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【第六部:終わりと始まり】第九章

最期の言葉

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 自室に戻り上着を脱ぐと、リキュスは真っ白な壁に掛けられた大鏡を見つめた。
 いつもと変わらない自分が、今日だけは自分でないように感じられた。

「神の民、か……」

 声に出してみる。まったくぴんと来なかった。だがその一方で、納得している自分もいた。
 いつできたのかも覚えていなかった、背中の傷。覚えていなくて当たり前だったのだ――母の死に際の記憶は、丸ごと忘れ去っていたのだから。

 ――愛しているわ、リキュス。

 確かに、そういわれた。あの直後、母は自分の背中にナイフを突き立てていたということだ。皮肉すぎて笑いが漏れる。幼い少年には、さぞかし忘れ去りたい事実だったに違いない。だから自分は、母から譲り受けた封印の力で、まずはその忌々しい記憶を封じ込めることにしたのだろう。時折起きる発作も、自らを守るために発動されたかけらの力なのだろうか。

 リキュスは両の手のひらを眺めた。

 封印だの解放だのいわれても、そのやり方がわからない。神の民ならば、誰でもその方法を自然に身に着けているものなのだろうか。

 もう一度、鏡に映った自分を見る。

 兄上のいうとおりだ。この力を理解し、兄の役に立ちたいと願うなら、まず私は、忘れている母との最後の記憶を、解放すべきだ。

 リキュスは自分の胸に手を当て、目を閉じた。最後の母の笑顔が蘇る。青白い肌と、こけた頬。それでも、最後までやさしさに溢れた笑顔だった。

 そうだ、あの母上が、ただ傷つけるためだけに私に刃物を向けるなどあり得ない。

 ――最後に、お母さんのいうことを聞いてちょうだい。

 愛の言葉を告げたあと、母は続けてこういったのだ。その内容が、ずっと思い出せなかった。エルシャにいわれ、リキュスは気づいた。母の最後の頼みとは、神のかけらに関することに違いない。

 突然、体を鈍痛が貫いた。呼吸が苦しくなり、思わず胸を掻きむしる。

「くそ……、ま……た……」

 リキュスは目を剥いて奥歯を食いしばった。

 オモイダスナ、オモイダスナ――!

 どこからか、警鐘を鳴らす声がする。だが、ここで屈するわけにはいかなかった。この発作が封印のかけらに関わっているというのなら、これに打ち勝つことでしかその力は手に入らない。
 激しい動機と頭痛を堪えながら、リキュスは懸命に思い出そうとした。

 ――最後に、お母さんのいうことを聞いてちょうだい。

 母の右手に、光る刃物が握られている。

「うあ……っ!」

 頭が割れるような痛みに、思わず目を閉じる。真っ暗になった視界に浮かんだのは、ナイフを自らの腹に突き立てる母の姿。

 オモイダスナ、オモイダスナ!

 金づちで殴られているようだ。あまりの痛みに息もできない。

 ――このかけらが、あなたを守ってくれる。決して、手放してはいけません。

 血だらけの青白い手に、小さなガラスの破片が握られている。

 リキュスはその場に倒れ込んだ。体がこわばり、意識が遠のく。
 もう、目を開くこともできなかった。底なし沼に吸い込まれるように、母の姿が小さくなっていく。あらがう意識と記憶は、黒闇の深淵へと引きずり込まれ、やがてその奈落に同化して消えていった。

 ――このかけらが、あなたを守ってくれる――
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