにひとつ咳払いをすると話し始めた。
「つまりね、エルミーヌ様とマニュエル公爵は好き合ってはいないってこと。どうやら二人とも、別に好きな人がいるらしいのよね」
「えー! それってば浮気じゃない!」
「だから! 二人ともさ、特に公爵なんてもうすぐ三十歳だから、そろそろ結婚しないとやばいじゃない? だから、浮気公認って条件つきでとりあえず結婚したの。だけど、公認といえどもやっぱりエルミーヌ様には負担になってるらしいわよ」
「だからあんなにお痩せになって……」
「それにしても、あんなに痩せるなんて変よ。ほかに理由があるんじゃないの」
すると、赤毛の女が野菜を洗いながらいった。
「それなんだけど……あたし、エルミーヌ様はきっとジュベール様を好きなんだと思うわ。ほら、ジュベール様って一か月以上前から全然お姿をお見かけしないじゃない。落胆しちゃったエルミーヌ様にあの縁談が来て、仕方なしに結婚しちゃったんだと思うわよ、あたしは」
「そういえば今朝ジュベール様の話したら、エルミーヌ様の様子が変わっちゃって」
イメルダがいう。
「やっぱり! きっとそうだわ!」
そのとき、奥から料理長がしかめ面で出てきた。
「おまえたち少しは口を閉じて仕事しろ!」
女たちはしぶしぶといった体でそれぞれの持ち場につくと、「もう、いっつもいいところで……」と文句をいい始めた。
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