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【第六部:終わりと始まり】最終章

終わりと始まり②

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 殺風景な執務室で、エルシャは黙々と仕事をこなしていた。山積みの書類に目を通し、一部には判をつく。柄に昇竜の施された、金の王印だ。国王らしい高尚な尊厳を表現しようとするあまり、非実用的なほどまでに重く扱いづらい代物になっている。もっと軽く小振りなものにすればいいのにとは思うものの、それを口に出すことはできない。代々の国王が使ってきた歴史ある王印だ。

 エルシャはひとつの書類に目を留めた。王国を南北に分断するカティヤ山脈以北の都市における、復興状況の報告書だ。すべての都市で、復興率が五割を超えている。まずまずといったところだろう。

 現在では『第二のタラ・ム・テール』と呼ばれている、一年前のあの天変地異は、アルマニア王国全体に甚大な被害をもたらした。稲妻や竜巻、地割れなどが各地を襲い、ほんの一時間にも満たない出来事だったのに、多くの建造物が倒壊し田畑を壊滅させた。死者も多く出し、国民はこれまでにない未曽有の恐怖と絶望を味わった。食料の流通も滞り、衛生状態の悪化から様々な感染症が流行した。治安も一気に悪化し、数百年続いたアルマニア王国は存亡の危機を迎えた。

 生き残った宮殿の貴族を総動員し、復興の指揮を執ったのが、エルシャだった。すぐさま各地へ派遣し、情報を収集した。彼らの権限として多くの兵士を帯同させ、医務方と魔術班を連携させ、特例的な国民の治療にあたらせた。
 治安については、テュリスに一任していた。アルマニア六世紋章盗難事件を担当していたテュリスは、そのとき培った警吏部との疎通を十二分に発揮し、実に効率よく取り締まりを行っている。犯罪発生率も、第二次タラ・ム・テール以前とほぼ変わらない水準まで落ち着いてきた。

 各貴族に多くの権利を委譲したとはいえ、国王の承認がなければ動かない事案はまだ山ほどある。頓挫した身分制度撤廃計画に関する書類もそうだ。リキュスの指示で進めていた新規の建築は、そのほとんどが倒壊を免れた。しかし、青玉宮を始め、一部の中級貴族の邸宅や点在する小劇場などは、修復不能なほどの損壊だった。リキュスの積み上げてきた改革案に、これらの状況を加味した修正を加え、再度新案として始動させることができたのは、あの惨劇から半年も経ってからだ。

 判をつく右腕が痺れてきた。肩が痛くなり、エルシャは大きく伸びをした。無意識に、右肩へ手をやる。
 あの日あのとき、天に金の光輝が広がるのを見たあと、自分は意識を失った。記憶にはないが、すぐに医務室へ運ばれ手当てを受けたらしい。宮廷魔術師の力により、右肩の傷は治癒したが、負傷後時間が経っていたせいか、傷跡は残り、機能的にもわずかに後遺症を残すこととなった。時折痛む肩や痺れる指先は、そのためだ。

 エルシャは時計を見た。
 今日は戴冠式だ。実際にはタラ・ム・テール直後から国王として実務を担っていたが、とても盛大な儀式などしている場合ではなかった。今日だって、ぎりぎりまで仕事をこなさなければ、するべきことは増えていく一方だ。

 儀式の衣装を持ってリザが私室へ来るまで、あと小一時間。

 しばし時計を見つめたあと、エルシャは席を立った。





 その日は快晴だった。東の空に太陽が昇り、雲ひとつない空を照らしている。
 カティヤ山脈の合間から臨んでいたサラマ・エステは、今ではその姿を消していた。一年前のあのとき、霹靂とともに頂上から崩れ落ち、カマル湖の底深くに沈んだのだ。カマル湖は、天にも届くほどにそびえたっていた岩山をその果てしのない懐に飲み込み、何事もなかったかのように今も鏡のような水面を湛えている。

 青々とした芝生を踏みしめ、エルシャはそこへ向かった。まだらな木々の間を抜け、わずかに小高くなった草原へと進む。
 そこは、黄昏宮の裏庭――子供のころ、いとこたちとよく遊んだ秘密の草原だった。視界が開け、穏やかな春風が頬を撫でる。柔らかくなびく草が、歓迎するかのようにエルシャの足元をくすぐった。
 エルシャは、草原の真ん中で足を止めた。そこだけ草が短く刈られ、手入れされた芝生に石碑が埋まっている。

 ――勇敢にして救世の王、アルマニア七世 リキュス・ガルシア ここに眠る――

 刻まれた文字をじっと見つめる。

「どうだ、リキュス? 今のアルマニア王国は、おまえの望む姿に近づいているか?」

 葉擦れの音しか聞こえない静かな草原で、エルシャは話しかけた。返事はない。

「おまえが、命を賭けて守った世界だ。これからは、俺が守ってみせる」

 あの日、エルシャが目覚めたとき、リキュスはそこにはいなかった。体の傷は治癒していたが、すでに手遅れだったと、医師に告げられた。信じたくはなかったが、寝台に横たわるリキュスの体は、氷のように冷たく白かった。それでもエルシャの脳裏に焼きついて離れないのは、穏やかに瞼を閉じ微笑んでいるようにすら見えたあの顔と、美しく逞しい背中だった――醜くリキュスの心と体を縛っていたあの傷跡は、跡形もなく消え去っていた。皆、そうだった。神のかけらが一万年ぶりにその持ち主へと還ったとき、サラマ・アンギュースの傷跡は、すべて消え去った。エルシャの腰の傷も、ティーダの額の傷も、ゼムズの心臓の傷跡も――神の民をそのくびきから解き放つかのように、それらは綺麗に姿を消した。

「――おまえの理念は、ちゃんと貴族たちに浸透しているぞ」

 いい聞かせるように話す。

「下級貴族も含めて全員が、この悲惨な状況に全力で立ち向かっている。身分など関係なく、ひとりひとりの力が結集して大きな成果を生んでいる。おまえのやり方は、正しかったんだ。アルマニア王国は、必ず立ち直る。だから――安心して眠るがいい」

 不意に、背後で足音がした。

「やはりここにいたか」

 やさしく響く低い女声。振り返ると、ジュノレが立っていた。

「そろそろ時間じゃないのか?」
「そうだな……戻らないと」

 ジュノレが隣に並んだ。しばらくの静寂のあと、口を開く。

「やっと、ここまで来たな」

 エルシャが自嘲を漏らす。

「まだまだだよ」

 ジュノレが笑った。

「おまえはそういうが、一年前に比べれば、どの町もだいぶ立ち直ってきた。そろそろ国民たちは、明るい知らせを望んでいる。今回の戴冠式だって、ワーグナが強く推さなかったらおまえは先送りにするつもりだっただろう? こういう儀式だって、復興の一助にはなるんだぞ。あれから一年……いい節目じゃないか」

 エルシャの頬が緩んだ。

「それもそうかもしれないな……。いつまでも、沈んでばかりはいられない。国民は、いつもの笑顔を取り戻すべきだ」
「……おまえもな」

 ジュノレがそういってエルシャの肩を軽く叩いた。

「心配するな。おまえの悪い癖が出たときは、私が引っ張り上げてやる。おまえはひとりではない。国王の重責を、すべて背負い込もうとするなよ」

 はっとして、ジュノレのほうを振り向く。真摯なまなざしの向こう側に、かすかな後悔が見えた。その後悔の正体を、エルシャは知っていた――自分も、同じ感情に苦しんできたから。

 エルシャはジュノレの肩を引き寄せた。

「リキュスの命を、無駄にはしない。必ずこの国を、元の姿に――いや、よりよい国に、変えてみせる。ジュノレ……そばで、支えてくれるか」
「もちろんだ。はじめから、そのつもりだよ」

 そういうジュノレの顔がほころんでいるのが、見なくてもわかった。
 たおやかな風が草原を愛で、二人を包む。かすかに甘い緑の匂い、心地よい葉擦れの音、柔らかく肌を撫でる空気、空に広がる鮮やかな青――そのすべてが、二人を庇護祝福するかのように、大地を満たした。
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