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【第一部:王位継承者】第三章
白魔術を使う神官
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「待て! カルヴァが天幕で待ってるぞ!」
エルシャは軽やかに逃げてゆく少女の手首をぐいとつかんだ。それでも、少女は顔をそむけたままだった。
「ナイシェ」
フェランが、そっとナイシェの肩に手を置いた。肩が、震えている。寒さのためだけではなかった。
「ナイシェ、こんなところにいると病気になるよ……」
エルシャがそういったときだった。
「う……っ」
ナイシェが突然、エルシャの胸に顔をうずめた。
「うう……っ」
ナイシェは声を殺して泣いていた。
「わ……私……」
体を震わせて嗚咽する小さな少女の髪を、エルシャはそっと撫でた。
「大声で、泣いてしまえよ。すっきりするぞ」
しかし少女は、小さく首を振っただけだった。
「……ごめんなさい。私……帰れない……。そう伝えてください」
ナイシェは顔を背けて再び雨の中駆け出そうとした。しかし、エルシャが放さなかった。
「そんなにひどいことを? いや、俺の口出すことではないが……とにかく、そんな格好で歩いていたら目立つし、この雨だ。外を出歩くのは……」
エルシャはいいながらナイシェの顔を覗きこんだ。しかし、ナイシェは慌てて横を向いた。
「どうしたんだ」
エルシャは嫌がるナイシェの顔を両手で包みこむようにはさむと、無理やり前を向かせた。
「やだ! 放して……!」
暗闇の中、街灯がわずかに照らし出したのは、青く腫れた唇の端と、そこからにじむ血。明らかに、殴られた痕だった。ナイシェは素早く醜い青あざを片手で隠した。しばらくの沈黙の後、フェランがいった。
「ニーニャに……?」
ナイシェは唇をかんだまま何もいわない。
「……傷を見せてごらん」
エルシャが優しくいった。しかし、少女は動かなかった。エルシャは小さくため息をつくと、掌でゆっくりと傷口に触れた。
「や……」
その手を振り払おうとして、ナイシェは不思議な感覚に襲われた。エルシャの口元がわずかに動いて、何かを呟いた直後、ずきんずきんと悲鳴をあげていた唇から痛みがとれていく。エルシャの手から、目に見えない力が流れこんでくるのを感じた。
すべての痛みがひいたとき、エルシャは彼女から手を離した。ナイシェは恐る恐る頬に触れてみた。腫れていない。傷も治っている。
「あ……あなたは……」
ナイシェが言葉を失っていると、フェランがいった。
「エルシャはね、白魔術を使う神官なんです」
ナイシェは口をぽかんと開けてエルシャを見つめた。
「とてもそうは見えないだろ」
エルシャがおどけていう。ナイシェは首を振った。
「そんなこと……。あの、どうもありがとう……」
「どうってことはないよ。それより、宿の中へ入ろう。まず体を乾かさなきゃな」
二人は、すっかり気の抜けたナイシェを部屋へと誘導した。
雨受けはバケツからたらいに変わっていた。フェランは宿屋の主人から借りた女物の服を持ってナイシェと階段を上っていった。エルシャはカルヴァに、とりあえずの報告に行っている。
フェランは部屋に異変がないか確かめると、ナイシェだけ中に入れた。
「僕は外で見張っていますから、ゆっくり着替えていいですよ」
フェランから服と布を受け取ると、扉が閉まり、室内にはナイシェ一人になった。ナイシェは布で髪を拭き始めた。静かになった狭い部屋は、ナイシェを孤独にした。ニーニャとのことや自分の不甲斐なさを思い、気を緩めるとすぐ目頭が熱くなる。
「は……早くしなきゃ。フェランが待ってる……」
ナイシェは手早く着替えると、扉を開けた。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「ああ、終わりましたか」
フェランはにっこりと笑った。ナイシェは、こんなに美しい人をこんなに間近で見ていいのだろうか、と思った。本当に澄んだ瞳をしている。
「はい、下から熱いお茶をもらってきました」
「ありがとう……」
おまけに、とても気が利くんだわ。
ナイシェはお茶を受け取ると、一口飲んで息をついた。フェランは、丁寧に編んで一束にした栗色の髪に軽く布を押し当てるようにして、水滴を拭き取っている。
「もうすぐエルシャが帰ってくると思いますが、もっとのんびりしていていいですよ」
しなやかな絹の糸のように紡がれるフェランの言葉は、ナイシェの心を穏やかにした。これほどまでに優しく暖かな声を、ナイシェは知らなかった。先ほどまでの高ぶりが嘘だったかのように、ナイシェは落ち着きを取り戻していた。
「戻るか戻らないかは、わからないといっておいたよ」
宿に戻ってきたエルシャがいった。ナイシェは困惑した。この十一年間、ニーニャにはとても厳しくされ、同じ一座の仲間たちがいなければ、自分はとうに一座を離れていただろうとも思う。しかし、それでもニーニャは十一年間自分を養ってくれた恩人だ。それに、これだけ人に迷惑をかけて、このまま一座を離れるなんて不義理なことだと思う。本来なら、戻るべきなのだ。それでも、しばらく前から心の中にくすぶっていた考えが、いよいよ頭をもたげる。
「……たまには、自分に正直になってみてもいいのでは? いつもいい人でいる必要はないんですよ」
フェランが優しくいう。
「私……」
静寂があたりを包む。二人はただ静かにナイシェを待っていた。
ナイシェは心を決めていった。
「私……もう、戻りません。姉のところへ、帰ります」
「お姉さんがいるのか」
エルシャが興味深げにいった。
「ええ。二十になる姉がいるの。トモロスに住んでいるんです」
「トモロスか。女性の足で行くには、ここからだと少し遠いな」
「そうね……。でも、他に行くところはないし……。エルシャさんたちは、旅の方なの?」
ナイシェが尋ねた。
「まあ、そんなところだな。特に行き先は決めていないが」
「まあ、それじゃあ」
ナイシェの顔に笑みが浮かんだ。
「うちに、寄っていかない? トモロスの家でなら、お礼に食事とかたくさんごちそうできるし……あの、ちょっと物騒なところだけど、もしよかったら……」
「……そうだな」
少女が真剣なまなざしで見つめている。
「そういうことなら、寄らせてもらおうか」
エルシャの返答に、ナイシェは、手を叩いて喜んだ。
雨の中、二人に会ってほんの一時間もしないうちに、これほどまでに心が平穏を取り戻していることに、ナイシェは驚いていた。
白魔術を使う神官のエルシャと、その連れのフェラン。この二人は、接しているだけで人を癒してしまう、何か不思議な力を持っているに違いない。
漠然と、そう思った。
エルシャは軽やかに逃げてゆく少女の手首をぐいとつかんだ。それでも、少女は顔をそむけたままだった。
「ナイシェ」
フェランが、そっとナイシェの肩に手を置いた。肩が、震えている。寒さのためだけではなかった。
「ナイシェ、こんなところにいると病気になるよ……」
エルシャがそういったときだった。
「う……っ」
ナイシェが突然、エルシャの胸に顔をうずめた。
「うう……っ」
ナイシェは声を殺して泣いていた。
「わ……私……」
体を震わせて嗚咽する小さな少女の髪を、エルシャはそっと撫でた。
「大声で、泣いてしまえよ。すっきりするぞ」
しかし少女は、小さく首を振っただけだった。
「……ごめんなさい。私……帰れない……。そう伝えてください」
ナイシェは顔を背けて再び雨の中駆け出そうとした。しかし、エルシャが放さなかった。
「そんなにひどいことを? いや、俺の口出すことではないが……とにかく、そんな格好で歩いていたら目立つし、この雨だ。外を出歩くのは……」
エルシャはいいながらナイシェの顔を覗きこんだ。しかし、ナイシェは慌てて横を向いた。
「どうしたんだ」
エルシャは嫌がるナイシェの顔を両手で包みこむようにはさむと、無理やり前を向かせた。
「やだ! 放して……!」
暗闇の中、街灯がわずかに照らし出したのは、青く腫れた唇の端と、そこからにじむ血。明らかに、殴られた痕だった。ナイシェは素早く醜い青あざを片手で隠した。しばらくの沈黙の後、フェランがいった。
「ニーニャに……?」
ナイシェは唇をかんだまま何もいわない。
「……傷を見せてごらん」
エルシャが優しくいった。しかし、少女は動かなかった。エルシャは小さくため息をつくと、掌でゆっくりと傷口に触れた。
「や……」
その手を振り払おうとして、ナイシェは不思議な感覚に襲われた。エルシャの口元がわずかに動いて、何かを呟いた直後、ずきんずきんと悲鳴をあげていた唇から痛みがとれていく。エルシャの手から、目に見えない力が流れこんでくるのを感じた。
すべての痛みがひいたとき、エルシャは彼女から手を離した。ナイシェは恐る恐る頬に触れてみた。腫れていない。傷も治っている。
「あ……あなたは……」
ナイシェが言葉を失っていると、フェランがいった。
「エルシャはね、白魔術を使う神官なんです」
ナイシェは口をぽかんと開けてエルシャを見つめた。
「とてもそうは見えないだろ」
エルシャがおどけていう。ナイシェは首を振った。
「そんなこと……。あの、どうもありがとう……」
「どうってことはないよ。それより、宿の中へ入ろう。まず体を乾かさなきゃな」
二人は、すっかり気の抜けたナイシェを部屋へと誘導した。
雨受けはバケツからたらいに変わっていた。フェランは宿屋の主人から借りた女物の服を持ってナイシェと階段を上っていった。エルシャはカルヴァに、とりあえずの報告に行っている。
フェランは部屋に異変がないか確かめると、ナイシェだけ中に入れた。
「僕は外で見張っていますから、ゆっくり着替えていいですよ」
フェランから服と布を受け取ると、扉が閉まり、室内にはナイシェ一人になった。ナイシェは布で髪を拭き始めた。静かになった狭い部屋は、ナイシェを孤独にした。ニーニャとのことや自分の不甲斐なさを思い、気を緩めるとすぐ目頭が熱くなる。
「は……早くしなきゃ。フェランが待ってる……」
ナイシェは手早く着替えると、扉を開けた。
「ごめんなさい、待たせてしまって」
「ああ、終わりましたか」
フェランはにっこりと笑った。ナイシェは、こんなに美しい人をこんなに間近で見ていいのだろうか、と思った。本当に澄んだ瞳をしている。
「はい、下から熱いお茶をもらってきました」
「ありがとう……」
おまけに、とても気が利くんだわ。
ナイシェはお茶を受け取ると、一口飲んで息をついた。フェランは、丁寧に編んで一束にした栗色の髪に軽く布を押し当てるようにして、水滴を拭き取っている。
「もうすぐエルシャが帰ってくると思いますが、もっとのんびりしていていいですよ」
しなやかな絹の糸のように紡がれるフェランの言葉は、ナイシェの心を穏やかにした。これほどまでに優しく暖かな声を、ナイシェは知らなかった。先ほどまでの高ぶりが嘘だったかのように、ナイシェは落ち着きを取り戻していた。
「戻るか戻らないかは、わからないといっておいたよ」
宿に戻ってきたエルシャがいった。ナイシェは困惑した。この十一年間、ニーニャにはとても厳しくされ、同じ一座の仲間たちがいなければ、自分はとうに一座を離れていただろうとも思う。しかし、それでもニーニャは十一年間自分を養ってくれた恩人だ。それに、これだけ人に迷惑をかけて、このまま一座を離れるなんて不義理なことだと思う。本来なら、戻るべきなのだ。それでも、しばらく前から心の中にくすぶっていた考えが、いよいよ頭をもたげる。
「……たまには、自分に正直になってみてもいいのでは? いつもいい人でいる必要はないんですよ」
フェランが優しくいう。
「私……」
静寂があたりを包む。二人はただ静かにナイシェを待っていた。
ナイシェは心を決めていった。
「私……もう、戻りません。姉のところへ、帰ります」
「お姉さんがいるのか」
エルシャが興味深げにいった。
「ええ。二十になる姉がいるの。トモロスに住んでいるんです」
「トモロスか。女性の足で行くには、ここからだと少し遠いな」
「そうね……。でも、他に行くところはないし……。エルシャさんたちは、旅の方なの?」
ナイシェが尋ねた。
「まあ、そんなところだな。特に行き先は決めていないが」
「まあ、それじゃあ」
ナイシェの顔に笑みが浮かんだ。
「うちに、寄っていかない? トモロスの家でなら、お礼に食事とかたくさんごちそうできるし……あの、ちょっと物騒なところだけど、もしよかったら……」
「……そうだな」
少女が真剣なまなざしで見つめている。
「そういうことなら、寄らせてもらおうか」
エルシャの返答に、ナイシェは、手を叩いて喜んだ。
雨の中、二人に会ってほんの一時間もしないうちに、これほどまでに心が平穏を取り戻していることに、ナイシェは驚いていた。
白魔術を使う神官のエルシャと、その連れのフェラン。この二人は、接しているだけで人を癒してしまう、何か不思議な力を持っているに違いない。
漠然と、そう思った。
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