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【第一部:王位継承者】第六章

五人目の旅人

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 姉の胸の中に顔をうずめていると、次第に呼吸が楽になってきた。徐々に、気が狂うほど早鐘を打っていた心臓が落ち着き始める。

 私は、姉さんと再会できたんだ。

 いい聞かせるように頭の中でそういってみたが、まだ混乱と震えは収まらない。ディオネが、妹を抱く腕に力を込めた。

「家に帰ろう、ナイシェ」

 そういって血まみれの少女に自分の上着をかけた。そのとき、物陰から三人の男が姿を現した。

「ナイシェ!」

 そのうちの一人が、高い声とともにナイシェに駆け寄る。

「フェラン! ……エルシャとゼムズも……」

 ナイシェは姉から離れず目だけ三人へ向けた。エルシャが血の海とそれに浸っているいくつもの肉片を見て、顔をしかめた。

「人間業じゃないな……その血は、返り血か?」

 ナイシェが小さくうなずく。あたりを見回したゼムズは、半ば呆然としていた。

「まさか、助かるとは……」

 心底驚いているようだった。

「彼が予見したから、追いかけてきたんです」

 フェランの言葉に、ディオネが反応する。

「予見……? サラマ・アンギュースなの……?」

 三人の男性がはっとように彼女に注目した。それに気づき、ナイシェが口を開いた。

「あ、私の姉の、ディオネ。今ここで、……偶然、会えて……――」

 ふいに、ナイシェは自分の気が遠くなるのがわかった。一度に、いろんなことがありすぎた。四人の呼ぶ声が遠くのほうでこだまし、やがて視界がぼやけ始め、彼女の意識は闇の淵へと吸いこまれていった。





 それは柔らかな感触だった。自分の髪をそっと、ゆっくり撫でる手。母親のように優しいその動き。小さい頃から、心の波を幾度も鎮めてくれた手。懐かしい感触――。
 ナイシェは静かに目を開いた。視界に映ったのは、りりしい目をした女性。十五年間会いたくて会いたくて、でも会えなくて、やっと再会できた愛しい姉だった。

「ディオネ姉さん……」

 ナイシェは呟くようにいった。ディオネはにこっと笑った。

「よかった、思ったより早く目が覚めて」
「ここは……」

 ナイシェはあたりを見回した。エルシャたち三人と一緒に泊まっている宿屋の寝室のようだ。

「とりあえずここに来させてもらったの。事情は三人に聞いたよ。エルシャとフェランに助けてもらったことも、ゼムズと会ったときのことも」

 ディオネがそう説明する。

「……つらい目にあったのね……。ごめんね、あたしにあんたを育てていく力がなかったばっかりに……」
 ディオネの目にうっすらと涙が浮かぶ。
「あんたを忘れたことは、一度もなかった。何度も後悔したよ、一座に預けなければよかったって。もしかしたら一座がもう一度この町にやってくるか、そしたら絶対一緒に暮らそう……そう思ってたの。それにあんたがいつ帰ってきてもいいように、どんなに生活が苦しくなってもここに留まっていようと誓った。……そして神は、あたしたちを巡り合わせてくださったんだわ……」

 ディオネの声を聞きながら、ナイシェはたまらず嗚咽を漏らした。ディオネはそっと妹を抱きしめた。

「おかえり、ナイシェ」

 ナイシェは姉の胸の中で声をあげて泣いた。





 かちゃり、と扉が開き、寝室からナイシェとディオネが出てきた。

「もう具合はいいんですか」

 フェランの問いに、ナイシェはうなずいた。

「迷惑かけてごめんなさい」
「何いってんだ、助かってよかった」

 エルシャがいう。ナイシェは一人そっぽを向いているゼムズに気づいた。

「あの……ゼムズ、ありがとう。あなたが予見してくれたのよね……」

 ゼムズは自嘲するように笑った。

「どうして礼なんていうんだ……俺は、知っていながら見捨てようとしたんだぜ」
「でも、助けに来てくれたわ」
「……」

 ゼムズは何もいわなかった。ふいにフェランが口を開いた。

「シレノスであることがどれくらいつらいのかはわからないけれど、未来が視えるということは、きっと何かの意味があるんだと思います。それがどんな結果になろうと、きっとそれが、計り知れない神の御心なんだと思います……」

「……そうかもしれないな……」
 ゼムズはいった。
「この力だって神がくれたもんだ。その神が俺に予見させるってことは、それなりの意味があるんだもんな……」

「それよりさ、そろそろ夕食の時間だよ。みんなこんなところさっさと出てさ、あたしたちの家に来てよ。ご馳走する!」

 ディオネが威勢よくいう。五人は早速宿を引き払ってディオネとナイシェの家へ向かった。





「うっめぇ、こんなおいしい料理食ったのは初めてだ」

 丸い食卓を囲んで、ゼムズが肉にかぶりつく。四人はそんなゼムズに圧倒され、しばし言葉を失っていた。彼はものの一分としないうちに一皿たいらげ、七面鳥の丸焼きにとりかかっていた。

「ここんところろくなメシ食ってなかったからな、もう天国だぜ」

 一人でぶつぶついいながら、それでも休まず手を動かして食べている。ゼムズはふとエルシャとフェランに目を留めると、いとも平然といった。

「おいおい、こんな料理をナイフとフォークでちまちま食べてちゃまずくなっちまうぜ。ほら、もっとかじりつけよ。……あ、そういえば、おまえらは『坊ちゃま』だったっけ。こういうとき損だよな、おまえらみたいな奴は」

 二人の『坊ちゃま』は互いに顔を見合わせると苦笑した。

「ねえ、それより……」
 ナイシェが口を開いた。
「いつ、また旅に出るの?」

 もともと、ナイシェのエルシャたちとの旅は、姉と再会するまでの予定だった。単純な問いの裏に、わずかな寂しさが見え隠れする。

「いつまでいても、うちはいいよ」

 ディオネがいう。

「そうですね……急ぐ旅でもないし」

 フェランが答えた。すると、不意にゼムズが食事の手を止めた。

「ん……そのことなんだがな」
 手の甲で口の周りを拭う。
「やっぱりナイシェの姉さんだけあってな、あんた信頼できそうだからいうけど」
 ゼムズは真顔でディオネを見つめた。
「俺が予見した中に、男三人、女二人で旅している場面があったんだ。男は俺たち三人で、女は、ナイシェと……あんた、ディオネ」

「え……」

 ディオネは目を丸くした。

「今朝あんたを初めて見たときにわかったんだ。俺が視たきつそうな感じの女だとね」
「じゃあ、あのとき話していた人は姉さんだったの!」

 ナイシェが叫んだ。

「ああ。今思えば、俺たち五人で旅をする場面をすでに視ていたんだ。その前にナイシェが血だらけになって死ぬなんて、俺の早とちりだったわけだな」

 ひとり納得したようにゼムズが呟く。しかしディオネはそれを聞いて笑い出した。

「そりゃまた突拍子もない話だわ。あんたの予見の力も大したことないね。だってあたしはこの家を出る気はさらさらないからさ。ナイシェが帰ってきた今となっては、絶対にね」
「俺にもわかんねえよ、神が何を考えているのか。だけどな、あんたは絶対俺たちと一緒に旅をする羽目になるんだ!」

 ゼムズが声を荒げる。ディオネの口元から笑みが消えた。

「……ごめん、今いったのは嘘だよ……。あんたはシレノスだ。その力はわかってるつもりだよ。ただあたしは、やっと一緒になれたナイシェと、この家で――あたしたちの家で、普通の暮らしがしたいんだよ……」
「姉さん……」

 不意に、ナイシェの頭にあの少年の言葉が浮かんだ。

 ――つらい旅になると思う。人を探す旅――

 姉さんは、私が旅に出ることになるかもしれないと知ったら、どんな思いをするだろう……。

「とりあえず」
 ゼムズがいった。
「考えといてくれよ……俺だって、好きで引っ張ってくわけじゃないからな」

 そしてかたりと席を立った。

「ごちそうさん。おいしかったぜ」

 彼はそのまま寝室へと姿を消した。
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